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 第一章 缶コーヒーメーカーの下っぱ岡野あゆむ

 ぼくこと岡野あゆむは夏の半ばに頭のうすい橋本係長にしぼられていた。同期の山田と缶コーヒーメーカーのスポーツドリンクをあつかう営業二課のオフィスで。

 二十四歳にもなってぼくらふたりは学生みたいに机の前にならばされた。見おろす係長の頭頂がバーコードに見えた。このバーコードにレジ用スキャナをあてたらいくらと表示されるかななんて妄想にぼくはふととらわれた。二九八〇円かな? 五百円かな? 百円はないよなきっと。

 バーコード係長がぼくと山田に指を突きつけた。課長にちらっと目をやって声を高める。

「岡野! 山田! お前らどうしてそんなに気がきかねえんだ? 現物だけを持ち帰るやつがあるか!」

 ぼくらをしかるというよりバリバリ仕事をこなしていると課長に知らせたいらしい。この四半期わが社はライバル社にしてやられて業績がさんざんだった。

「いくら課長に『Tシャツのサンプルを受け取って来い』と指示されたといえだ。説明書のひとつもつけてもらわないなんてガキの使いじゃねえぞ。もう一度行って来い!」

 橋本係長の言葉にひたいの汗をふきながらぼくはあげ足を取った。

「でも係長。Tシャツに取扱説明書なんてありませんよ普通」

 エアコンがフル稼働しているけど汗をとめられない。それくらい暑い夏だった。となりに立たされている山田がぼくのわき腹をつついた。よけいな口をはさむなと。

 営業二課は缶コーヒー会社のわが社のスポーツドリンク部門担当だ。猛暑のいまがかせぎどきだった。この先はまっ逆さまのくだり坂が待つ。

 秋や冬は夏ほどスポーツドリンクが売れない。だから係長はハゲ頭から煙が立つほどあせっていた。Tシャツのプレゼントはありふれた手だけど苦肉の勝負策だ。けど説明書付きのTシャツなんて聞いたためしがない。

 手を出す穴から首を出さないでください。そのまま外に出るとひとさまに笑われる恐れがあります。くれぐれも恥をかかないようご注意をねがいます。とでも書いてあるのかな?

 バカヤローと係長が両手でデスクをはたいた。てのひら痛そう。

「たかがスポーツドリンクの景品のTシャツだろうが売りはあるだろ! どんなくだらねえ点でも特徴があるだろさ! いまの時代Tシャツをあげますってだけで売上がのびると思ってるのか! そのTシャツがどんなにすっばらしいかアッピールするのが肝心なんだ! わかったなアッピールだぞ! わかったらさっさとTシャツメーカーに行って売りを手にもどって来ーい!」

 係長がアッピールとせいいっぱいのまき舌でわめいた。

 ぼくと山田はすくみあがって係長の机を離れた。もう一度くちごたえすると次はぼくらの頭にズゴンと鉄拳が落下する。わが社ではセクハラは容認されないけど体罰は黙認だ。男は損だね。係長が机をたたいた時点で逃げるのが営業二課の課則なんだ。社員手帳にそんな条項はないけどね。

 山田が口をとがらせて先行するぼくのシャツをつかんだ。

「おい岡野。よけいな反論をするからまた怒鳴られたじゃないか。おまえったら要領わりぃぞ。上司にはハイハイとだけ答えておけばいいんだ」

「ごめん。そのとおりだな」

 ぼくは反省した。つい余分なひと言を口走るのがぼくの悪いくせだ。

 ぼくらが二課室をでると可愛い女子社員がぼくに声をかけて来た。胸の名札に『総務課・井坂レナ』と書かれていた。二十歳になったばかりといった初々しさがこぼれて見えた。

「あのバーコードハゲ。岡野くんが一流大学を出てるからやっかんでるだけよ。気にしちゃだめ」

 レナがニッコリとぼくにほほえみかけた。ぼくはレナの顔をしげしげとながめた。レナの顔には純真そのものの仮面が貼りついていた。

 なんだこの女とぼくは不審を感じただけだ。軽く会釈して足をとめなかった。体験からこの手の笑顔で近寄る女は恋人商法だと知っていた。ぼくにはダイヤの指輪も着物も絵画も必要はない。係長向けの呪いの藁人形ならちょっとほしいかも。

「おれはおれは? おれだってしぼられたんだぜぇレナちゃーん」

 山田がレナに自分を売りこんだ。だがレナの顔が山田に向きはしなかった。

 ぼくは笑顔をふりまくレナを無視して山田の背中を押した。レナを山田に近づけちゃいけないと思ったんだ。山田が見栄を張って買ったBMWのローンに追われて現金にこまっているのはわが社の誰もが知っていた。

 ヒラ社員の名前なんか最初からおぼえるつもりのない社長でさえ山田の名前は知っていた。犯罪に走らないよう特に注意しろと課長に耳打ちしたそうだ。わが社の評判を落とす最短距離の社員らしい。

 ゴールは近いぞ山田。課長はそんなふうに口にした。冗談とも本気ともつかない口調で。

 そんな山田がアイドルみたいに可愛いレナに引っかかる。するとさらなる借金を背おって夜逃げしなきゃならなくなる。そうなるとぼくといっしょに係長にしぼられてくれる同期がいなくなる。ただでさえぼくの同期で残っているのはこの山田だけなのに。

 ぼくらはレナをすりぬけてエレベーターに急いだ。

 ぼくと山田は大きな交差点で赤信号をながめていた。先に待っている人たちのうしろにちょこんとならびながらね。ぼくらはあせっていた。けど他人を押しのけるなんてぼくにはできない。退社後の山田なら一番前に強引にわりこむ。でも今日はうるさい係長の元に帰るのを一歩でも遅らせたいらしく素直に最後尾でだれていた。

 盆もすぎたのに太陽がジリジリと燃えていた。街はすごく暑い。クーラーの効いた社用車は営業一課と先輩たちが独占していてぼくらは自分の足しかない。

 山田がぼくに顔を向けた。

「なあ岡野。喫茶店に寄ろうぜ。汗をかわかさなきゃ他社に顔を出せないぞ」

 目に入った汗に弱気になったぼくは山田の提案に乗ろうかと顔をあげた。

 そのとき左右に流れる車線の信号が変わった。黄色から赤に移った。交差点の信号すべてが赤だ。

 すべての信号が赤という空白状態を五歳前後の男の子がついた。歩道にいる全員を追いぬいて車道にふみ出した。男の子は横断歩道のとば口で立ちどまった。ふり返る。あっけに取られて硬直しているぼくらに憎々しげな笑顔を投げて寄越した。ぼくが一番だ。ざまあみろと。

「くそガキめぇ」

 負けずぎらいの山田が最前列までわりこんだ。先行した男の子を追い越すため車道に靴底をつけた。まだ歩行者用信号は赤のままだ。

 靴底をふるわす地ひびきがぼくの胸に不安の高波を立てた。

 右から巨大な質量がせまる気配にぼくは首をすくませた。とたんにゴーッと音を立ててトラックが横断歩道をめがけて突っこんで来た。乱暴な運転ですごいスピードだった。信号が変わる直前に交差点を突っ切ろうとあせったらしい。

 だが足の遅いトラックでは信号無視だ。おまわりさんが立っていたら違反切符を発行される判断ミスにちがいない。

「うわあっ!」

 山田が声をあげて車道をふんだ靴を引きもどす。ケンケンした。

 とっさにぼくは思った。横断歩道の男の子を助けなきゃと。けど身体が動かない。いったんすくんだ足はぼくの命令どおりに反応しなかった。ガクガクとぶれるだけだ。

 ぼくが身もだえしたときふたつの音が同時に聞こえた。キャーッとしぼり出された人々の悲鳴とキキーッときしむブレーキ音だ。もどかしさにぼくは鉄錆び味のするくちびるをかんだ。もつれる足を必死で動かそうとぼくはあせった。

 信号待ちの全員が目をまん丸にして横断歩道の白と黒の縞々を見ていた。得意げだった男の子の顔があった場所に大型トラックの側面が壁をきずいていた。最初からいたみたいにだ。

 男の子はどうなったのか?

 目玉をみんなが左右に泳がせた。次に全員がしぶしぶ黒目をトラックの車体下に移動させた。ぼくの心臓はぼく自身が事故ったかのようにドクドクとはねた。ぼくもおそるおそる目線を下にねじ向けた。

 無音無言の瞬間が目の前を通りすぎた。息がつまった。

 トラックの運転手がまっ青な顔でアスファルトをふんだ。そのとき動きが見えた。トラックの下から絶対にひかれたと思った男の子が這い出て来た。トラックの運転手と男の子が目を合わせた。

 男の子は泣きじゃくっているがひざこぞうのすり傷だけみたいだ。運転手が冷たい無表情を顔に貼った。唾を吐いてサッと車に乗りこんだ。

 トラックが発進した。

 信号待ちの人たちもホッと胸をなでた。なにもなかった顔で全員が思い思いの方向に靴を出した。一瞬凍りついた交差点が活気を取りもどしてまた流れはじめた。

 男の子は近所のおばさんらしい人になだめられていっしょに去った。

 ぼくはぼうぜんと横断歩道に目をすえたままだった。山田が信号をわたり終えてもぼくだけが誰もいなくなった横断歩道を見つめていた。

 ぼくは点滅をはじめた青信号にやっと仕事を思い出した。横断歩道を駆け足でわたった。追いついたぼくに山田が引きつった笑顔を向けた。

「しつけのなってないガキだったな」

「う。うん」

 ぼくはすっきりしない胸をかかえうなずいた。

「おれさ。やろうと思えばあのガキを抱いてトラックの前から逃げてやれたんだぜ。けどおれには見えたからな。あのガキがトラックの下にもぐって助かるとこが。だからやらなかったのさ。でも飛び出せばヒーローになれてかっこよかったかな? やろうと思えばできたんだからな。お前だってそう思ってくれるだろ岡野? おれはぎりぎりまで最前線でふみとどまって見きわめてたんだ。あのガキが助かるかどうかをな」

 うそをつけとぼくは思い返した。お前が誰よりも先に車道から足を引いたんじゃないかと。

 山田がぼくの顔色を読んだのか口をとがらせた。

「うそじゃないぞ。おれは中学のころに人命救助で表彰状をもらったこともあるんだからな。警視総監賞を十三回ももらったんだぞ」

 山田はTシャツメーカーに着くまでえんえんとその自慢話を披露しつづけた。ぼくはハイハイと聞き流した。

 今度山田が忘れたころに警視総監賞を何回もらったか訊いてみよう。増えるか減るかは不明だが十三回じゃないのはたしかだきっと。


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