第一章⑥ 繋がりし者
長老の杖が床を打つ音と、ルエラの皿が割れる音が重なった。二人の四肢はわなわなと震え、顔は恐怖に歪んでいる。
「......か、禍黎霊よ」
ハル・エトワーレ広場のどこかで、のどを詰まらせたような細い声がした。長老やルエラだけではない。何人たりとも、正面の光景を受け入れられないでいた。
ゆえに動けない。現状何をすべきなのか、誰も答えを出せないからだ。凍てつく大蛇の瞳孔に怯え、立ちすくむほかないからだ。
大蛇は猶予をくれなかった。無情にもとぐろをほどき、頭を下げ、ずるずると這い寄ってくる。全長は十五メートルくらいありそうだ。古代の恐竜を思わせる巨大な咥内には、長く鋭い牙が無数に並んでいる。
蛇が動き出すと同時に、広場に張り詰めていた緊張感が爆発した。たちまち大混乱に陥り、至る所で悲鳴が飛び交う。皆が皆、てんでばらばらに逃げ出した。
蛇から逃げ惑う大勢をよそに、一人、それに吸い寄せられる少年がいた。蛇の周囲で揺らめく漆黒のもやが、アマネールの目を釘付けにしたのだ。
少年の先に佇むのは、たしかに禍々しいもやを纏う大蛇である。しかしアマネールの目には、炎々と燃え盛る業火が映っていた。炎の如く揺らぐ蛇のもやが、彼に眠る緋色の世界を呼び起こしたのだ。
目がずきずきと痛む。けれどアマネールは、大蛇から逃げ出すことはおろか、目線をそらすこともできなかった。
今逃げようものなら、大切な何かを失ってしまう。逆に言えば、決して失いたくない、守りたい何かが視線の先にある。そんな恐怖が、あやふやな願望が、アマネールをこの場に縛り付け、一歩一歩と進む原動力になった。
声が聞こえる。僕の中で響く声が。大切な人の、声が。
「早く......私を......て............アマネール......早く......」
聞こえない。もっとだ。もっと近づかないと。僕が......傍にいてあげないと。
前進する少年は、ついに最前線で大蛇と向かい合った。双方の距離は十メートルもない。
しかしアマネールは、その事態を認識できずにいた。今や視界に蛇の姿はなく、一面を猛り狂う炎に支配されていたのだ。
一方で、蛇の挙動は大きく変わった。動きを止め、鎌首をもたげる。まるで獲物を見つけたかのように、アマネールを見下ろしていた。
「危ない! アマネール!!」
鼓膜を破るような絶叫が炎をかき消し、少年を強引に現実へ連れ戻した。声の主は、先日アマネールを船に乗せたセルルスだった。両腕を広げたセルルスが、アマネールを守る盾として、大蛇との間に割り込んだのである。
次の瞬間だった。大蛇の顎が急降下し、鋭利な牙がセルルスを襲った。噛みついた勢いそのままに、蛇の頭はぐんぐん上昇する。あっという間にセルルスは十メートルほど持ち上げられた。
考えることもなく、アマネールは駆け出していた。不思議な感覚だった。身体が勝手に動いたようだ。五感が研ぎ澄まされていて、自分が何をすべきか、何ができるのかがはっきりとわかった。
アマネールは飛ぶように広場を走り抜け、縁に立つ時計台まで辿り着くと、その外壁を駆け上がった。塔の中腹まで到達したところで、渾身の力で壁を蹴り、地に背を向けて飛び上がる。弧を描くように宙を舞い、蛇の頭部を視界にとらえると、反った体を素早く回転させ、会心の蹴りを叩き込んだ。
その衝撃で、大蛇は咥えている獲物を落とした。セルルスが真っ逆さまに落下する。アマネールは空中で体勢を直し、弾丸の如く大地に突っ込んだ。風を切る音が耳を打つ中、間一髪でセルルスを抱えこむと、急激な下降を制御して滑らかに着地した。
着地すると同時、アマネールは足の周りを漂う黒いもやに気付いた。大蛇が纏うのと同じ、炎の如く揺らめく漆黒のもやが、少年が今しがた力を込めた箇所に発現したのだ。
「......やはり、私の目に狂いはなかった............アマネール様......あなた様はこんなところで終わってはなりません」
アマネールの足に手を添えて、息も絶え絶えにセルルスが告げた。
「セルルス、駄目だ! もう喋らないで」
「あくまであなたが討つのです......君が......世界の闇を晴らすのですよ」
そう言葉を残し、男は眠りにつくように目を閉じた。
「セルルス! セルルス!!」
アマネールの呼び掛けも虚しく、セルルスからの返事を聞くことはできなかった。アマネールの耳に入るのは、激しく脈を打つ自身の心音と、背後で蛇が発するシューッという威嚇音だけだった。
セルルスをそっと寝かせ、アマネールは振り返った。そして明確な殺意を込めて、白く光る大蛇の瞳孔を睨みつけた。
視線がかち合ったのを合図に、両者は動き出した。アマネールは助走をつけ、力一杯飛び上がる。十メートルは浮いたであろう、重力を無視したような跳躍だった。間髪を入れずに拳を振りかぶり、アマネールは蛇の頭へ突撃した。
だが、敵は一枚上手だった。鞭のようにしなやかに首を伸ばし、少年の後ろに回り込んだのだ。
......しまった! やられる.......。がら空きの背中を捉えられ、アマネールは思わず目をつむった。
けたたましい金属音が耳を貫く。瞬間、アマネールは確かな衝撃を受けたけれど、痛みを感じはしなかった。
恐る恐る目を開けると、アマネールは宙に浮いたまま、一人の男に抱きかかえられていた。どこから現れたのだろうか、少なくともアマネールが男を見たのは初めてだ。
男は右腕でアマネールを抱え、少年をかばうように左腕を突き出している。無慈悲にも、大蛇はその左腕を咥え込み、牙の先端は肩にまで届いていた。
「あの......大丈夫?」
アマネールは思わず尋ねる。
「問題ない。こちらこそ、遅れてすまなかったな」
男はさも余裕そうに答えた。見ると、男の体から凄まじい量のもやが噴き出している。淡く青い光沢を湛え、白銀に煌めくもやは、まるで月明かりのよう。淡青と銀白が一緒くたに混ざり合った、夢幻的な光であった。
その光は男の全身を包みつつも、とりわけ左腕の周りに集中していた。このもやが強固な盾となり、蛇の牙が刺さるのを防いでいるようだ。
「これ以上はよしてくれると助かるな」
男は淡々と言葉を紡ぎ、大蛇に冷ややかな目を向けた。
「とっとと去れ」
数秒間、両者はにらみ合った。すると突然、何かを観念したように蛇の形が崩れ始めた。頭部から順に、砂の如く崩れていく。
「......死んだの?」
アマネールは毒気を抜かれたように訊いた。
「いや、蛇を呼び出した野郎が意図的に星霊を収めたんだろう。当の本人は、この近辺にいないだろうな。気配がまるでない」
蛇は徐々に輪郭を失い、やがて跡形もなく消え去った。
男はセルルスの近くに飛び降り、すぐにその容態を確認し始めた。
すらりと背が高く、引き締まった体をしている。二十歳手前くらいだろう。艶のある黒髪が頬の中ほどまで伸び、睫毛の長い中性的な顔を縁取っていた。胸元の開いたシャツからは、月光さながらに幽玄な青白い光を放つ、巨大な石があしらわれたネックレスが覗いている。
アマネールはというと、その場で呆然と立ち尽くしていた。自分さえいなければ、セルルスは襲われなかった。そんな自責の念に苛まれていたのだ。
「心配するな。気を失っているだけだ。死にやしないよ」
ひとしきりセルルスの体を確認したのち、男はアマネールに声を掛ける。その声色はとても優しかった。
「ところで君、頭に強く残ることがあるだろ? どこまで鮮明に見えている?」
アマネールがこの手の質問をされるのは、死後の世にきて二度目だった。
「うっすらと声が聞こえるんだ。誰かが、助けを求めているような......」
初めて声を自覚した当時、伝えたい内容まではわからなかった。しかし今ほど、アマネールはおぼろげにその想いを感じ取れた気がしたのだ。
「うっすら、ねえ。それであの芸当か。到底計り知れないな、君が秘める力の神髄は」
どこか嬉しげなため息をつき、男は話を続けた。
「この世界には一部、断片的な前世の記憶を持つ人間がいる。すなわち、前世の魂の欠片をね」
......前世の......記憶。アマネールの眼窩にちくりと痛みが走った。
「その名を繋がりし者。死後の世を象徴する神秘、星の力を与えられた者だ」
男はアマネールに視線を投じ、穏やかな口調で言った。
「君もその一人さ」
「前世から持ち込んだ魂の欠片と、この世界で得た新たな魂。星の力の本質は、それらの魂の共鳴だ。双方の魂が共存し、本来なら断じて相容れない二つの世界が交わるとき、人と天上とが結ばれるのさ」
話の全貌がまるで見えないアマネールは、男の説明を聞くだけに集中した。
「端的に言えば、天結なしで星霊を呼び出せるのが繋がりし者だよ」
アマネールは、先ほど長老がしてくれた話を思い出した。遠い昔、天結なくとも星霊を操れる人間が、星の力を持たざる者を虐げたと。圧倒的な権力で民を支配し、奴隷のように扱ったと。長老は確かにそう言った。
「僕、力で支配なんかしない」
少年は反抗的に言った。
「わかってるさ」
男ははっきりと断言した。
「そう嫌な顔をするな。俺だって繋がりし者だぜ? 誰に何を吹き込まれたか知らないが、繋がりし者であること自体に善悪はない。星の力は、真に平等なんだ。故に宿る人物を選ばない。かつてはたまたま悪人に力が渡っちまった。たったそれだけだ。
もちろん、君は連中とは違う。現にセルルスを助けただろ? 君が下した選択に、君に宿る星霊が応えたのさ」
アマネールは首を傾げる。彼が知る星霊は、小獅子座に牡牛座に飛び魚座等々、実際の星座を象ったものだ。だから今、自分が星霊を顕現したとは思えなかった。
「その様子じゃ、星霊を呼び出したのは初めてかい? なら教えて進ぜよう、星霊使いには種類がある」
男は澄まして言った。
「おそらく君が知っているのは、とある星座を霊体として大地に顕現する、召喚式の星霊使い。小獅子座の星霊を扱うコスモメアのばあさんや、飛び魚座を扱うセルルスがそうだ。それと、さっきの蛇もだな。
でもそれだけじゃない。この世界にはもう一つ、結束式と呼ばれる星霊使いがいる。己の身体そのものに星霊を宿し、人智を超える力を得た星霊使いがね」
......人智を超える力。男の言葉を反芻しつつ、アマネールは先刻の動作を思い返していた。まるで空を飛んだような気分だった。
「俺も結束式だ。それに、彼女も」
男は天に目をやった。アマネールも釣られて見上げると、あろうことか、空から女の人が降りてきた。驚いたことに、灰色のもやを纏った翼が背中から生えている。
二枚の翼は、たしかにアマネールが知る星霊と同様、半透明に煌めいていた。まさに男が言った通り、星霊を身体に宿しているようだ。
「君と同じだよ」
大地に降り立つとともに、彼女は優雅な翼をしまった。羽さえなければ、何の変哲もない人間である。召喚式の星霊使いに呼び出された星霊が、彼らの意思のもとに動くように、結束式の星霊使いも自由に星霊を制御できるようだ。そう言えば、アマネールの足元を漂っていたもやはいつの間に消えていた。
「来てもらって早々何だけど、クレア、後は頼む。重体だ。あまりゆっくりはしていられない」
男は軽々とセルルスを抱えこんだ。彼の傷一つない左腕とは対照的に、セルルスの腹部からは大量に血が出ている。その無残な有様に、アマネールの胸が堪らなく痛んだ。
「部下の扱いは相変わらずですね。はいはい。私にお任せください」
不満げなセリフを吐いた割に、クレアと呼ばれた彼女の声は上ずっている。
「悪い、恩に着る」
去り際に、男はアマネールへ声をかけた。
「少年。君は人を......世界を救う存在だ。それだけの力が君にはある。だが今はまだ、その片鱗に過ぎない。もしこれ以上、君に眠る星の力について知りたくば、本土まで来るといい。歓迎するよ」
そう言うや否や、彼は一瞬で消え去った。まるで神隠しのようだった。