第一章③ 星霊
牛は大層なキャビンを牽いていた。金銀で装飾された四輪車だ。
御者台に座るのは、燕尾服だろうか、裾が長い黒のコートに白のベスト、白の蝶ネクタイに身を包む男だった。出で立ち同様、髪や髭も小奇麗に整えられている。ルエラより一回り若く、年は三十前後に見えた。
「お待たせいたしました」
男は細やかにお辞儀する。顔を上げると同時に、彼はアマネールに気づいたようだ。
「お連れ様ですか?」
「ええ。そういうことにしましょうか。せっかくの好意を無下にするのもなんだし」
ルエラはキャビンに乗り込み、アマネールを手招きした。
「付き合ってくれてありがとう。楽しかったわ。せっかくだし、お礼させてちょうだい」
ルエラとは対照的に、アマネールは呆然と立ち尽くしていた。
間違いない。この白く透き通った牛は、先ほどの獅子と同種のものだ。しかし今、アマネールは純白の空間に比べて現実的な世界にいる。そのため、牛が周囲から一層浮き上がって見え、空色の獅子よりも奇妙に感じられた。
「いいからほれ、乗った乗った」
半ば強引に、ルエラは少年をキャビンに引きずり込む。お礼と言えば聞こえは良いが、アマネールからすれば誘拐も同然だった。
空色の獅子と相も変わらず、牛車の乗り心地は良好だった。
「星霊って言うのよ。綺麗でしょ?」
ルエラはにこやかに笑って語りだした。
星の霊と書いて、星霊。それは、この世界を象徴する神秘的な力。その名の通り、本来空を住処とする星座を、霊体として地上に顕現させたものだそうだ。
「今私たちを牽くのは牡牛座の星霊。あなたをエステヒアまで連れてきたのは、小獅子座の星霊ね」
星霊が持つ最大の特徴は、現実離れした美しさにある。淡く透き通った身体の周りに、神秘的なもやが漂うのだ。
星霊の佳麗さは個体ごとに異なり、例えば牡牛座の星霊は透明度の高い純白に、小獅子座の星霊は澄んだ空色に煌めく。ひとつひとつが独自の輝きを放つ、言うなれば宝玉のようなその存在は、本当に宝石が投影されているらしい。
「彼の袖口を見て。カフリンクスがついてるでしょう?」
カフリンクスとは、シャツの袖を留めるための装飾具である。たしかに御者台に座る男の袖口には、宝石のあしらわれた留め具が西日に照らされていた。
「コスモメアのばあ様は、ペンダントだったかしらね? これらはただのアクセサリーじゃないの。天と結ぶと書いて、天結。星霊を呼び出すための道具よ。魔法使いで言うところの杖ね」
つまり星霊は、人の手で呼び出されているのだ。牡牛座の星霊は御者台の彼が、小獅子座の星霊は老婆が生み出したのである。
人々が星霊を呼び出す際には、天結というアクセサリーを用いるそう。見た目こそ普通の装身具だが、その製法には特別な規則があるらしい。
「持ち主の誕生石があしらわれているの。彼の場合はダイヤモンドね」
この場合の誕生石は、前世の誕生日に由来するそうだ。つまり、御者台の彼や不気味な老婆もまた、ルエラのように生まれ月を把握しているのだろう。
「とある天結を介した星霊の見栄えは、その誕生石に依存するのよ。だから星霊は燦然と煌めくの」
すなわち、牡牛座の星霊は四月の誕生石であるダイヤモンドを、小獅子座の星霊は十二月の誕生石であるターコイズを投影しているのだ。だから牛は乳白色に、獅子は清らかな空色に輝くのである。
他にもルエラは、星霊そのものに意思はなく、呼び出し人の思うがままに動くことも教えてくれた。どうりで乗り心地がいいわけである。二人を運ぶ牛車は見てくれだけで、実際は人間が操縦する機関車みたいなものなのだ
ここまで聞けばアマネールにもわかる。星霊とは、一種の超常的な存在だ。体温がなかろうが、人の意思のもとに行動しようが、宝石の如く輝こうが問題はない。星霊はそういうもの、言ってしまえばそれだけなのだ。
それから小一時間ほど牛車に揺られた頃、ルエラは男に告げた。
「ありがとう、トム。今日はここでいいわ」
ちょうど橋の上に差し掛かったところだった。その長さは五十メートルくらい。暗褐色の木材で構築され、緩やかなアーチを描いている。
「かしこまりました」
男は如才なく受け答える。アマネールたちがキャビンから降りると、牛車は速やかに去っていった。
「エステヒアは河で分断されてるの。アーデント川って言ってね。いい眺めなのよ」
ルエラは橋の欄干に寄りかかっている。彼女の言う通り、眼下に広がるエステヒアの景色は素敵だった。
アーデント川の両端に沿って、色とりどりの石造りの建物が立ち並んでいる。建造物と水面に隔たりはなく、まるで船みたく浮かんでいるようだ。
軒を連ねる建物のうち、遠方に佇むドームはひときわ目立っていた。一切の穢れなき純白の壁に、丸みを帯びた紺青の屋根。上下で対比する色合いこそ、一帯で異彩を放つ所以だろう。
いくつかある桟橋の周りには点々と杭が立ち、その先に橙色のランプが灯っている。あたりが薄暗くなり始めたおかげで、水面に光の筋が映る様は、眺望の美しさに拍車をかけていた。
おまけに、橋の上は風通しが良かった。なびく髪をよそに、アマネールが景色を堪能していると、橋の下から一隻の船が現れた。
「都の内部を川が通るだけあって、水上の移動手段も盛んなの」
全長十メートル、幅二メートルほどの細長い船だ。船に備え付けられた深紅の長椅子には、数人が腰かけている。
船首には、小奇麗な燕尾服を纏う男が立っていた。今ほどの牛車の御者と同じ装いだ。
普通に考えれば、船を漕いでいるのはその男だろう。だが彼はオールを持っておらず、手ぶらだった。その代わり、船の先端から数メートルの水中に、二つの紫の光が揺らいでいる。
「ねえ......まさか」
「ええ、そうよ。彼は魚座の星霊使い。仕組みはトムの牛車と同じね、魚座の星霊が船を牽いてる。魚座は二匹の魚に象られる星座だから、星霊も二匹いるのよ」
ルエラは畳みかける。
「言ったでしょう? 星霊はこの世界を象徴する力って。別に特別なものじゃないのよ。天結を介せば、誰だって星霊を呼び出せる。私も、もちろんあなたも。ここは星座と共にある世界。まさしく、天国なの」
ルエラは得意げに「らしくっていいのよね」と結んだ。
少しずつ小さくなる船を眺め、アマネールはあれこれを振り返っていた。
前世の魂を失ったために、自分が何者かわからない。空に浮かぶ星座を霊体として顕現する。にわかには信じがたい話だが、今までの体験がそれらを裏付けていた。
「何から何までありえない......顔にそう書いてあるわよ」
アマネールは改めて、この世界に自身の常識が通用しないことを痛感した。
「僕、ほんとに死んでるの?」
アマネールはなるべくさりげない調子で尋ねる。魂と星霊の話はさておき、自分の死を受け入れるのは気が進まなかった。
死の認識を試みると、目の奥がずきずきと痛むのだ。得体のしれない何かが心を締めつけるようだった。
「そう嫌悪感を示したら、前世のあなたが報われないわよ。今この世界に身を置けるのは、ひとえに前世のあなたのおかげ。この世界には、限られた人しか来られないんだから」
「......限られた?」
ルエラが強く発音した単語に、アマネールは思わず反応する。
「そうよ。ここにいるのは限られた人間。必ずしも、死を迎えた皆が来れるわけじゃないの。
この世界に訪れる人間、それはね、前世でひたすらに生を追いかけた者。死ぬ直前ですら、死について考えもしなかった者たちよ。己の生涯を決してあきらめず、とにかく生きる選択を続けた者にのみ、この世界は扉を開けてくれるの。
つまりは、望んで来られる世界じゃないのよ。死後の天国に期待する人には応えちゃくれないってわけ」
そう言われても、アマネールは全く賛同できない。なんせここに来る前の記憶がないのだ。当然、自身の生きざまについても思い当たる節はなかった。
「この世界の住人は、誰もが一度死んでるの。それは紛いもない事実、時間をかけて受け入れるしかないわ。
けど、さっきあなた言ったでしょ? 今生きてるって。それもまた事実。この世界でも傷を負えば血が出るし、心臓が止まれば死に果てる。その理は変わらないわ。あなたは今、ここで生きてるのよ。前世の姿をありのままに保って、新たに人生を紡いでいくの。だから私、人生が続いてるって言ったのよ。
色々と不安になるのも無理ないわ。何より記憶がないんだもの。でもね、アマネール。人生が続いている以上、自分が何者かは否が応でもわかってくる。少しずつ、本当に少しずつだけどね。第二の魂に、この世界のあなたが刻まれてゆくの。まあ、気楽に生きましょう?」
何故かはわからない。少なくとも、自分の中で答えが出たわけではない。けれど、アマネールは心が安らぐのを感じた。肩の力が抜け、自然と視線が上がってくる。
すると、手前の桟橋から手を振る男と目が合った。いつの間に停泊したのだろう、彼の傍には一隻の船が係留されている。
「私はここまでだから。それじゃ、また今度ね」
屈託なく別れを告げて、ルエラはその場を後にした。