第一章② 失われた魂
目を開くと、そこは別世界だった。眩い純白の世界が幻だったかのようだ。アマネールを運んでくれた空色の獅子は、忽然と消え失せていた。
少年がいたのは、幅三十メートルくらいのレンガ道。視界は開けていて、満足にあたりを一望できた。
レンガ道の両脇には、おそらく四階建てだろう、背の高い建物が並んでいる。それらの塗装は不揃いで、黄土色の壁があれば、焦げ茶や真っ白の壁もあった。個性豊かな並びの奥に立つ、ひときわ高い塔は時計台のようだ。塔の頂上付近に巨大な鐘が見て取れる。
道の中央部は石畳で埋め尽くされ、その上に露店が連なっている。最も近くの店舗はスイーツ専門のようだ。パイやらタルトやらケーキやら、色とりどりの商品が棚に並んでいる。棚の左右には、ひもを通したスズランの植木鉢が括りつけられていた。レトロな陳列棚の奥には、せかせかと作業するおばさんの姿が見える。
印象的なのは、アマネールのそばにあるぺガススの銅像だ。天馬が優雅に羽を広げるその像は、ずいぶん昔に作られたものらしく、あちこちに苔が生えていた。
総じてどこか歴史を感じさせる街並みである。先ほどの空虚な白の世界とは何もかも違う。当たり前に物が存在し、当たり前に人間がいる。その月並みな光景が、アマネールを安堵させるのだった。
ただ世界が変わろうと、自分が置かれた状況は分からないままだ。謎多き身の上を明らかにすべく、アマネールは手前の露店に立ち寄った。
「ねえおばさん、ちょっと聞きたいんだけど」
「あら、見ない顔ねえ。新入りさん?」
逆に質問をしてきたのはおばさんの方だった。
「あー、うん。ほんの数分前に目が覚めた」
「そう、いらっしゃい」
おばさんはにっこりと笑う。
「で、あなたは何が知りたいの?」
「ここはどこ?」
アマネールの疑問が率直すぎたのだろうか、おばさんは面食らったような顔をした。
「......エステヒア。通称、星の都よ」
わかりやすく、彼女は返答に詰まった。アマネールの知りたいことを理解したうえで、それを濁したのだろう。
「どこの、エステヒア?」
都の名前があれば、国の名前もあるはずだ。アマネールは食い下がった。
舐めてもらっては困る。なんせ現実離れした空間で、不気味な老婆に質問攻めにされたばかりか、化け物じみた獅子に乗ってここまで来たのだ。今しがたの体験以上に衝撃的な答えが返ってくるはずがない。アマネールはそう意気込んでいた。
しかし、次に彼女が告げたことは、アマネールの座った肝を木っ端みじんにするのだった。
「そこまで言うからには観念なさい。ここはね、死後よ」
アマネールはてっきり耳がおかしくなったのかと思った。
死後? 死後だって? 僕はもう死んで......痛っ...!
突如としてアマネールを激痛が襲った。目の奥がずきずきと、焼けるように痛むのだ。そればかりか、彼の視界は緋色一色に蝕まれた。
なぜか自身の瞳に刻まれた紅蓮の世界。一瞬にしてその光景が膨らみ、意識を支配されたのである。
それはほんの一瞬だった。刹那に現れた謎の世界は、同じ速度で消え去ったのだ。アマネールの視界はすぐに元通りになり、目の痛みも嘘のように和らいだ。
「......僕、今生きてるよ。ほら......どうだい?」
自身に起こった異変を悟られぬように、動揺した気持ちを落ち着かせるために、アマネールは両手を振るった。
たちまちおばさんはふふっと笑う。アマネールがそう主張するのを待っていたようだ。
「みーんな最初はそう言うのよ。安心して。厳密に言えば、あなたの人生は終わっていない。この世界で続いてるの。命の灯は消えてないのよ。まあ、魂だけは別なんだけどね」
たましい? 何ともスピリチュアルな単語を耳にした少年は、ぽかんとすることしかできなかった。
「あなた、名前は何て言うの?」
打って変わって、おばさんは明るく問う。
「アマネール。アマネール・アズール」
「私はルエラよ。よろしくね、アマネール。驚かせてごめんなさい、悪いことしちゃったわね。でもねえ、あなたにも非はあるのよ。ちょっと好奇心が強すぎるわ」
そう言ったルエラは、棚に並ぶ色鮮やかなマカロンを差し出した。
「ほら、お召しになって」
咄嗟にアマネールは上着のポッケに手を突っ込む。悔しくも、彼が握ったのは虚空だった。続けてズボンの方も確認してみたけれど、結果は変わらない。恨めしそうな視線をマカロンに送るアマネールに、ルエラはにやにやと笑って言った。
「お代は結構! エステヒアに貨幣はないの、ぜーんぶ無料なのよ」
郷に入っては郷に従えである。アマネールはありがたく、マカロンを頂戴することにした。
「お腹すいてたの?」
もぐもぐと口を動かすアマネールに、ルエラは訊いた。
「ペコペコだよ」
ルエラは呆れたような、嬉しいような顔をした。そして棚から追加でケーキを取り出し、アマネールに突き出した。
「せっかくだし、話を聞いていきなさい。ちょうどいいわ。私も若人の血が恋しくてね」
彼女は店奥から椅子を取り出し、アマネールを中に招き入れた。
アマネールが食べ終わるのを待って、ルエラは喋りだした。先ほどアマネールが動揺したのは隠しきれなかったらしい。これ以降の会話で、ルエラが直接彼の死に言及することはなかった。
「ところでアマネール。あなた今いくつ?」
アマネールは言葉に困った。分からないのである。純白の世界で自覚した通り、今の彼にある己に関する記憶は、ひとつに名前しかなかった。
ルエラもそれをわかって質問しているようだ。返答に困るアマネールを、どこか面白げに見つめている。
「ふふっ。言ったでしょ? 魂が別だって」
魂という、実在するかも疑わしい概念について、ルエラは真剣に語りだした。
ルエラによれば、それは確かに存在する。そしてこの世界の住人は、一度魂を失くしているそうだ。終わりを迎えた人生が、死後の世で続く代償として、前世の魂を失っているのだという。
一般に死後、肉体と魂が離れ離れになることで、身体から意思が断ち切られるらしい。言い換えれば、魂なくして生物は活動できないのだ。つまりーー。
「あなたは前世の魂を失くしているけれど、今は確かに一つ、魂を体に持ち合わせてる。新たな魂をね」
アマネールはこの世界に入る際、前世のとは別の魂を授かっているそうだ。
「魂とは、その主の根幹であり、言わば生命と精神の支柱なの。故に魂には、宿り主の人生そのものが記憶として刻まれるのよ」
アマネールは死を境に、そんな前世の魂を失ったために、死ぬ前の自分がまるで分からない。前世の魂の消失こそ、自身が何者か知りえない原因だったのだ。
一方で、この世界での出来事(老婆に質問攻めにされたことや空色の獅子に乗ったこと)を覚えていられるのは、新しい魂に記憶が刻まれたからなんだとか。
自分自身に関する記憶が全くないというのは、あまり気分のいいことではない。漠然とした不安感が重りとなって、地へと沈んだ少年の視線に、ルエラの顔が割り込んだ。
「自分が分からないって、気味が悪いでしょう? でもね、そう落ち込むことはないのよ。あなたは全てを失ったわけじゃない。名前だって覚えてるし、それに、年齢だっていずれ......」
「ルエラおばさんは? 知ってるの?」
咄嗟にアマネールは話に割って入った。
「四十六歳よ。十一月生まれのね。案外簡単に分かるのよ。ちょっと見てもらうだけだから。あなたも楽しみにしておきなさい。きっと、もうすぐにでも知る時が来るわ」
ルエラの曖昧な返事は、少年にこれ以上の言及は無用だと理解させるのに十分だった。
「ちょっといい?」 とアマネール。
「なんで僕、名前だけは覚えていられたの?」
「前世の魂を構成する要素のうち、最も大切なものだからよ。
言ったでしょ? 魂には宿り主の人生が記憶として刻まれるって。名前はね、人が生を受けてはじめに授かった、その人を示す大事な言葉。すなわち、はじめて魂に刻まれたのが名前なのよ」
ルエラは丁寧に答えてくれた。彼女曰く、はじめて刻まれる名前こそ、前世の魂に最も深く刻まれた要素だそう。
そして、魂の最深部に刻まれた名前は、自然と肉体に染みわたる。魂の有無に関係なく、体に記憶として刻まれるのだ。だから前世の魂をなくそうとも、名前だけは己の記憶としてこの世界に持ち込めるらしい。
「ふーん......」
一通り話を聞いたのち、アマネールは唸った。どうしたって簡単に納得できる話ではないが、事実、名前以外の記憶はない。ルエラに反論はできなかった。
そのとき、一帯に大きな鐘の音が響いた。音の鳴る方へ首をやると、先刻目についた時計台が見える。時計盤は十六時を示していた。
アマネールが時計台から視線を戻すと、それは音もなく現れていた。
まるで生気を発さないくせして、よく知られた動物の形をしている。白光る透き通った体が日光を反射する様は、まさにダイヤモンドのよう。生き物としての壁を超越した美しさを放つ牛が、そこにいたのだった。