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星の紡ぎ人   作者: 日向かげ
第一章 星の都
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第一章⓪



 うだるような夏の暑さが退き、初秋の気配が忍び寄る頃。穏やかな季節の移り目を裏切るように、町の一角で火の手が上がった。


 紅蓮の炎が一軒の住宅を丸吞みにし、立ち上る煙があかね空を汚している。


 住居の前には、火事に吸い寄せられた見物人が群がっていた。集まる人の反応は様々だ。火元を心配する人、周囲への引火を恐れる人、単に一種の催しとして楽しむ人。


 人だかりの最後方に、火災を呆然と眺める少年がいた。癖のない黒髪に、あどけなさが残る顔立ちをした彼こそ、この凄惨な災厄の当事者であった。




 正面の光景はあまりに受け入れがたく、僕は金縛りのように体を動かせなかった。目下の悲劇を悪夢だと思い込みたかったけれど、焦げ臭い熱気が紛れもなく現実だと告げている。


 ちょうど学校から帰ってきたところだった。こんな惨状が待ち受けているなど、夢にも思わなかった。ほんの少し前までの日常が嘘のようだ。馴染みのある忙しない朝も、教室で友人と交わした他愛もない会話も、今では遠い過去のように感じられた。


 追加で到着した消防車の警鐘に耳を刺され、僕は我に返った。精一杯の力で野次馬をかき分け、群衆の最前列にたどり着く。その瞬間、機を見計らったように、屋根の一部が崩れ落ちた。


 火の粉が舞い散る実家を見て、僕の理性ははじけ飛んだ。生まれ育った家の倒壊はおろか、身の安全すらどうでもいい。僕は後先を考えず、烈火に飛び込んだ。


 しかし、家のわずか手前で僕は宙に浮いた。大柄の消防隊員が、僕の胴体を押さえつけている。


「君は何を考えてる! 死ぬつもりなのか」


 男が怒鳴り声をあげた。


「母さんがいるんだ!!」


 僕は彼の手を振りほどこうと、無我夢中でもがいた。



 もし神様がいるのなら、母さんだけは幸せな人生を歩める世界にしてくれると、僕は信じていた。勝手に、そう願っていたのだ。


 僕が物心ついてまもなく、父は亡くなった。ある日突然、母さんは最愛の人を亡くしたのだ。あまつさえ、母さんは生まれながらに足が不自由だった。


 けれど母さんは、決して哀情を表にしなかった。傍から見れば不自由な体でも、よそからしたら不幸せな境遇でも。一切挫けることなく、女手一つでここまで育ててくれたのだ。


 些細な日常にも幸福を見出せる、明るい心を持った人だった。かけがえのない今と向き合う生き様を、息子ながらに尊敬していた。そんな母の人生に、これ以上魔の手が伸びることは絶対にないと信じていた。


 現実は残酷だった。人はみな平等とはよく言ったものだ。少なくとも母さんは、この火事をせせら笑う奴よりも報われていいと思うのに。



「離せ! 母さんが中にいる!」


 母の足は年を取るにつれ悪化し、今では満足に移動することもままならない。だから、母が猛火に包囲されていると思い至るのに時間はかからなかった。


「よせ! もう助からない! いつ完全に崩れてもおかしくないんだ。下手すれば君まで......」


「お前に何がわかる!!」


 僕は吠えた。頭が熱くなり、気が動転している。体中の細胞が、抗えと叫んでいた。僕はありったけの力で拘束を払いのけ、正面に広がる火の海に突っ込んだ。



 飛び込んだ先は別世界だった。慣れ親しんだ家内の面影はなく、一面が猛り狂う緋色の炎で支配されている。


 突入してまもなく、どす黒い煙が僕を飲み込んだ。噴煙にさらされた目はずきずきと痛み、それを吸い入れたために息が苦しい。加えて、容赦ない熱波が四方から押し寄せてくる。たちまち全身を焼かれた僕は、次第に気が遠のくのを感じた。


 かすれゆく意識の中で、震える声がした。母さんだ、直感的にそう思った。まだ間に合う、僕が行かなければ。僕が、助けなければ......。


 死に物狂いで廊下を駆け抜ける。踏みしめるごとに崩れる足場は、刻一刻と迫る建物の全壊を仄めかしていた。


 間仕切り壁がすでに燃え尽きていたおかげで、おぼろげに家全体を見渡せたのは幸いだった。僕はかすかに響く声を頼りに足を進め、ついに横たわる人影を視界の奥にとらえた。


 やっぱり母さんはここにいる。「今行くから!」そう叫んだつもりだった。しかし、声が出ない。鉛のように足が重く、これ以上前に進めない。業火にさらされ続けた身体の限界は、すぐそこにまで近づいていた。


 できることなら、現実にむせび泣きたい。理不尽を叫び散らしたい。そうやって際限なくこみ上げる激情を、僕は必死に押し殺す。


 父さんが死んで泣きじゃくった僕を、励ましてくれたのは母さんだ。一番辛い立場だろうに、自身は涙を見せず、幼い息子の背中を押してくれた。いつもそうだ。母さんにはたくさん救われた。こんなときに、僕が隣にいてやれなくてどうする。最後くらい......僕が支えてやれなくてどうする! 



 その時だった。耳がちぎれるほどの轟音がとどろき、僕は吹っ飛んだ。そのまま何かに叩きつけられ、一瞬で気を失った。



 どれだけの時間が経ったのだろう、僕の意識はわずかに戻った。感覚が麻痺しているようだ。呼吸に苦しさがなく、視界は良好で、痛みすらも感じなかった。


 どうやら大規模な爆発が起きたようだ。あたりには大量の煙が立ち込め、爆発の残骸と思わしき破片が舞っていた。


 破片は高熱を帯びているのか、星の如く光り輝いている。そう、まるで夜空のように。一帯に蔓延した黒煙の中で、無数の光が煌めいていたのだ。満天の星空さながらの絶景を、僕は特等席で眺めていた。


 光のような人だった。弱音を吐かず、希望を捨てず。生きる喜びを、生きる哀しみを、生きることの美しさを教えてくれた。如何なるときも前を向き、何があろうと後ろを振り返らない。そんな生き方を、教えてくれた人だった。


 じきに破片の熱も冷めてきたのか、線香花火が落ちるように、星々の輝きが弱まりはじめた。


 光が消え失せるのと並行して、僕の意識が再び朦朧とする。


 眠りに落ちる寸前、僕の胸は後悔に締め付けられていた。


 これまでの数えきれない恩に、どれだけ報いることができたのだろう。僕は母さんの、何になれたのだろう。夜空を描く流星のように、僕のほほを雫が伝った。




 これを最後に、少年が何かを思うことはできなくなった。彼にあるのは、吸い込まれるような感覚だけだった。



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