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だめな理由

作者: 空見タイガ

 だめなりさんがだめな理由は諸説ありますが、せっかく花の男子大学生であるのに狭苦しいお部屋でのんべんだらりと過ごして夢も希望も職もない無に近づきつつあるのと、花の女子大学生でもなければ彼の親戚でもない謎の社会人三年目であるわたしに隣人としてまんまと侵入されて居座られる抵抗力のなさ、あらゆる角度の弱さが原因ではないかと考えられています。

 現に冬の寒さに弱いだめなりさんはおこたから頭のはしっこを出して寝ています。あまりにも深く潜りこみすぎて隠せていないおみ足はだめなりさんのおつむの弱さを象徴しているようです。そんなだめなりさんのことが大好きではないので、わたしは部屋に忍びこんでおこたの電源をこっそり切って廊下に逃げました。しがない1Kのお部屋ですが、廊下にはひざを抱えてごろごろと転がれるほどの長さと幅があります。歩くところでしかない場所のために掃除機を走らせているときは「いっそここで眠ってしまおうか」とは思わないのですが、寝ているだめなりさんにいたずらを仕掛けて即座に退避するという目的で使えると判明してからは、廊下の長きことは生活の質を向上させると最新の知見を得るに至ったのです。

 おこたから顔をにょきっと出しただめなりさんは、ひやりと落ちてきた水の元凶を確認する無垢さで、わたしに照準を合わせました。それは当然の心理であり、成り行きであり、そこにうららかな年上女性への興味であるとか、性、愛、恋慕、感謝の心があるわけではなく、なんかあるからなんか見た、ただそれだけの視線です。恨めしい気持ちが込められていたかもしれませんが、わたしには関係ありません。男子大学生から見ればおふぃすれでぃは「おばあさん」であり、おばあさんというものは甲斐甲斐しくお世話をしたり不法侵入したりする行いが特権的に許されています。

 ゆるやかに起き上がって最終的に直角になっただめなりさんに水を注いだコップ、あるいはコップに注いだ水を差し出しました。廊下に行ったのはコンロが一口しかないキッチンで水を汲んだ伏線だったのです。わたしが衝撃の伏線を回収しているその斜め下、ちょびちょびちょび、男子大学生らしからぬお上品な飲みっぷりで、まだまだ水が入ったコップをおこたテーブルに置いただめなりさんは「なみなみに注ぐな」とありがとうの掛け声もなしに説教してきました。彼は熟年離婚する系譜に違いありません。伏線回収をして立ち尽くしたままのわたしに、いっしょにおこたに入ろうと誘いもしないなんて。もちろんだんのなごりだけがあり、いずれ冷めゆくだけの運命であるおこたにわたしも入りたいわけではありませんが、それにしてもこのだめなお隣さん、つまりだめなりさんはどうしてこうもだめなのか。

 今、話題沸騰中のだめなりさんはおこたテーブルの上に置いてある雑誌を手にとってぺらぺらとめくり始めました。わたしははるか上空、斜め後ろから彼の後頭部という壁を超えてその内容を読んでみます。字が小さいのでさっぱり何を書いているかわかりません。学生時代はそうでもなかったのに日常的なデスクワークがすっかりわたしの目をだめにしてしまったようです。今はだめなりさんが集中して雑誌を読んでいないことしかわかりません。ページをやたらと早くめくったり、熱心に眺めているわけでもないのに手を止めたりしています。彼にとっても読みにくい文字であれば、おばあさんにはもはや罫線、傍線、うにょうにょです。雑誌の全ページをめくり終えたことにだめなりさん自身がびっくりとしたようでした。彼には速読について新書、ビジネス書、メールマガジンを執筆するに値する才能があります。彼は首だけ後ろに倒してわたしを見ました。

「背後霊じゃないですか」

 もうお昼過ぎです。本日、だめなりさんから頂戴した言葉は「なみなみに注ぐな」「背後霊じゃないですか」だけでした。わたしははらりと心のなかで涙を流さないで、おこたのなかに入りました。だめなりさんの足に交差させようと目論みましたが、彼の足は見つかりませんでした。背筋が寒くなる事件です。

「せっかくのお休日を、こんな文字だらけの雑誌をぱらぱら漫画にすることに費やすなんて。さすがは大学生です。やはり学生の本分は勉学ですよ、だめなりさん。ほれほれ、本をお読みなさい。海外の大学生はもっと本を読んでいるという噂がありますよ」

「あんたがうるさいんで、その気にならないんですよ」

「エ、では、だめなりさんはわたしがいないあいだはまともな人間をやっているというわけですね。わたしが現れた瞬間にだめになると。それではいつまで経っても、わたしはまともなりさんに出会えません」

 あまりにも長く遠くどこまでもどこまでも伸びてゆくため息のさきっぽを追っているうちに眠くなってまいりました。だめなりさんの吐く息には睡眠を誘う効果があるようです。ボスには効きませんが、わたしには効果ばつぐんです。

「まあ、出会ったころのだめなりさんのだめ具合に比べれば、今はだめなりに頑張られていますね。以前がだめだめなりさんなら今はだめなりさんです」

「どうも」

「半年前、ぴかぴかにしているはずのわたしの部屋になぜか虫さんがやってくるとふしぎに思いつつもベランダで洗濯物を干していたところで虫さんが横から飛んできて、ひょいと覗いてみたら大仰天、放置された生ゴミの袋の山が堆く積もっていて虫さんがとことこと歩いていらっしゃる、春に入居したばかりのお隣さんの部屋に突撃したらもはやバク転、きよくただしくうつくしきところがひとつもない! わたしがすべて掃除したとはいえ、きれいに保っているのはだめなりさんの努力です」

「はあ」

「本当にあのときはだめだめだったなー、だめなりさん」

 ちょっとした回想も終わったところで、なぜか見てしまう視界の上のほうから下にうつして現在のだめなりさんに目をやると、彼はわたしの顔をまじまじと見ていました。わたしもまじまじと見返します。まじまじとまじまじの熾烈な戦いはわたしの勝利で終わりました。だめなりさんは水をがぶがぶと飲んで、からになったコップをおこたテーブルに音を立てて置きました。

「もしかして聞こえませんでしたか。本当にあのときはだめだめだったなー、だめなりさん、と言ったんですよ」

「聞こえなかったとしても言わなくていいことでしょ、それは」

「社会人になったら自然な出会いなんてありませんからね。大学生の今が恋をする最大のチャンスなんです。せっかくの一人暮らし、定額連れこみ放題なのに、お部屋が昆虫かごでは百年はおろか幾度もの転生を経て悲恋をくり返しながらも永らえてきた一万年の恋が冷めてしまいます。アダルトビデオや女の子が演技してくれるお店で身につけたテクニックでどうにかなると思ったら大間違いですよ。女の子はムードが大事なんですから、ムードが」

 だめなりさんは鬱屈とした表情で「あんたにムードの何がわかるんすか」と男子大学生らしい横柄なつぶやきをしました。ムード、それはカタカナ語です。

「べつに。俺は、そういうのに興味ないんで」

「確かに、一回生きるだけでも精一杯なのに転生なんてしたくないですよね」

「一時的な感情に振り回されたくないんですよ」

「それで食欲や睡眠欲に従って生きるだけの日々を送られているんですか。だめなりさんは合理的で自制心が強いですね」

 謙遜すら返ってきません。彼はじつにつまらない男であります。恋人どころか友人すら部屋に招かず、かわりに高校の教科書や大学受験の問題集を律儀に連れこんでいます。いつまで過去の努力に浸るつもりなのか。いつになったら動き出すのか。若さしか取り柄がなく、その若さも無為に過ごして意味もなく失っていきます。わたしは本当に眠たくなってきて、おこたテーブルに突っ伏しました。会社の休憩時間に昼寝をしているからか、休日でも机やテーブルの前にいるとふとして午前中の疲労をリセットしたくなります………………かっ、目を開いたときの風圧で、まぶたの辺りに生息していた眠気が吹き飛びました。

「そうですか。恋愛もしない、でも勉強もしない、何もしない。まるで子猫ちゃん、にゃんですにゃん」

「勉強、はしてますよ、将来に必要らしいんで」

「やりたいことがあるんですか」

 首をへんな方向に曲げてだめなりさんのほうを見ると、彼は空のコップのふちだか全体だかを観察していました。

「特にないですけど、でも死ぬのはいやなんで」

「そう簡単に人は死にませんよ。わたしの中学の同級生で勉強をしないことをアイデンティティとされている方がいましたが、だれよりも早く就職して結婚してすでに子どもがいます。一方で、受験も就職も当初の予定通りに成功したはずの友人がつらいやらツライやら辛いとこぼして、でも、つらくても自動的に死ねるわけではありませんからね。とんでもない大事故から生還した人だっているわけで、意外と人体は強靭で、精神もまあまあストロングです」

 言い終えてすぐ、わたしは恐ろしい真相にたどり着きました。速やかにおこたから出て、だめなりさんの視線を集めるコップを手にとって小走りします。それから水を入れたコップをだめなりさんの前に置いて、おこたふたたび。

「子猫ちゃんのだめにゃりさん、水を催促するときも黙ってコップを見ているだけなんて、うふ、うふふ」

「催促したわけじゃないですけど」

「だったら目的もなくコップを眺めるのはやめることです。空のコップを眺めるだけでよいのはデッサンをする人だけで、デッサンをする人だってデッサンをしますからね」

 ぶつくさと不平を言いながらもだめなりさんは水を飲み始めました。その姿を眺めているだけで、わたしの上唇と下唇のあいだからうふふふふふふふが淡々と漏れ出すのでした。だめなお隣さんことだめなりさんこと子猫ちゃんは意義も正義も持たないまなざしでこちらを不安そうに見ています。

「わたしの顔に穴が開いて封印されしものが解き放たれてしまいます」

「あんたこそいつものほほんとされていますけど、大人になったら勉強しなくてよくなるんですか」

「それでやり返せると思いましたか、お子ちゃまなりさん。わたしは大人になっても日頃から勉強していますよ。会社で研修を受けさせられたり上司の指示で外部研修を受けさせられたり。合格すれば報奨金をもらえる資格試験のリストを食い入るように見つめたのち、今年こそは受験するぞと年始に意気込んだことも過去にありました」

「自発的には勉強してないじゃないですか」

「わたしにとってはだめなりさんといっしょにいるほうが勉強になるので」

 だめなりさんは「詭弁だ」「わけがわからない」「意味不明」とわたしにぎりぎり聞こえるぐらいの声でつぶやきました。だめなりさんの声量のなさにおこたもずいぶん冷え冷えとしてきました。冬なのに、いったいどうしておこたの電源が切られているのか。まったくもう、だめなりさんって本当にだめなんだから。しぶしぶとおこたの電源をつけます。

「さびしい風景ですね。ここにみかんの山さえあれば、一面の冬景色なのに」

「寒くなるじゃないですか」

 不意に、わたしの部屋からトランプを持ってこようという欲望が生まれました。しかし、いくら暇を持て余している休日のおふぃすれでぃと言えど、男子大学生と二人きりで七並べをするのもどうか。別室で審議が行われています。七並べ。七並べのような生涯を送って来ました。七からトランプを並べるだけの人生。思い返せば、大学生のときのほうがよほど大人らしいことをしていた気がします。おしゃれなお店に出かけて、ちょっと危ない香りのする場所に立ち寄ってひやひやして。大人になった今ではただ大人しいのみ。給料がみみっちいのもありますが、友人はみな忙しいし、同僚たちとはそれまでの友人らと比べて浅い付き合いであるし、予定のなさそうな顔をしているとお歳の離れた男性らが接近してくるし、知らない人と遊びに行く愛と勇気を持ち合わせていないし、一人でふらっと出かけようと思っても休日は人人人の群れでごった返しているし。七並べはやめてババ抜きに、いえ、ジジ抜きにしたほうがよいかもしれません。が、ようやくおこたも暖かくなって、トランプに対する欲望はしゅわしゅわと霧散していきました。

「ところで、だめなりさん。もう二年生の冬となると今後にこうご期待ですね」

 吐き捨てるような「進路ですか」にわたしはひやりとしました。それはまるで雪が降る夜の手すりのつめたさ、皮膚が張りつく痛さでした。わたしもしゅんとして「もう一年生に戻る退路は断たれていますからね」と遠くを見ながら言いました。遠くと言っても遮光カーテンが窓を覆い隠していましたから天井の隅を見つめるのみ。じっ。そこには何もありません。

「べつに、就職するんじゃないですか」

 うつろな場所から視線をうつすと、あらまあ、こちらもうつろでした。この若さにして夢も希望もないようです。正座で座高を高くしつつ、虚無なりさんに向き合います。

「まあまあ、そう早まらずに。休学して留学してもいいし放浪してもいいではありませんか。大学院に行ったっていいんですよ。まあ行ったら行ったで大変らしいですが。ちなみにわたしのいる会社では院卒さんの賃金テーブルは学部卒と同じです」

「どんな会社に勤めているんですか」

 おや、今までの話の流れを無視して、急にわたしの個人情報を掘り下げてきました。最近の若者の考えていること、犬が好きか猫が好きか、情緒がまったくわかりません。そのせいか太もものほうも心なしか血の巡りがよくなってまいりました。かゆかゆになった足を崩して座高の優位性を放棄します。

 わたしはまず両手を用意し、次にほんのり拳をにぎって、最後に胸元でぐるぐると空気を攪拌させました。

「循環する会社です」

「エコシステムの会社ですか」

「グループ会社のためになる製品を開発し、グループ会社のために運用し、保守し、さらなる利益を得るために新規の営業先を開拓しようとしていますが、その先もグループ会社です。また利益というのも親会社をすこしでも儲けさせるために行っています」

 ぐるグループ。ぐるぐるの勢いはまだまだ続く、感動巨編です。

「大きそうな会社ですね」

「いいえ、会社そのものは大きくありません。グループ会社のなかで仕事を細分化して、人員を増やして、ひとりひとりにぽそぽそと仕事を分散しているんです。人員の大半は派遣社員か委託社員で、正社員は少ないです」

「やりがいがなさそうですね」

「仰るとおりです。ひとつのグループ、お友だちのあいだでぐるぐるとお金と仕事を回し合っているだけで、ひとりひとりの業務はだれの救いにも助けにもならない」

 だめなりさんは尻隠さずの不審者を見るような目で「社会の役に立ってなきゃお金はもらえないでしょ。何かしら誰かしらに必要とされているんですよ」と立派なことを言いました。やれやれ、これだから社会に出たことのない若者は。わたしは腕の動きをだんだんと遅くしてぐるぐるの稼働を停止します。

「世の中には国がやってもよいことを民間に任せたり、民間に任せているふりをしたりする仕事もあるわけですよ」

「仕事は仕事でしょ」

「わたしが言いたいのはですね、全体の役に立っても、だれかの役に立たないのは、だれにも必要とされていないのと同義だってことです」

 だんだんとひんやりとした悲しみが降り積もってまいりました。空気をかき混ぜすぎたせいかもしれません。こんなときはお酒です。酒、アルコール、なめらかに破滅に移行するための液体。人生には……ドーパミンが必要です。多すぎると困るのは借金、こしあん、つぶあんに限らずあらゆることに適用できる法則ですが、足りないと足りないで身動きがとれなくなるものです。要するに適量の酒は健康によいのです。いくら統計が立ちはだかっても、わたしの経験則は屈しません。

「だめなりさんは五月が誕生日でしたよね、四月を目標に子を出産すると早産などで早生まれになる可能性がありますから、ご両親はいい時期を逆算されましたね」

「酔ってるんですか」

「これから酔うんですよ」

 名残惜しくもおこたから去ったわたしは、だめなりさんの部屋からわたしの部屋に徒歩でワープし、ふたつのひんやりした缶とミックスナッツの袋を持って、ふたたびおこたに入場しました。袋を開けてテーブルの上にぽいと置くと、おつまみらしさ満点の枝豆ではなくお菓子のように口に運べるミックスナッツを選んだ作戦が功を奏したようで、だめなりさんはカシューナッツばかりを食べ始めました。ナッツの食べ過ぎは禁物ですが、今度こそだめなりさんにお酒を飲ませるためにも黙っておきます。

「内廊下のマンションに憧れますね。隣人の部屋と自分の部屋を行き来するあいだも、きっと寒くもさびしくもないでしょう」

「さびしさは関係ないんじゃ」

「あまりの温度差にですよ、わたしは部屋から外に飛び出したのだと現実を突きつけられて、寒さがさびしさに変換されるんです。まあ、さびしくなったところで依然として寒いですが」

「なら変換されてないじゃないですか」

「では、温度差エネルギーがさびしさに変換されているんでしょうね。つめたいのに慣れたら差はなくなりますからさびしさもなくなります。証拠に、外廊下からわたしの部屋に戻って冷蔵庫を開けたときには『お酒だ~』としか思いませんでした」

「こたつに戻ったときはどう思ったんですか」

 おほほ、とわたしは上品に笑いました。ちょっとした冗談をこんなに掘り下げられても困ります。

「さびしさが温度差エネルギーに変換されて身体がほっと温かくなりました」

「こたつのおかげですからね」

 お気づきでしょうか。おこたテーブルの上、カシューナッツだけ驚くべき速度で減りゆくミックスナッツの袋の横、お酒の缶たちがさりげなく置かれていることに。ちょいと苦めなレモン味。だめなりさんが炭酸を得意としていることは部屋の掃除を手伝ったときに調査済みです。さあ、いざ! わたしがだめなりさんのほうへ缶のひとつをそっと押すと、謎の作用によって押し返されてしまいました。この経験から新たな法則を発見したことが逸話になって後世に語り継がれることはありません。

「お酒はだめですよ」

「だめではない年齢ですよ」

 わざとらしいため息をついただめなりさんは、わざとらしく肩をすくめ、わざとらしく両手の平を天井の照明に見せつけました。照明の側もいい迷惑でしょう。

「気分がよくなるからと煙草や薬物を勧めるやつがいたら白い目で見られますよね。なのにお酒を勧めるのは場や関係によっては許される理由がわかりません」

「いえいえ、まったく許されていないですよ。新入社員に酒を勧めようものなら、法令遵守の語が一同の頭によぎり、空気がずしっと重くなります。これは大学でもそうではありませんか」

 だめなりさんは天井の照明への過剰サービスをやめ、すこし俯いてから「だったら勧めないでください」と意見書を提出しました。やれやれ、言いたいことがあるならまっすぐ目を見て言えばよろしいのに!

「法が許しているなら、あとはその場にいる人間が許してくれたら問題ありません。だめなりさん、わたしを許してください」

「ずるいな」

「先っちょだけ、先っちょだけでいいですから」

 わきわきと動かした両手をだめなりさんに近づけましたが、彼はどこ吹く風で何個目かもわからないカシューナッツの曲線美を惚けたまなざしで見つめています。

「なんでわざわざ自分から頭を悪くしようとするんですかね。これまでせっかく勉強してきたのに、酒で脳を萎縮させて、だったら最初から勉強せずに酒浸りでいいじゃないですか」

「大人の世界は混線していて引っかかりやすいですから。コンパクトにしたほうが持ち運びしやすいんですよ」

 説教の気配を感じ、わたしは自分の缶をチャワーと開けてそのまま飲みました。ああ、なんたるすっきりとした苦さ。社会人の疲れた脳と身体に効きます。ン、反論の声がけたたましい空ぶかしとして外から聞こえてきます。疲れているなら甘ったるい糖分でよいではないか? パンがなければ菓子パンでよいではないか? 角砂糖何個分の糖分が含まれていることでお馴染みの炭酸のジュースを飲めばよいのではないか? いいえ、お酒です。これから酔うぞという予感が効くのです。ですからお酒だと騙されながらアルコール成分がゼロのジュースを飲んでもわたしは上機嫌のままかもしれません。むろん、あらかじめゼロだと知らされているなら本物のジュースを飲みます。いくら偽物が本物に近づこうと努力したところで、偽物は偽物だからです。

 にこにこしているわたしにだめなりさんは「ココアを飲めばいいのに」と吐き捨てました。

「夜だからココアというのは偏見ですよ。ココアには微量でもカフェインが含まれていますからね。そして冷えたお酒だからといって夏しか飲んではいけない法もありません。成人からご臨終までいつでも飲める、それがお酒です。あの人もあの人も飲んでいますよ!」

「水でいいでしょ」

「だめなりさん、このままだと体のほとんどが水になってしまいますよ」

「構わないですけど」

 強情なだめなりさんに、わたしも右手の人差し指をとがらせて、つん……と先ほど押し返された缶をつつきました。

「ふと、思い出してほしいんです。はじめてお酒を飲んだのはわたしに勧められたからだと」

 缶がひとりでに爪から離れました。だめなりさんは缶の輪郭を指でなぞりました。

「ほんとうにいいんですか」

「こっちの台詞ですよ、だめなりさん。ここで勇気を出さなくていいんですか。社会に出たら度胸を試される機会は山ほどありますよ。仕事とは責任を引き受けることですからね」

 ほれほれと片手で扇いで発破をかけると、だめなりさんはつばをごくっと飲みました。緊張の一瞬です。

「写真を撮ってもいいですか。はじめての思い出を酔って忘れたら最悪なんで」

 どこからともなく最新型の携帯電話が現れました。背面のカメラには傷も汚れもなく、複数の黒い瞳がこちらを捉えています。

「ご両親がお酒に弱くないなら記憶を失うほど酔わないと思いますよ。確かに出会ったころのよれよれだめなりさんだったらすぐに酔れ酔れになっていたかもしれませんが、今はしっかりした胸板ですから。結局は血中のアルコール濃度が酔いに関係するわけで、華奢な女の子ならともかく――」

 だめなりさんは腰を下ろしたまま座標をずらし、缶と共にわたしの近くに寄りました。やれやれ。何の罪もないおこたの角をわたしとだめなりさんで挟みこみ、わたしは缶をだめなりさんの口元に近づけるポーズ、だめなりさんはあまり慣れていない様子で携帯電話の正面にあるカメラにわたしたちをインしました。カメラの画面には強要されたと言わんばかりの不器用なチョキがいました。そのチョキの持ち主が緊張した面持ちで口を開きます。

「だれかの役に立ってないなんて、そんなことないと思いますよ」

「確かにわたしはだめなりさんのために現在進行形で手をぷるぷるとさせていますが」

 だめなりさんはわずかに頬をゆるませて、首を横に振りました。そのまま話を続けるそぶりを見せますが、わたしが撮影待ちのために手をぷるぷるとさせている現状は冗談ではなく本当です。

「ひとりの部屋に帰ってきたとき、ここで俺が死んでもだれも気づかないし、だれも俺の死を気づきたくないから、この部屋に追いやったんだと思ったんです」

 酒を飲む前からいやに憂鬱で饒舌なだめなりさんのすぐ隣に指が凍えるわたしがいます。

「だれからも大切にされないのに、自分で自分を大切にするのってみじめだな、そんなことをしてもだれも望んでいないし無駄なのに、必死で馬鹿みたいって笑われることがこわくて、投げやりに過ごしていました。このまま死んでもだれも悲しまないなら俺も悲しくないって」

 なぜこの体勢になってから急に話し始めたのでしょう。もっと話すタイミングはあったはずなのに。上部にあるカメラから視線は自然に画面のほうに落ちてゆき……わたしは横を向き、だめなお隣さんを見ました。

「あんたが俺を大切にしてくれたから、俺は俺が大切になって、あんたのことも大切になったんです」

「ありがとうございます」

「全体にとって必要とされているなら、全体の一部である個にとっても必要とされている。そして個にとって必要とされているなら、その個を含む全体にとっても必要とされている、世界であってほしい」

「理想は大切ですが、現実カメラも見ましょう。素晴らしい一瞬を切り取るために、どれだけの時間を費やしているか!」

 忠言がようやく耳に入ったのか、だめなりさんは「そうですね」と恥ずかしそうに微笑んで、ようやくカメラのほうを向きました。ほっ。わたしは主役の一缶を主役の一人に近づけつつ、顔をきりっとさせました。

「もうひとついいですか」

「手短にお願いします」

「ほんとうは高校二年生なんです」

 ――高校生で一人暮らし? 無限に広がるはずだった想像は撮影音に遮られました。だめなりさんは真剣な顔つきで撮影したばかりの写真を確認し始め、わたしはとりあえず缶をおこたテーブルに置きました。高校二年生から一人暮らし? 新情報に追いつけていないわたしに追い打ちをかけるように、だめなりさんはおこたに片肘をついて先ほどの写真を見せてくれました。よく撮れています。苦悶に満ちた顔をした男子高校生に酒をむりやり飲ませようとしているわたしの姿が……。

「俺と付き合ってください」

「だめです。だめですよ。だめですからね。だ、だめ三段活用」

 動揺するわたしに対し、だめなりさんは携帯電話の画面をほれほれと傾かせます。ああ、ノングレアのフィルムを貼っているはずの液晶が眩しくて目に入れたくない。その目に入れたくない画面がどんどん鼻先まで近づいてきました。迫り来る壁から逃れるように横にいる彼のほうを向くと、ああ、こちらも直視できない、あどけない笑顔。

「だめな理由を教えて」

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