板チョコ
一面に透きとおった水色の快晴だった青空が一夜にしてちょうどスケッチブックをめくったみたいに白よりもやや暗く灰色がかった半球へとすみずみまで均質に様変わりしている。
康輔はこのあと落ちることになるだろう雨を予期しつつ、三時をまわるとおもむろに着替えだしてその身を姿見にたしかめたのち、柔らかなベージュにおだやかな線をもつ乗用車にのりこんだ。
ここから地図上だと南東にあたるけれども、東西南北より前後左右に慣れている身にはどうもその地理感覚が上手くつかめず、かえって方向感覚を破壊するほどにくねくねと曲がりくねってやっとのことで到着できる由依の部屋。
その途中でこれといって用事もないものの、ひとまずコンビニへ立ち寄ろうと思案をきめると、華やかで便利な都会でも県庁所在地でもないけれども地方都市ではあり、田舎というには少々発展しすぎているこの界隈には康輔の部屋から悠々と歩ける距離だけで五軒ものコンビニがあって大手三社が勢ぞろいするままに競い合っているのであるが、由依の待つ部屋へ道なりに行くとなるとおのずと一つの選択肢に収斂していく。
信号が青にかわって片側一車線から片側二車線の道路へ右折しながら、橋の名前とその地上高がメートル表記されたところどころ錆びのめだつ年季の入った歩道橋の下をくぐりぬけしばらく走ると、反対側から中央のこころもちくびれた青地に白のミルク缶が目印の看板がみえた向かいにマジックミラー張りのパチンコ屋が立ち、その手前に信号をはさんで店を構えている品のいい定食屋の小さなお城めいた黒い切妻屋根をとおりすぎてゆるやかに左へ曲がりゆくおだやかな坂道をのぼる中途で、幸運の数字を大きくはいした看板がトレードマークのコンビニがみえてきて、そのまま近づくにつれ徐々に速度をおとした。
店の正面にフロントから突っ込むことはせずに、その脇にひろがる駐車場へとゆっくり車をすすめてゆき、赤い車のそばの駐車スペースをしめす白線がちょうどサイドミラーと隣り合ったところでハンドルを切ると、康輔は折よく人気のないまわりをそれでも几帳面に確かめつつそのままバックで収めてゆき、やり直すことなく一度の試技できちんと止めた。
黄色い光に縁取られた丸い黒いボタンを押してエンジンを切りドアをあけると右足から降り立って鍵をしめ、まだおやつどきなのに陰気にひろがる曇り空のせいで一帯に薄暗い空をみあげるうち、にわかに気を滅入らせる湿気がふわふわただよいだしたような気がするままに、突如つぶての如く降り出した大雨にたちまち濡れ鼠になってしまう自分を妄想しつつ入口へと急ぎ、店舗から凸型にでて三方向から入ることのできる手動ドアの正面側の取っ手をやさしく引くと、細いくちばしを伸ばす半透明の容器に入ったアルコール消毒を手にまぶしてほんのり冷たい湿りけをおぼえる間もなく静かに音を立ててひらいた自動ドアになかへといざなわれる。
左利きの康輔は消毒液を指にからめながら自分では意識せぬままに左足から踏み入れてかたわらの小さな買い物かごは取らずに左へ曲がり、ふとスナック菓子の棚へすすむと、中心から上下左右種類は違えども一面にポテトチップスかと見紛うばかり。
と思うと、その脇であからさまに狭く目立たない範囲に陳列されたその他のスナック菓子との対比に、康輔は今更ながら人々の好みと資本主義にはらむ画一的横暴の見本市をまざまざと見せつけられるように思いつつ、すぐさま日頃親しみ時間を浪費もするサイトやアプリのみならず、こちらの好みを瞬時に解析して即座に勧めてくるあらゆるメディアの存在に思い至ると、無数の人々の苦労と欲望と大いなる理想に支えられたそれらの途方もない体系なしには現代生活が寸時も成り立たないことを思って慄然とすると共に深い感謝の念をいだきつつ、それ以上の思考を断念して歩きだし別の陳列棚にまわると、棚の真ん中あたりを占める板チョコが目についた。
横に幾種類かならぶそのうちのどれが由依の一番の好みであるかは定かでないけれども、なぜか揃いも揃って金ないしは銀の英字で、しかしそれぞれに凝った書体で商品名の記された薄くて折りやすい長方形のチョコレート菓子のどれをぽんと差し出しても、笑うとぽってり艶のある薄赤い唇から白い歯のこぼれる由依がぱっとにこやかに相好を崩してこちらを愛らしく柔らかに見つめながら、短く親しい感謝の言葉をつぶやくかと思うと、たちまちいつもの大きくて丸い黒目勝ちの瞳に立ち戻って康輔を共におやつへと誘う。
それをやんわり断ると、チョコには目のない由依ではあるものの、自分だけその場で開封してパキッと折れる軽やかな響きに浮き立ちつつ手のひらサイズのしっとり甘い長方形のチョコレート菓子のミニチュアを一二枚、ないしは一列分だけといえども口に入れるのがどうも気が進まず悪い気がしてならず、ちょっとばかり恥ずかしい気もするままにとにかく今しばらくこの場だけでも我慢しておいて康輔のお家に着いてからまた思案を巡らそうと殊勝にもそう決めると、バッグをあけて長財布と平行に板チョコをしまいしばしその並びに見惚れるうちそっと閉じて助手席の膝の上で大事そうにかかえる。
康輔はいささか理想主義的といえども無理無体とも言えないおのれの空想に覚えずふっと吹き出しそうになりながら、しかし由依の喜びそうなものを見繕ってすっと差し出すのは悪くない。夢想の通りとはいかなくとも機嫌はきっと上向いてくれるだろう。
まさしく思い立ったが吉日でそれに立ち勝るものはない。それに如くはないとにわかに思い定めて腕をくみながら両側から鮮やかな商品にかこまれた華やかな狭い通路を静かに行きつ戻りつ、ふいにぴたりと立ち止まって一方に向き直るとそっと首を傾げて右足に重心をかけた。
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