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文官令嬢の結婚事情

作者: 上田 成

 またしても郵便受けに届けられた手紙にシリルは溜息を吐いた。

 せっかく室長と二人で食事に行って、ルンルン気分で帰ってきたというのに憂鬱な気持ちになる。

 とりあえず封筒を抱えて部屋に戻って封を開けてみれば、案の定送られてきたのはお見合い相手の釣書だった。

 釣書には父親からの手紙が添えられており、身分が上の貴族から結婚の打診が来たため受けてもらうという横暴な内容に激怒した。

 どうせ何を言われても見合いをする気はないので、釣書の中身は見ないまま放置することにし、すぐさま断る旨を書いた手紙を認めてシャワーを浴びると、ベッドにダイブしふて寝をきめた。



 シリルは王宮で働く文官だ。

 普通貴族の令嬢はあまり働いたりしないものだが、貧乏子爵家の娘であるシリルはお金のために結婚させられるのが嫌で、猛勉強して王宮の文官試験に合格したのである。

 難関の文官に合格したシリルに、当初は現金収入が得られると喜んだ両親だったが、やがて適齢期が過ぎようとしても一向に結婚しない娘に焦りだしたのか、ここ最近は毎週のように釣書を送りつけてくるようになった。


 25歳になるシリルにだって、結婚願望はある。

 だがそれはあくまで恋愛結婚をしたい願望だ。

 それにシリルには好きな人がいるのだ。


 それが先程夕食を共にした相手、セオドア・ルクセンバークである。


 同じ職場の上司で室長と呼ばれるセオドアは口数が多くなく、怜悧そうな顔立ちと伯爵家当主という身分差も相まって、シリルは最初少し苦手だった。

 けれど一緒に働いてみると、シリルのミスや苦手な仕事をさりげなくフォローしてくれ、他部署から無理な要求をされた時は毅然と反論してくれる、部下想いの優しい上司であった。

 しかも、いつも表情を崩すことなく瞳は冷めているセオドアが、部下を褒める時だけはとんでもなく柔らかく相好を崩す。


 そのことに気付いた時、シリルはあっけなく恋に落ちた。

 好きだと自覚してからのシリルは頑張った。

 部下という立場を利用して、まずはランチを一緒にすることから始まり、出勤も時間を調整して偶然を装い毎朝職場までのわずかな距離を一緒に歩いた。

 セオドアと一緒に帰るため毎日猛スピードで仕事を熟し、彼が残業の時は軽食の差し入れを渡したり、みんなが嫌がる仕事も率先して手伝い負担を減らした。

 その涙ぐましい努力のおかげか最近はセオドアの副官として重宝がられ、退勤時間が重なる時には夕食に誘われるようになったのである。


 そして昨日の夜。

 いつものように夕食に誘われたシリルは、別れ際セオドアから「明日、大事な話がある」と言われたのだ。

 もしかしたら、とシリルは浮かれた。


「大事な話って、もしかして……もしかして……!」


 憧れだったセオドアとついにお付き合いができるのかもと浮足だつのを抑えながら、今朝もシリルは王宮の入口から職場までの回廊を一緒に歩くためだけに、彼が乗る馬車が到着するのを物陰で待っていた。

 今朝はちょっとだけ寝坊してしまったため、両親へ返事の手紙を出すのを忘れてしまった。

 だが結婚など冗談ではない。もしかしたらセオドアと付き合える大事なこの時期に、そんな話など煩わしい以外何物でもない。


 帰ったら速攻で断りの返事を投函せねばとシリルが考えていると、そこへ同僚の女性たちが通りかかった。

 ちなみに伯爵家当主のセオドアは馬車通勤だが、貧乏子爵家のシリルは徒歩である。だがシリルが勤める部署は比較的平民の割合が高いので徒歩の者の方が多いのだ。

 彼女達はいつものように歩きながら、物陰に隠れているシリルの存在には気が付かずに噂話に興じているようだった。


「そういえばさ、室長、結婚するらしいよ」

「え? ほんとに? まさかついにシリルと?」

「それが違うみたいなの。なんでも高貴な身分のご令嬢となんだって」

「ええ? それじゃシリルは? あんなに好きですアピールしてたのに」

「可哀想だけど……。でも踏ん切りがついてよかったのかも。だって一緒に働いてると忘れがちだけど、室長は伯爵家の当主様だもの」

「そうよね。身分をひけらかさないところが室長の良さだけど、伯爵様なのよね。あ~ぁ、貴族は結局いいとこの娘さんと結婚する運命か~」


 聞こえてきた噂話にシリルは正に天国から地獄へ落とされたような気分になる。


「室長が言ってた大事な話って、結婚するって話だったんだ」


 呆然と呟いてノロノロと立ち上がると職場へ向かう。

 セオドアを待つ気にはなれなかった。


 いつもセオドアと一緒にやってくるシリルが一人で出勤し、席に着くなり黙々と仕事を始めたことで同僚達は怪訝な表情で顔を見合わせる中、セオドアが少し遅れてやってくる。

 シリルを見て何かを言いたそうに口を開きかけたが、結局その日の退勤時間まで二人が接触することはなかった。



「シリル、昨日言いかけた話だが……」


 ランチの時間もずらしてセオドアとの会話を避けていたシリルだったが、呼びかけられた言葉に身を竦めた。

 急な案件のため残業になってしまい同僚達は既に帰宅しており、部屋にはシリルとセオドアしか残っていない。

 責任感が強く部下想いのセオドアは、誰かが残業している間は決して先に帰ったりはしない。だが普段は頼りになるその行為も今日のシリルには有難迷惑で、やっと作業が終わり帰ろうとした矢先に話しかけられ、唇を噛んだ。


 セオドアが結婚するという話を聞いてから、今日一日ずっと自身に対して恋心を諦める説得をしていたシリルだったが、当然ながらまだ完全に踏ん切りがついたわけではない。

 それでも表面上は何とか取り繕って、セオドアが言いかけた言葉をシリルは遮った。


「そのお話でしたらもう知っています」

「え?」

「噂って早いですよね」

「そう……なのか? まいったな。シリルには先にちゃんと話しておきたかったのに」


 眉尻を下げるセオドアに、シリルは泣きそうになる。彼にこんな甘い表情をさせる結婚相手に嫉妬してしまいそうになる。


 恋愛結婚がしたかった。若い頃はそう漠然と思っていた。

 でも本当に好きな人を見つけても、相手が自分を選んでくれないのなら、それは叶わぬ夢である。


 同僚達にだって知られていたシリルの好意など、きっとセオドアは気づいていただろう。

 職場の皆に伝える前にシリルにだけ結婚の話をしたのは、強引にアピールする部下を無下には出来ずにいたが、結婚するのだからもう自分のことは諦めてくれというセオドアの意志表示なのだ。


「私は覚悟を決めました。だからもう大丈夫です」

「そうか……ありがとう」


 セオドアにお礼を言われたことが余計に虚しくて、涙が出そうになるのを笑顔で誤魔化して帰り支度をする。当たり前のようにシリルを待つセオドアを嬉しく思う反面やるせなさが滲んでくる。

 今朝まで勘違いしていた自分を脳内で何度も殴りつけながら並んで歩く王宮の回廊は、昨日までと打って変わってひどく長く感じられた。


 ◇◇◇


 翌日が休暇だったこともありシリルは自宅で泣きに泣いた。

 とめどなく溢れる涙と共にセオドアへの想いを吐き出し、つい恨み言めいたことまで罵りながら一人の夜を過ごしたが、いつの間にか泣きつかれて眠っていた。


 次の日の昼過ぎ位になって漸く起き上がると、鏡に映った幽鬼のような顔の自分に可笑しさが込み上げて腹を抱えて笑う。

 だがすぐにまた涙が零れてきて、タオルを探す。

 ふと手を伸ばした先に両親からの手紙が見えて、自棄のまま結婚を了承した旨を書きなぐった手紙を書くと、お腹がグゥ~と鳴いた。


「そういえば昨日の夜から何も食べてない」


 クスリと笑って手紙を握りしめると、泣きはらした顔を隠すためストールを巻いて外へ出る。

 手紙を投函し、目についた美味しそうな物を片っ端から出店で購入すると、自宅へ戻りドカ食いした。

 だが食べてる傍からまた涙が溢れてしまい、何度も自分を叱咤激励する。

 翌朝、時間ギリギリに出勤したシリルはセオドアへ退職願いを提出した。


「今朝は遅いなと思っていたが、何だコレは?」


 シリルから出された封筒にセオドアは眉間に皺を寄せる。他部署の人間が震えあがるセオドアの相手を射殺しそうなこの表情も、慣れてくると不可解なことが起こった時の彼の癖だということをシリルは知っていた。

 この表情になったセオドアは既に脳内で打開策を考え始めており、だからこそ突発的な不測の事態が起こっても対応が早いのである。


 仕草も癖もずっとセオドアを好きで、彼を見ていたからこそ知り得たこと。

 そのことを少しだけ寂しく思いながらもシリルは表情を変えずに淡々と言い返した。


「退職願いです」

「それは解るが、何故辞める必要がある?」

「結婚しますので」

「別に結婚しても働けばいいと思うが?」


 結婚というシリルの言葉に僅かに動きをとめたセオドアだったが、結婚相手については何も詮索しようとしてこなかった。

 そんなものかと、シリルの心がキュウっと締め付けられる。セオドアにとってはシリルの結婚などどうでもいいことなのだと改めて痛感する。


「いいえ。これは私のけじめの問題ですから」

「だが君は仕事を続けたかったのではないのか?」

「もう決めたんです」

「……そうか。すまない」


 謝られたら余計にみじめになるからやめてほしい、という言葉を飲み込んで、シリルは席に戻る。

 話を聞いていた同僚たちからは結婚を祝福されたが、やはり相手についての詮索はされなかった。

 今までそれなりに頑張ってきたし人間関係も疎かにしてはいないつもりだったが、職場での自分の価値などこんなものかと自嘲してシリルは薄く笑った。


 ◇◇◇


 退職が決まってからシリルは多忙の日々を過ごした。


 仕事を辞めるので引継ぎが忙しいと両親に告げると、両親は嬉々として結婚の準備を進めてくれ、結婚相手と会わないままに着実に外堀だけが埋まっていった。

 政略結婚なんてこんなものだと乾いた笑みで納得し、後任に引き継ぐ傍ら前にも増して仕事に打ち込むシリルをセオドアは心配して、馬車で自宅まで送ると言いだしたくらいである。

 シリルが固辞したお陰で回避できたが、内心は中途半端に優しくしないで欲しいというのが本音だった。

 諦めると決意しても、他の人との結婚が決まっても、好きな気持ちは雪のようにすぐには溶けて消えない。降り積もった大雪は春にならなければ溶けださないのである。

 せめて、これ以上想いを積もらせたくなかった。


 そんな鬱屈した日々を過ごす頃、両親から連絡が入る。

 自分の結婚式だというのに全て先方と両親任せにしていたが、さすがにドレスの試着だけは無理だからと懇願されたのだ。


 王都のドレス専門店前で両親と待ち合わせしシリルは用意されたドレスに着替える。

 仮縫まで終わったドレスは相手の髪色に合わせたそうだが、色がセオドアの髪色に思えてきて、まだ未練を引き摺っている自分に嫌気がさした。


 沈んだ気持ちのまま試着が終わるとシリルはカフェへ連れていかれた。

 そこで結婚相手と会うという。初めての邂逅だというのに「二人きりの方がいいだろう」と両親はシリルだけを残して帰ってしまいシリルは途方に暮れる。

 そういえば送られてきた釣書は放置したまま中身を見ていなかったため、相手の顔もわからないのだ。


「何やってんだか……」


 思わず溜息が出て頬杖を突いたシリルだったが、その肩を優しく叩く者がいた。


「シリル」


 優しく呼ばれた声にシリルは驚いて立ち上がる。


「し、室長?」


 突然立ち上がったシリルに店内の視線が集まり、セオドアが優しく苦笑した。


「とりあえず座ろう」

「はい。あ、いえ、申し訳ありません。私、待ち合わせをしていますので相席は……」


 瞳を彷徨わせながらも拒否する姿勢を見せたシリルに、セオドアは不思議そうな顔をする。


「待ち合わせ?」

「はい」

「誰と?」

「ええっと……」


 言い澱むシリルにセオドアは浮かべていた微笑をスっと消すと、鋭い視線を投げかけた。


「まさか男か?」

「そう……です」


 好きな人に向かって、違う異性と会うと言うのは中々に言い難い。

 だがもう正直に話したところで、セオドアが自分を選んでくれることはないのだから別に気にする必要はないだろう。

 そう思って肯定の言葉を告げれば、セオドアは盛大に眉を寄せた。


「……誰だ?」

「え?」

「最近、多忙でデートをしていなかったことが原因か? 通勤も退勤も私が待っていれば良かったのか? それとも私のために仕事を辞めることがやっぱり不満だったのか? やっと結婚までこぎ着けたのに浮気なんて許さない……相手の名前を言え。今すぐ排除して無かったことにしてやる!」


 早口で捲し立てるセオドアの言葉が理解できずにシリルが堪らず口を挟む。


「あの……室長? 仰っている意味が解りませんけど……?」

「私のシリルをたぶらかしたのはどこのどいつだ。それにシリルもシリルだ! 君がそんなに尻軽だとは思わなかった!」


 言い放たれた心無い言葉にシリルの鬱憤が爆発した。


「尻軽って……。何で私が貶められなきゃいけなんです? 私が誰と会おうが室長には関係ないじゃないですか! 大体、室長は結婚なさるのでしょう? 私のことは放っておいてください!」

「関係ないわけないだろう! 結婚はするが、シリルを放っておくことはしない!」


 セオドアの言葉にシリルは絶句する。

 他の人と結婚するのにシリルを放っておかないなど、愛人宣言したようなものだ。


「最低……! そんな人だとは思いませんでした! 軽蔑します!」


 踵を返してシリルはその勢いのままズンズンと店の出口へ向かう。外へ出る前に、カフェの店員と客に騒がせた非礼を謝罪すると、焦ったように引き留めるセオドアを無視して歩を進める。

 室長からの心無い言葉も胸に刺さったが、愛人認定されたことには心底嫌気がさした。


 地面を踏みしめるように大股で歩きながら、角を曲がり、橋を渡り、広場の噴水の前までやってきて、そこではっと、結婚相手と待ち合わせをしていたことを思いだし青くなる。

 戻った方がいいだろうかと考え、そういえば相手の顔も知らないんだったと項垂れた。


「最低なのは室長を好きなままで違う人と結婚しようとしている私の方だ……」


 歩いている間に冷静さを取り戻したシリルは噴水の前にあるベンチへ腰かけると、流れ出る水を掬う。


(結婚の話は取りやめてもらおう、慰謝料は、今まで貯金していたお金で足りるといいんだけど……足りなかったら、働いて返さなくちゃ)


 そこまで考えて、溜息を吐いた。

 苦労して合格した文官の仕事は既に退職願いを出し引継ぎ作業も終盤だ。今更退職をなかったことにとは言えないし、何よりもうセオドアの顔を見たくない。

 指の隙間から零れ落ちる水流を眺めながら、シリルは肩を落とした。


「当てつけで結婚なんて決めなきゃ良かった」

「それは、どういう意味だ?」


 ポツリと呟いたシリルに、頭上から氷のような声が降ってくる。

 見上げれば無機質な表情に瞳だけは憤怒の色を灯したセオドアが突っ立ていた。


「へ? え? 室長?」

「他に好きな奴がいたのか!? そいつと結ばれないから私で妥協したのか!?」

「はい?」


 責めるような口調で問い質され、シリルは訳も分からず曖昧な返事をする。

 そのことにセオドアは目を見開くと拳を握りしめた。


「……くそっ! どこのどいつだ!? 私のシリルを弄んだ奴は!? さっきもそいつと待ち合わせをしていたのか!? シリルは今でもそいつの事が好きなのか!?」

「いえ、先程嫌いになりました」


 セオドアが激高する意味は解らないが、シリルはつい仕事の癖で問われた内容に正直に答えてゆく。

 対するセオドアはシリルの肩を掴むと激怒から一転、悲しそうに眉尻を下げた。


「そうか、それほどまでに……ん? 嫌いになった?」

「はい。結婚するのに愛人を囲うような方だとは思いませんでしたので」

「何だと? 何て最低な奴なんだ! そんな奴嫌いになって正解だ!」

「本当にそうですね。ですが私も同じ位最低のことをしようとしました。だからバチが当たったんです」

「シリルが悪いわけはない! それよりも君を弄んだ奴の名前を言え! 私が必ず報復してやる!」

「室長にはできませんよ」

「何故だ? まさか相手は高位貴族の者なのか? それとも王家、いや隣国の貴族ということも考えられる……だがたとえ相手が誰であろうと、私のシリルを弄んだ奴には鉄槌を食らわせてやる!」

「無理です」

「いや、できる! そうしないと怒りで我を忘れそうだ!」


 シリルの肩を掴んだまま怒りを顕わにする今日のセオドアは、珍しく喜怒哀楽が暴走している。

 シリルはまた新たなセオドアの一面を発見できたことに心がときめいたが、同時に彼の身勝手な言い分に沸々と怒りが湧き上がってきた。


「だから無理だって言ってるでしょうが! そこまで言うなら教えてあげます! 私を愛人認定したのはセオドア・ルクセンバーク! 室長、貴方です!」

「そうか、わかった。今すぐ殺りにいこう……ん? セオドア……ルクセンバーク?」


 ギギギギとシリルを見下ろしたセオドアが、ゆっくりと自分の顔に向けて人差し指を突き立てる。

 目が合ったシリルが「そう、貴方です」と言わんばかりに頷いたのを見て、素っ頓狂な声を挙げた。


「は? 何故、私がシリルを愛人にしなければならない?」

「室長が先程自分で仰ったではありませんか。結婚はするがシリルを放っておくことはしないって」


 言ってて悲しくなってきたシリルだが、セオドアは目を丸くする。


「その言葉のどこが愛人認定なんだ?」

「そのままじゃないですか! 貴族のお嬢様と結婚が決まっているのに私を放っておかないなんて、愛人以外の何物でもないじゃないですか! 室長のこと好きだったのに! 私は室長を忘れるために、親が決めた人と結婚までしようとしてたのに酷いです!」


 泣き崩れるシリルにセオドアは唖然としたような表情になると、ゴクリと喉を鳴らす。


「シリル……大事な話だからよく聞け。お前、自分が結婚する相手の名前知ってる……よな?」


 確認するように問われて、シリルは相手の顔どころか名前まで知らなかったことを認識する。愛人も最低だが、自分の方が遥かに最低なのではと思い青褪めた。


「知りません……でも断ろうと思います。うちより上の爵位の方なので難しいかもしれませんが、室長の言葉で目が覚めましたから。愛人を囲うのも最低ですけど、当てつけで結婚するなんて不誠実な行為をしてはいけませんでした。誠心誠意謝罪して許しを請いたいと思います」


 先程のカフェでまだ待っていてくれるかもしれない相手を目指して、顔面蒼白で立ち上がったシリルの手をセオドアが握りしめる。


「待て! ……私は今、猛烈に混乱しているが、一つだけはっきり言えることがある。私、セオドア・ルクセンバーク伯爵が結婚する相手はシリル・コノート子爵令嬢だ」

「………………へ?」


 告げられた言葉の意味をシリルは理解できなかった。


 ◇◇◇


 真っ白な教会の中で、一組の夫婦が結婚式を挙げている。

 新郎であるルクセンバーク伯爵の横には、幸せそうに微笑むコノート子爵令嬢が寄り添い周囲からの惜しみない祝福の拍手を受けていた。


 あの日、王都の往来で愛の劇場を繰り広げた二人の噂はすぐに同僚達も知る所となり、盛大に揶揄われることとなった。

 シリルが誤解したセオドアの高貴な身分の結婚相手というのは、実は噂話をしていた同僚が平民だったため貴族は全て高貴という認識の違いからだった。同僚も相手の名前を知らなかったことと、貴族令嬢らしからぬ普段の生活水準のせいでシリルではないと結論づけたが、その後のセオドアの態度や結婚式の招待状からすぐに二人が結婚すると解ったらしい。

 長年セオドアに片思いをしていたシリルの想いが叶ったことを同僚みんなで嬉しく思っていたが、結婚を決めた途端に二人の仲がギクシャクしていくのをハラハラしながらも、第三者が口を挟むべきではないと黙って見守っていたそうだ。

 だからシリルが誤解していたことを知ると大層呆れられた。

 一方、怜悧と称され冷たい印象のセオドアだったが、この話をきっかけに同情心が集まり、今では労わるような眼差しで見られることが多くなったという。


 そのセオドアは、可愛いシリルを獲られたくなくて焦ったあまり、告白よりも先にコノート子爵家に結婚申込の手紙を送ってしまったことを詫びようとしていたが、シリルに知っていると言われ受け入れてもらえたと喜んでいた。

 結婚するからと自分に相談もなしに退職を決めたことは不服だったが、それだけ自分との結婚を真剣に考えてくれていることが嬉しかった。

 だが、どんどんと距離をとってゆくシリルに痺れを切らして、ドレスの試着にかこつけて会う約束をとりつけたのである。

 そしてあの騒動が起こったのだった。


 すったもんだの末に漸く結婚式までこぎ着けた二人が、優しく微笑み合う。

 自分色のドレスを纏い皆から祝福を受けるシリルに、セオドアが眉を寄せると腰を抱き寄せ耳元で呟いた。


「嫉妬でシリルが笑いかけた奴を殺ってしまいそうだ」

「室長、結婚式で物騒な発言をしないでください」


 往来での騒動以来、シリルを溺愛することを隠さなくなったセオドアは時折こうして重すぎる愛を見せてくる。ツッコミを入れるものの自分の前でだけ表情がくるくると変わるセオドアが嬉しくて、つい表情が緩んでしまう。

 シリルの笑顔に瞳を細めて応えたセオドアだったが、少し拗ねたように囁いた。


「そろそろ室長ではなく名前で呼んでほしいんだけどな。ここの所忙しかったからご褒美がほしい」

「……セ、セオドア様?」

「うん。シリル、改めて聞くよ。私の奥さんになってくれる?」

「はい!」


 途端に二人の会話を盗み聞きしていた周囲から喝采と喚声が沸き上がる。

 羞恥のために両手で顔を覆ってしまったシリルを横抱きにしたセオドアは、見せつけるように花嫁にキスをすると、悠然と闊歩していった。


ご高覧くださり、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  セシルが可愛くて素敵でした。 [一言]  初めまして、本羽香那と申します。  今回、この作品にレビューさせていただきました。
[良い点] めちゃくちゃ楽しいお話でした。じれじれしながらハピエンに辿り着きました。
[一言] 可愛いお話でした! もう、絶対読んでる方はカラクリが分かってるのでシリルー!!と、もだもだしながら楽しく読みました!勘違いからのハッピーエンド最高です! 頑張り屋さんのシリルが、ちゃんと皆に…
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