先生もの2
翌日、朝6時半ごろに職員室に行くと、先生たちがやけに騒がしかった。
「どうかしんですか?」
近くに居た指紋だらけのギトギトした眼鏡をつけた中年教師、中村に話しかけた。
「ああ、援助交際してる生徒がいたらしくて、村上先生が校長先生に報告しに行ってるらしいです」
「え、誰ですか?」
「1年2組の真辺 菜緒です」
絶句した。真辺 菜緒は俺が顧問を務める弓道部の生徒だ。ありえない。真辺はそんなことをするタイプではない。性格は活発で、誰とでもすぐ仲良くなるし、成績だって良い方だ。
「……それは本当ですか?」
「昨日、村上先生が歌舞伎町にいた時に偶然見つけたらしいです」
「それは真辺が男と一緒にいる所を見つけたということですか?」
「はい。写真も撮ったらしいですよ。なんでもあの水瀬 香織といつも一緒にいたので顔を覚えていたとか」
水瀬 香織はこの学校ではちょっとした有名人だ。間違ってると思ったら先生相手でも口を出すし、例のいじめ問題が起きた時も誰よりも早く行動した。問題児であり、優等生であり、とにかく面倒くさい生徒として先生の間では認知されている。その水瀬が唯一仲がいいのが真辺だ。だから覚えられていたということだろう。
「……それで処罰はどうなるんですか?」
「さあ、なにしろ我が校始まって以来の事例ですから。そこら辺は完全に校長や理事長次第だと思います」
「そうですか。ありがとうございます」
そう言った声は震えていたと思う。
まさか真辺が援助交際をしているとは……。確かに真辺は弓道部の中では、化粧やらリップやらを率先してやってくるファッションリーダーともいえる存在だった。そういう意味で彼女が援助交際をしていても不思議ではないのだが、でもどうして?どうして自分の体をお金にしようと思ったのか。真辺の家は貧乏ではないはすだ。というかこの学校ににわざわざ通っている時点で、そこそこ裕福なはずだ。なら、どうして?
頭の中で「どうして?」という疑問が尽きなかった。
そして水瀬 香織のことが心配になった。真辺は水瀬の唯一といっていい友達だ。この件を聞いて、水瀬は何を思うのだろうか。もう知っていたのだろうか。
「ーー先生!古橋先生!」
背中を叩かれる感覚に意識を戻された。横を見ると弓道部部長の鳴海 佳奈が心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
いつの間にか廊下に出ていたようだ。
「どうかしたんですか?」
「え?ああ。まあ、ちょっとな」
「疲れてるなら、休んだ方がいいですよ?」
「ああ……」
「じゃあ、今日日直の当番なんで私はもう行きますね」
そういうと鳴海は廊下をスタスタと歩いていく。その遠ざかっていく背中に得体の知れない焦燥感を感じて、声をかける。
「ちょっと待ってくれ!」
「なんですか?」
「鳴海は……いや、やっぱり何でもない。呼び止めてすまない」
鳴海は真辺が援助交際しているのを知っていたのか?と口に出そうとしたが辞めた。その答えを知ると、更なる答えを知りたくなってしまう。具体的には「鳴海も援助交際をしているのか?」という答えを。
「そうですか」と鳴海はにっこりと笑って、また廊下を歩き出した。その光景を見ているのが、何となく嫌で彼女とは反対方向に歩を進めた。
歩きながら自分の頬を叩く。しっかりしろ!と自分に言い聞かせた。まずは真辺本人からこの件について聞かなければ何も始まらない。他人が見た、まして村上が見ただけの情報を信じるのは馬鹿だ。
再び職員室に入ると、相変わらず職員室は真辺の援助交際の件でもちきりだった。処罰はどうとか。もみ消すとか。教育委員会がどうとか。
そんな話題を振り切るように自分の机について、ノートパソコンを開いた。しかし、やはり手につかない。どうしても視界の端で真辺の笑顔がちらついてしまう。
「古橋先生」
少しツンとした声で名前を呼ばれて見上げると、そこには村上がいた。彼女は勝ち誇ったような顔をしている。
「なんでしょうか、村上先生」
「聞きましたか?真辺さんの件」
村上は少し含みを持たせて、嫌味たらしくいった。
「はい」
「はい、じゃないでしょ?何か思うことはないんですか?真辺さんは弓道部の生徒でしょ?」
「真辺本人から聞かないと自分には……」
「古橋先生は私が信じられないということですか?」
「いえ、そういうことじゃないですけど、何か事情があったのかもしれないですし」
「事情?事情があったら援助交際をしていいんですか?」
「そういうことではなく。とにかく本人から聞かないと何も、何もわからないじゃないですか」
「はあ……古橋先生は生徒に甘いと思っていましたが、まさかこれほどとは」
村上は、大袈裟にやれやれという風に首をかぶりふった。それから周りの先生方を見て、「甘すぎですよねぇぇ?」と聞いた。先生方はその言葉に反応はしなかった。それを見て村上はチッと舌打ちをした。
「自分はただ、真辺のことを信じたいだけです」
いつもならしない反論が口を出ていた。しまった、と後悔したが遅かった。村上は顔を俺の方にムッと近づけた。村上の甘ったるい香水の匂いが鼻腔に入ってきた。
「なんでそんなに庇うんですか?彼女が女だからですかぁ?」
「生徒だからです」
「それだけですかぁ?まさかと思いますけど、古橋先生も真辺さんとそういう関係があったんじゃないですかぁ?」
胃の中でなにかドス黒いものが煮えたぎるのを感じる。目の前にいるババアをぶん殴りたい。そんな気持ちが頭の中を支配していった。
一回大きく深呼吸をして俺は彼女を無視した。それは俺がよくやる手段だったが、まだ何か言ってくるような手が出てもおかしくないくらい頭にきていた。
見かねた周りの先生方が仲裁に入り、村上は俺のデスクから離れて、またババア特有の世間話をする様に大声で真辺のことを罵知り始めた。
そんな雰囲気に耐えかねて職員室を出ようとした。しかし、直前で教頭先生に声かけられて、校長室へと行くようにと指示された。
シャツの第一ボタンを閉めて、ネクタイを上まであげ、髪を少し整えた。そして校長室の前に立った。一つ深呼吸をしてからドアをノックした。すると「どうぞ」という声がして、俺は「失礼します」といってからドアを開けた。
校長は頭痛抑えるように椅子に座って、煙草をふかせていた。校長は女性だけど、その姿はとても様になっていた。
「何の用かは分かるでしょ?」
俺が椅子に座ると同時に、校長は女性にしては低い声でいった。
「はい」
「真辺 菜緒、古橋先生が担当している部活の子よね」
「そうです」
「まさかとは思うけど、彼女が援助交際をしてることを知っていたわけじゃないでしょ?」
「もちろんです。知っていたら止めています」
「そうよね。なら最近変わったことは?例えば化粧をしてきたとか、部活動に出なくなったとか」
「最近でもないですけど、夏休みごろから化粧は何度かありました。勿論その度に注意して落とさせました。弓道部を休むことはなかったです。昨日もちゃんと来ていました」
「繰り返し聞くけど、古橋先生は真辺さんが援助交際をしてるのを知らなかったんですよね?」
「はい」
「そう。ならいいわ」
校長は手に挟んでいた煙草を灰皿でもみ消した。それから話を続ける。
「これから真辺 菜緒をここに呼ぶのだけど、古橋先生も同伴する?」
「いいんですか?」
「村上先生もいるけど、どうする?」
思わず苦笑いが込み上げた。どうやら、校長ですら俺と村上が仲悪いことを知っているらしい。
「もちろん、同伴します。彼女には直接聞きたいこともありますから」
「そう」
校長は表情を和らげた。
俺はこの人が嫌いではなかった。バリバリのキャリアウーマンだけど、俺らみたいな下っ端先生にもしっかりリスペクトしてくれてるからだ。同じ年頃の村上と比べたら、まさに月とスッポンだ。
「じゃあ、真辺 菜緒が登校したら呼ぶから、職員室で待っててちょうだい」
「はい。失礼します」
頭を下げて、校長室を出た。
すると無意識に緊張していたのか、大きなため息が漏れた。
「どうでした?」
自分の席に着くと、隣に座る例の長谷川が身を乗り出して、聞いてきた。
「どう、と言われても返答に困りますね」
「え、なにか言われたんじゃないんですか?」
「いわれたと言えばいわれましたが、校長は理不尽に怒る人ではないでしょ?」
村上とは違って、と心の中で付け加える。それが長谷川にも伝わったのか、彼はニヤリと笑う。
「そうですね。あの人は、姉さん気質というか、とにかくついて行きたくなる人柄ですもんね」
「ですね」
「でも部活動の顧問ってだけで呼ばれるんですね。担任でもないのに」
「まあ、ちょっとした聴取ですよ。援助交際のことを知ってるのに止めてなかったら問題でしょ?」
「たしかに。でもビックリですね。清純そうに見えて裏では何やってるかわかんないもんですね」
「しかし援助交際なんて、なんでするんですかね」
大した答えは返ってこないだろうな、と思いながら長谷川に聞いた。
「もし、古橋先生が性行為でお金が貰えるとしたら、やりますか?」
「どうでしょう。相手に寄りますかね」
「まあ、お年寄りの相手は僕も嫌です。でも、相手が30代で、そこそこ身嗜みを整えていたらどうですか?」
「それは……」
思わずさっき会ったばかりの校長先生を思い浮かべてしまう。あの人はたしか40代のはずだけど……でもありかもしれない。
それが長谷川にも伝わったのか、彼はニヤッと笑う。
「あり、でしょ?まあ、そういうことだと思いますよ」
「いやあ、でも高校生ですよ?いくらお金を稼ぐためとはいえ、割り切れますかね」
「お金が全てじゃないと思いますよ。例えば両親の注意を引くためとか。ほら、お金持ちの子供が親が構ってくれないから万引きをするとかよく聞くじゃないですか」
「なるほど」
「それに思うんですけど、彼女たち僕たちが考えてるよりずっと大人ですよ」
「そう……ですかね」
大人の定義がわからないが、俺からしたら小便くさいガキだ。そんなガキに手を出すロリコン野郎のことも嫌いだし、自分のことを大人だなんて勘違いしてる生徒も嫌いだ。
「勉強になりました。ありがとうございます」
出逢って始めて長谷川に感謝したかもしれない。
長谷川は照れ臭そうにへへと笑う。
「これから忙しくなると思いますけど、頑張ってくださいね。古橋先生」
「はい。そういう事情も含めて、何があったのか真辺に聞いてきます」
「そうしてください。あ、もし面白い話だったら僕にも聞かせてくださいね」
長谷川は下卑た笑顔を浮かべていった。10秒ほど前までもっていたリスペクトはどっかに行き、俺は「ai」と空返事をした。
教頭に呼ばれて再び校長室に入ると、真辺のクラス担任の初老教師と村上が既にソファーに座っていた。村上は何か言いたそうな目でジロリと俺を見たけど、校長の前だからか、何も言わなかった。
「予め言っときますけど、この場では嘘はやめてください。全て真実のみを話すように」
俺と村上を見て、だいたい何で呼ばれたのかを把握したらしく、「アンラッキーだなぁ」と真辺は呟いた。
「真辺 菜緒さん」
「はい」
「村上先生が、貴女が歌舞伎町で中年男性と一緒に歩いてるのを見たと言ってるのだけど、それは本当?」
「はい」
「その中年男性は貴女の親御さん?それとも親戚の方?」
「いいえ、ネットであった他人です」
驚いたことに真辺は嘘はつかなかった。
「そう。では、貴女はその人と性行為をした?或いは金銭を貰ったりした?」
「おじさんとSEXですか?はい、しましたよ」
真辺 菜緒は悪びれる様子もなく、いつものように快活な笑顔で言った。
それが酷く怖く感じた。この少女は、校長が性行為とボカした表現をしたのに、わざわざSEXと言い直したのだ。なぜ、そんなことを悪びれる様子もなく言えるのだろうか。それが怖いと感じた。
「なぜそんなことをしたの?」
校長は能面を被ったように表情のない顔で尋ねる。
「うーん、したかったからです」
「お金に困っていたの?」
「いいえ。ただ、自分で自由に動かせるお金って必要ですよね?」
資産家のようなことをいう真辺の言動は、やはりいつもの彼女のそれとは少し違っていた。笑っているのは同じなのだが、言葉の節々に馬鹿にしたようなニュアンスが散りばめられてるのだ。
「具体的には何に使うの?」
「お化粧とか、お洋服とかです」
「それはお小遣いじゃ足りないの?」
「足りる訳ないじゃないですか」
言外にオバさんという言葉を感じ取った。同じことを思ったのか隣で村上が「このガキ……」と言った。
「そう。ならバイトは?」
「この学校ってバイトは禁止されてますよね?」
「校則では、特別な場合を除くと書いてあるわ」
「化粧や服にお金を使うのはその“特別な場合”に含まれるんですか?」
「いいえ。でも、担任の先生に聞いて見なければわからないでしょ?」
「わかりきったことをするほど、私は馬鹿じゃないです」
そこで痺れを切らしたのか村上が話に入り込んだ。
「貴女ね、自分が何したかわかってる?」
「はい」
「なら何なの?その態度は」
「悪いとは思ってませんし」
「はぁ?貴方のしたことは未成年淫行なのよ。貴女と性行為をした人は条例によって裁かれなきゃいけないの。わかるでしょ?」
「でも、真剣交際の場合は罪に問われない。そうでしょう?」
「援助交際は真剣交際じゃないでしょ!」
「援助交際じゃないですよ。ただ、好きな人からお金を借りた、それだけです」
「はー、らちが開かないわ。もう親御さんを呼ぶしかないわね」
「そうですか。ところで村上先生はあんな時間に歌舞伎町で何していたんですか?」
「何って……ちょっと居酒屋に」
なぜか村上は言い淀んだ。確かにそんな時間に歌舞伎町で何をしていたのだろうか。居酒屋なら千葉からわざわざ遠出して歌舞伎町に行く必要がない。
「本当ですか?ホストでも行ってたのでは?」
「そんなわけないでしょ!」
「だといいですけど」
真辺のその言い方がより一層、村上を怒らせたのか、彼女の顔は茹でダコみたいに真っ赤になった。
俺は何か言いかける前に村上を手で制した。そうしないと話が進まない。
「どうしてこんなことをしたんだ、真辺」
「先生だってSEXしたいって思うでしょ?」
「お前はまだ未成年だ。犯罪事件に巻き込まれていたかもしれないんだぞ」
「先生、それ答えになってないよ。私は先生だってSEXしたいはずだよね?と聞いたの。答えは?」
真辺はジッと俺の目をを真っ直ぐと見据えた。その眼力と真辺の言葉には言い表せない圧力が込められていた。
「それは……したいと思う時もある」
「古橋先生!」
村上が咎めるように甲高い声で叫んだ。しかし、それを気にも留めず真辺は続ける。
「じゃあ、先生に私を止める権利はある?」
「いや、でもそれは俺が男性だからであって」
「それは差別だよ。女性だって男性のようにナンパしていいはずだし、風俗に行く権利はあるよ」
その言葉は思いの外、心に刺さった。自分を差別主義者だと思ったことはない。むしろ差別を嫌っている方だと思っていたのに、無意識のうちに差別をしていたのだ。
思えば男性の不倫より女性の不倫の方が世間一般的に体裁が悪いのは、そういう無意識の差別意識に起因するのかもしれない。そして俺自身、女だからというバイアスで生徒たちを見ていた要素があったのだ。それは俺が嫌う村上がいつも自分にしてきたことでないか。
「先生は女性はこうあるべきってレッテルを私に押し付けてるだけでしょ?」
真辺は蔑んだような、呆れたような顔をする。
何か反論しようとしたが、言葉が出なかった。何を言っても俺の中にある女性差別は明白で、全て薄っぺらい言葉になってしまった。
「私はただ、先生がそうするようにSEXをしただけだよ」
「……でも、お前はまだ子供だ」
「それだって差別だよ。子供はSEXしてはいけないの?」
「そうじゃない!ただ性行為はそんなに簡単にしていいものではないだろう。そこには……愛情とかがなければいけないんだ」
「へー意外。先生は愛とか口にするタイプじゃないと思ってた」
それは真理だった。自分でも自分の口から愛という言葉が出たのが意外だった。愛だとか、恋だとかは自分が一番馬鹿にしていた類のものではないか。
俺のそんな表情を見て真辺は口に手を当てて笑う。
「あはは、ごめん先生。虐めるつもりはなかったの。先生が心配してくれるのは、純粋に私が心配だからでしょ?」
その言葉を素直に認められず、俺は口を閉ざした。
真辺と話していると気分が悪くなってくる。真辺以外の生徒、水瀬や鳴海も裏では性行為してるのではないか。そういう気分にさせられる。
「でも、先生だって女子高生とSEXしたいと思うでしょ?そこに愛情なんてなくても」
「思わない」
一瞬、真辺の裸を思い浮かべてしまい、それを振り払うように俺は即座に否定した。俺より大袈裟に反応したのは、隣で聞いていた村上だった。
「貴女ね、何を言ってるの!?古橋先生が貴女みたいなちんちくりんを相手にする訳ないでしょ!」
「そうですか?でも、先生って今彼女いないでしょ?」
俺はその質問に答えなかった。それがこの手の質問を生徒にされた時、いつもすることだった。
それを見て、真辺は悪戯っぽく笑う。
「いないんだ。なら私が貰っちゃようかな」
「わかりました」
校長がいつもより低い、しかしよく通る声で言った。
「今度、都合の合う日に貴女の親御さんと4者面談をしましょう。それまで貴女は停学です。今日はもう帰りなさい」
「はい」
真辺は思いの外すんなりと同意した。
村上は何か言いたそうな顔をしていたが、その場では何も言わなかった。
そして、俺が真辺を昇降口まで連れて行くことになった。しかし、足取りは重かった。純粋な少女だと思っていたのに裏切られた。
「先生は、いつ童貞を卒業したの?」
「覚えてない」
自分でもビックリするぐらい低い声で返した。正直、真辺と話をするのは嫌だった。
「先生、今私のことが嫌いだな、って思ったでしょ?」
その言葉に虚を突かれて、言葉が出なかった。それが質問への回答でもあった。慌てて取り繕おうと言葉を考えたが、それよりも早く真辺は笑った。
「わかりやすいね。でも、嬉しいかもしれない。先生って生徒のことどうでもいいって思ってる節があるでしょ?だから、先生に嫌われるってことは特別なことだと思う」
「そんなつもりはない。嫌うと苦手だな、と感じるのは別だ」
「苦手と思ったことは否定しないんだ」
真辺は苦笑いのような、薄笑いのような表情を浮かべる。
「人間、生きてれば苦手な人間なんて幾らでも出てくる」
「ヒステリック村上とか?」
村上がヒステリック村上という風に生徒に呼ばれてるのは知っていたが、思わず笑いが込み上げた。
「そうだな」
「嫌われることは怖くないの?」
「怖いと思う時はある。それは、いじめとか物理的なものに派生するかもしれないしな。でも、誰からも好かれようとすることは疲れる」
「先生は香織に似てますね」
香織、水瀬のことだ。彼女と一緒にされるのは心外だ。なにより彼女に失礼でもある。彼女は嫌われることを怖い、だなんて微塵も思ってない。
だから俺はかぶりを振った。
「似てないよ。俺と水瀬は」
「そう?でも香織は先生のことを嫌ってるよ?」
「俺が嫌ってるから当然だろう」
「香織も同じようなことを言ってた。『自分が嫌ってるのに、相手からは好かれたいだなんて、虫が良すぎる』って」
思わず苦笑する。水瀬がそう言ってるのが簡単に想像できた。
「まだ援助交際は続けるのか?」
「辞める。次は退学になりそうだし」
真辺が本心から言ってるのかは、表情からは読み取れなかった。
「そんなに好きなのか?……そういう行為が」
「ううん。私はただ大人たちが否定する性行為が実際どんなものなのか、一回知りたかっただけ」
「ということは、今回が1回目だったのか?」
「そう。だからアンラッキーだったなって」
「そうか。……そんなに良いものでもなかっただろ」
「それセクハラだよ」
驚いて真辺の顔を見た。それまで散々SEXだの、何だの言っていた口から、そんな言葉が出るとは想定していなかった。
「すまん」
俺の謝罪に対して、真辺は手を叩いて爆笑した。
思わず顔が引きつるのを感じる。抑えろ。抑えろ。頭の中で必死に念仏を唱えて、怒鳴りたい衝動を抑えた。
「冗談だよ。でも確かにそんなに良いものではなかった」
「……そうだろな」
相手がおじさんなんだから、という言葉を出せば今度こそ本当にセクハラになるので口には出さない。
鳴海は何も言わず、少し物憂えげな表情をする。それは高校生の彼女には似つかわしくない表情だった。
「でも、私にとって処女ってそんなに大事じゃなかったんだ」
「どうして?」
「もし先生が高校生で、童貞を捨てる機会があったら、さっさと捨てるでしょ?」
「そうだな」
「童貞卒業は喜ばれることなのに、どうして処女を失うことはいけないことなの?」
「まあ、女性を自分一人だけのものにしたいっていう男のエゴだな」
「そんな考えって古臭いよ」
「そうだな。でも、相手が経験人数豊富だったらすこし嫌だろ?」
自分でも何言ってるんだ俺は、と思うほど本心から喋っていた。もしかしたら、真辺のあっけらかんとした態度がそうさせてるのかもしれない。
「そうかも、性病とか怖いし」
と真辺は顔を顰める。
「なら、次は大事にしろ」
「セカンドバージンってやつ?」
「いや、それは使い方が違う。セカンドバージンは最後の性交渉から長い年月性行為をしてないことを指す言葉だな」
「へぇ。初めて先生が先生らしく見えたよ」
「2年生になったら嫌でも俺の授業を受けることになるぞ」
「うへー、それも嫌かも」
真辺は苦虫を噛み潰したような表情をする。
「酷い言い草だな」
「だって、先生の声って聞いてると眠たくなるんだもん」
「自分の寝不足を他人のせいにするな」
「なんで寝不足ってしってるの?」
「弓道部でどんだけあくびをすれば済むのか、と思ってたんだよ」
「え、先生どんだけ私のこと見てるの。もしかして、ストーカー?」
真辺はわざとらしく自分の肩を抱き寄せた。
「あくび娘をストーカーする趣味はない」
「ちぇ、つまんないの。でも、見ててくれてるんだね」
「先生だからな」
「生徒に興味ないと思ってた」
「弓道部の生徒ぐらいは見てるよ。それが教師の仕事だからな」
「そうなんだけどさ……先生って何処か冷めた目してるし、壁を感じるからさ」
壁を作ってるのは事実だ。男性教諭は生徒と必要以上に接触してはいけない。女子校で教諭をする上での暗黙の了解だ。
保護者としては子供の不純異性交遊を避けるために女子校に入れてるのだ。それが万が一にでも生徒と先生の関係が発覚したら学校の評判が地に落ちてしまう。だから生徒を避けるのだ。
「これからは気をつけるよ」
「うん、そうした方がいいよ」
そんな話をしてると昇降口に着いた。既に生徒たちは登校し終わってる時間なので誰もいなかった。
上履きから外履に履き替えてる真辺を見て言う。
「寄り道するなよ」
「分かってるよ」
「それから、もうするなよ」
真辺は辟易した表情をする。
「分かってるって。先生ってもしかしてお母さん?」
「じゃあな」
「うん、ありがとう」
真辺はニッコリと笑った。その笑顔は高校生そのものであり、先ほどまで一緒に喋っていた達観した彼女とは別人に見えた。