33.染まる声
暖かな、優しい匂いが春を思い出させてくれる。
そよぐのは柔らかな風。木々を揺らして、波音のように耳に響いた。
細枝から風に流された蜘蛛の巣が一本、陽光できらきらと光っている。木漏れ日が揺れ動く枝葉に移ろって、色彩豊かな花々が遠くの丘まで咲き誇っていた。
美しいものだけを集めたような、優しい場所。
真綿に包まれるように、優しい場所。
ここには傷付けるものなんて欠片もない。傷付く弱い心もない。
そんな場所に一人立っていたオリヴィアの髪が、風に流される。片手でそれを押さえたオリヴィアは、周囲に誰もいない事に気が付いた。綺麗すぎるこの風景が、どことなく心細さを呼び込んでくる。
オリヴィアは自分で自分を抱くように両腕を回した。暖かかった風が少し冷たく変わっていった。
目の前に、幼い黒竜が現れた。
大切そうに両の掌に抱えられているのは、幼い頃の自分だ。
鱗のひとつまで光を帯びた美しい黒竜は、金色の瞳にオリヴィアを捉えた。どこまでも深く、どこまでも澄んだその瞳に宿るのは意思の強さ。思えば自分は最初から、この瞳に惹かれていたのだ。傷付き、濁っていたとしても、宿る光は変わらない。
この竜を助けたいと思った。
声が無くなったと聞いた時、悲しみよりも、竜が生きている事に喜びを覚えた。どうしてそこまで黒竜に固執するか、家族には分かって貰えなかったけれど。
助けたいと願った、それが叶った。それならもう、そこには喜び以外にないじゃないか。今ならそう、はっきりと言えるのに。
抱えられている自分は消えて、黒竜がリベルトの姿になる。
いつも手荒に乱している黒い髪に触れたいと思った。その美しい金の瞳にわたしだけを映して欲しいと思った。わたしの名前を呼ぶ低い声に胸の奥が苦しくなった。抱き締められると心臓が喧しくて、少し怖いのに離さないで欲しいと願った。
いつから、だとか。どこが、だとか。
そんなのはもうどうでも良かった。
「わたしはリベルトが好きなんだ」
呟いた声は自分でも驚くくらいに甘くて、恋慕に染まっていた。
美しかった景色が硝子のように割れていく。砕けた破片が天空へと吸い込まれていく。
後に残されたオリヴィアは、暗闇の中でただひとり。それでも何も怖くなかった。
美しくなくてもいい。
醜くても、傷付いても、それでもいい。ここはわたしの居場所じゃない。
オリヴィアは目を閉じて、まるで自分が融けて消えていくような、そんな感覚に身を委ねた。
目を開く。
瞬きを繰り返すと霞んでいた視界が明瞭化する。
目を覚ましたオリヴィアが最初に見たものは、心配そうに自分の事を覗き込む姉の姿だった。
「オリヴィア、目が覚めたのね。……良かった」
ロザリアの瞳が涙に揺れる。ひとつの瞬きを合図として、溢れた涙が溢れ落ち、シーツを濡らしていった。
そんな姉の姿に、自分の状況を思い返す。ゆっくりと上体を起こして胸元を見るも、そこにあるべき傷は無く、着替えさせてくれたのか服に破れも血痕も無かった。
「無茶するんだから、もう。あんたがいなくなったら、あたしは……」
「ごめんなさい」
響いた声に、オリヴィアとロザリアは顔を見合わせた。
二人とも驚きに目を丸くして、お互いの顔をじっと見ている。
「……オリヴィア?」
「……姉さん?」
「声が……」
「……出てる」
確かめるようにゆっくりと、オリヴィアが言葉を紡いだ。思うままに唇の震えるままに、言葉が声となって発せられる。
ロザリアは顔をくしゃりと歪ませると、先程よりも大粒の涙を溢れさせてオリヴィアに抱きついた。ベッドに片手をついて、その衝撃を受け止めたオリヴィアは、両腕をロザリアの背に回して抱き締めた。そしていつしかオリヴィアの瞳にも涙が浮かんでいた。
「声が、戻ったのね……!」
「心配かけてごめんなさい、お姉ちゃん」
「あんたって子は……! もう、あたしを泣かせてどうするつもりよ!」
約束を果たしたオリヴィアに対して、ロザリアが更にぎゅうぎゅうと抱き付いてくる。その温もりが心地よくて、愛しくて、オリヴィアは嬉しそうに笑うばかりだった。
「あんたの声が戻った要因だけど……ひとつ、思い当たる事があるのよね」
落ち着きを取り戻したロザリアは、盛大に鼻をかんでからベッド横に椅子を置いてそこに腰を下ろした。未だ目元が赤く、多少の腫れぼったさが残っている。
「思い当たる事?」
姉の言葉を繰り返したオリヴィアは、未だに自分の声に慣れていないのか何度も喉を擦っている。なんだか擽ったくて、恥ずかしいようなそんな不思議な感覚だった。
「あんたが自分を剣で刺した後。リベルトがあんたの体に治癒魔法を掛けたんだけど……あれはあたしの知ってる治癒魔法なんてものじゃなかった。自分の魔力、もしかしたら生命力まで叩き込むような、そんな荒々しくて激しい魔法」
オリヴィアは喉を擦っていた手を、無意識に胸元に滑らせた。
「あんたは昔、魔力の全てを使ってあの男を助けたでしょ。今回、同じようにしてあいつがあんたに魔力を送り込んだ……それがひとつの引き金になって、声が戻ったのかもしれない」
「リベルトは無事なの?」
自分を助ける為に、リベルトが何かを失っていないだろうか。オリヴィアは不安に襲われて、落とした両手で上掛けをぎゅっと握りしめた。
「無事よ。一度は片手が千切れてたけどそれも再生したし。……あんたのおかげでみんな助かったのよ。はらはらしたからもう二度とやらないで欲しいし、させないけど」
「もうしないわ。怖かったもの」
「そうして頂戴。……あたしはやっぱりあんたが一番大事だから、あんたが傷付くのは嫌なのよ」
「分かってる。心配させてごめんね、姉さん」
「もう一回、お姉ちゃんて呼んでくれたら許してあげる」
「……お姉ちゃん、ありがとう」
改めて口にするのは気恥ずかしいものがあった。それを誤魔化し、笑み混じりに紡いだ言葉にロザリアは満足そうに大きく頷いた。
「あの後のことは……あいつから聞いたらいいわ。あんたが目を覚ますのをずっと待って、いまも廊下をうろうろしている情けない男にね」
「廊下にいるの?」
「気配を隠しているつもりなんだろうけど、あたしにはお見通しよ。オリヴィア、変な事をされる前にぶん殴るのよ」
「もう、大丈夫よ」
相変わらずの姉の調子にオリヴィアは苦笑いをするしかなかった。
ロザリアはオリヴィアの頭をぽんと一撫でし、それから部屋を出ていった。
静かになった部屋に、廊下の喧騒が聞こえる。姉の声と、リベルトの声。話の内容までは聞こえないのに、なんとなく何を言っているかは想像がついて、オリヴィアは肩を揺らした。
喧騒が遠ざかったかと思えば、ノックが響く。応えを待たずに扉を開けたのはリベルトで、その顔には疲労が色濃く表れていた。
それを見たオリヴィアは、困ったようにただ笑った。




