25.悪意と優しさ
翌朝、朝食を済ませた姉妹は荷物を整理していた。
予想していたよりも滞在が長くなってしまった。町の人達からの依頼が溜まっているかもしれない。出来れば少し長いお休みが欲しいけれど、それも難しそうだ。
そんなとりとめもない話をしながら、荷物をまとめ、借りていた部屋の掃除をしていた。
――コンコンコン
軽やかなノックが、静かな室内に響く。
厭そうにロザリアが応えると、入室してきたのはルーゲと、その後ろに侍女が三人。そこにカミラの姿がない事に、オリヴィアは一抹の不安を感じていた。
「おはようございます、ロザリア様。改めまして、お疲れさまでございました」
「おはようございます。確認はして頂けましたか」
「それがもう少し掛かりそうなのです。昼までには終わらせますので、それまでリベルト様とお茶などいかがでしょうか」
「いえ、こちらで待たせて頂きますので」
「まぁまぁ、そう仰らずに」
相も変わらず無愛想なロザリアの様子に、ルーゲはにこやかに笑うばかり。ルーゲの後ろに控える侍女達も穏やかな笑みを浮かべている。
今日もルーゲの体からは悪意が靄となって溢れている。その表情さえ時折霞んでしまうほどの靄。
控える侍女の二人からは、オリヴィアへと悪意が向けられている。悪意を向けていないのは、もう一人の侍女のイリスだけだ。この侍女はオリヴィアに対して悪感情を持っていないのか、良くしてくれていた。
『ロザリア様だけが残ればいいのに。妹は山だか森だか知らないけれど、そこで慎ましく暮らしていればいいのよ』
『相変わらず陰気な妹ね。クマもひどいし情けない顔だわ』
悪意の棘は言葉と姿を変えて、容赦なくオリヴィアに突き刺さる。
それに加えて、今日はルーゲも一緒なのだ。あの溢れる悪意の靄にあてられたオリヴィアは、眩暈を起こしてベッドへと座り込んでしまった。
「オリヴィア」
「大丈夫ですか?」
ロザリアと共に、イリスが駆け寄ってくる。
オリヴィアが小さく頷いてから顔を上げると、蒼白ともいえる程の顔色の悪さにロザリアとイリスは息を飲んだ。
「休んだ方がいいわ」
「オリヴィア様はわたくしにお任せを」
「そう、ね。……ええ、お願い」
氷のように冷え込んだ指先から、全身に震えが広がっていく。悪意が強くて呼吸が出来ない。オリヴィアが浅い呼吸を繰り返すと、イリスが背を撫でてくれる。
「妹君は体調が宜しくないようですし、休まれるのでしょう。ならばロザリア様は是非にお茶会へどうぞ」
「……行きましょう」
妹への悪意の意識を逸らせようと、ロザリアは渋々ながらお茶会に出る事を了承した。
その返事にルーゲは満足そうに頷くと、後ろに控える侍女に目配せをしてから部屋を出ていった。
「ではお支度を致しましょう」
「ロザリア様の髪に映えるドレスを選んできましたの」
二人の侍女はロザリアを囲むと楽しそうに支度を始めた。
今日、用意されたドレスは薄緑で、胸元や袖、裾に白のレースがふんだんに重ねられた豪華なものだった。
無表情で着替えさせられる姉の姿に、申し訳なく思いながらもオリヴィアはベッドに横たわった。呼吸は落ち着いたけれど眩暈がひどい。世界がぐるぐる回っているようだ。
「オリヴィア様、お手をどうぞ」
イリスに助けられて身を起こすと、ベッドの中に潜り込む。寒くて仕方がないのに熱くて気持ちが悪くなる。
吐き気を堪えていると、イリスが氷枕の準備をしてくれているのが視界の端に見えた。皮袋に魔法で生み出された氷が満たされていく。そこに水を足して、固さを確認したイリスはオリヴィアの頭の下に入れてくれた。
声にならないありがとうを、唇に乗せる。
伝わったようでイリスはにっこりと微笑んだ。
「ロザリア様、とってもお綺麗です」
「髪は編み込みにしましょうか。小花を飾るとお花の妖精みたいで素敵ですよ」
楽しげな侍女の声と裏腹に、ロザリアの纏う気配は凍てついている。それを感じているオリヴィアは眉を下げた。
姉は自分を守るために、支度をしてお茶会に向かおうとしている。守られてばかりいる自分の不甲斐なさに視界が滲んだ。それを上掛けをかぶって誤魔化すと、カランと澄んだ音が聞こえた。
「オリヴィア様、ミント水です。ピッチャーに入れておきますね。いま、お飲みになりますか?」
上掛けからそっと顔を出して窺うと、サイドテーブルにミントの浮かんだピッチャーとグラスが用意されていた。透明な氷の浮かんだガラスピッチャーは、その冷たさを表すように装飾のあしらわれた表面が白く曇っている。
オリヴィアが首を横に振ると、イリスは頷いてその場を離れた。
入れ替わるように支度を終えたロザリアが枕元にやってくる。
「大丈夫?」
ドレス姿のロザリアはとても美しかった。
薄緑のドレスはロザリアによく似合っていて、膨らんだスカートが華奢な肩や腰を引き立たせている。袖は広がって白いフリルで飾られていた。
編み込まれた髪は一本に纏まって、肩から胸元に下りている。白い小花がいくつも飾られて可憐な雰囲気を醸し出している。
綺麗だと告げようとしたオリヴィアの枕元に、そっと魔法黒板が置かれた。イリスが持ってきてくれたのだ。
気遣いに感謝しながら、オリヴィアは魔法黒板に文字を紡いだ。
【とても綺麗よ。よく似合っているわ】
「ありがとう。ゆっくり休むのよ。お昼には帰りましょうね」
【ええ】
オリヴィアは魔法黒板の文字を消すと、すぐにまた魔力を流す。
【気を付けてね。なんだか不安なの】
「分かってる。あたしも……そんな予感がしてるから。あたしの予感が当たるのは知っているでしょ」
【そうね。姉さん、本当に気を付けてね】
「あんたも。その顔色のままだと、家に帰っても本当にベッドから出さないんだから」
ロザリアはオリヴィアの髪を優しく撫でた。その心地よさに目を細めて、オリヴィアは魔法黒板から手を離す。
「行ってきます。イリスさん、オリヴィアをお願いね」
「承知しております」
ベッドを離れたロザリアは、侍女二人に先導されて部屋を出ていった。
部屋に満ちていた悪意が消えて、空気が軽くなる。
「お眠りになりますか?」
イリスの問い掛けに、オリヴィアは小さく頷いた。イリスも頷くとベッドを離れて窓辺へ向かう。カーテンを下ろして日差しを遮ると、室内は切り取られたかのように薄暗くなった。
「わたくしもこのお部屋におりますので、ご安心ください」
【ありがとう、イリスさん。棚に片付け途中の本があるの。良かったらそれを読んでいて】
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」
ずっと何もしないで待っていられるより、何かをして貰っていた方がオリヴィアとしても気が楽だ。それを分かっているかのように、イリスは本棚へと向かった。
上掛けに包まり、丸くなったオリヴィアは目を閉じた。
思い出すのは先程のルーゲが纏っていた悪意。あの笑顔を思い浮かべるだけで背筋が震える。
昨日の悪意の靄の中には、苛立ちや不満が溢れていた。今日も同じだったのだけど、何か違和感があった。それが何なのか、考えているうちに睡魔が忍び寄ってくる。そういえば昨日もろくに眠れなかった。起きていたい日中に眠たくなるなんて、皮肉なものだ。
眠りに落ちる間際、オリヴィアはその違和感に辿り着いた。
愉悦だ。薄気味悪い愉悦が、あの悪意の中にはあった。




