11.雨の気配とバルコニー
入浴を済ませたオリヴィアは、寝着の上にガウンを羽織ってバルコニーに出ていた。
この後は天気が崩れるかもしれない。風にほんのりと雨の気配が混ざっている。
湯浴み後で髪を下ろしているオリヴィアは、胸辺りまで伸びた髪を背に払った。やっぱり結んでいる方が楽で好きだ。
浴室から調子外れの鼻唄が聞こえてきて、オリヴィアは表情を綻ばせた。使っているのは姉だが、なんだか機嫌がいいらしい。
ロザリアはオリヴィアの使う魔法黒板を改良したいのだと、食事後はそれに向き合っていたのだ。すぐに改良出来るものではないらしいが、数日中にはもっと使いやすく出来るだろうと言っていた。
魔導具に向き合っている時のロザリアは生き生きとして瞳も輝いている。そんな姉の様子を見るのがオリヴィアは大好きだった。
月に薄雲がかかっている。綺麗な弓張月だった。
何をするでもなく、ぼんやりと空を眺めていたオリヴィアは草を踏みしめる足音がする事に気付いた。そちらに目を凝らしてみると、月明かりを受けて金色が煌めくのが分かった――あれは竜王だ。
リベルトもオリヴィアに気付いたのか、バルコニーの下までやってくる。
掛けられる《《声》》もなく、この暗さでは魔法黒板も用を成さないだろう。困ったように眉を下げたオリヴィアは、そっとリベルトに手を振った。
自分でも、どうしてそんな事をしたのかは分からなかった。
「下がっていろ」
リベルトの声に従って、オリヴィアが数歩下がる。一体何だろうと首を傾げたのも束の間で、ばさりと翼をはためかせる音がしたかと思うとリベルトがバルコニーまで飛んできていた。
背中には竜の翼、頬や手の甲には黒い鱗が浮き出ている。これは半竜の姿という事なんだろうか。瞳孔が縦に割れて、金の虹彩が人の姿の時よりも深い。
月影に照らされるその姿は息を飲むほどに、美しかった。美しくて、ぞっとする程の恐ろしさまで感じる程に。
(そうだ、お花のお礼を言わないと)
ふと我に返ったオリヴィアは口を開くも、当然声が出る事はない。魔法黒板は室内だ。取ってくるまで待っていてくれるだろうか。そんな事を思巡していると、リベルトがくつくつと低く笑った。
「話す手段だろ? 俺は唇が読めるから大丈夫だ」
唇が読める。
そんなスキルをどうして身に付けているのか気になったものの、そう言うのならとオリヴィアは口を開いた。
【お花をありがとうございました。とっても綺麗です】
「どういたしまして。もう体調はいいのか?」
【ええ、時々臥せってしまうだけだから】
「そうか。無理はするなよ。あの呪われた魔導具だって、使えねぇならそれでもいいんだ」
会話が成立している。
その事にオリヴィアは、何とも言えない喜びが胸の内に沸き立つ事を感じた。嬉しさに笑み綻ぶとリベルトも金瞳を細めた。
【魔導具は解呪してあげないと。その役目を果たせないのは可哀想だから】
「そういうもんか? まぁ、お前達が辛くないならそれでいいんだが」
ひとつ頷いたリベルトが気だるそうに首をぐるりと回す。それだけで背中の翼は一瞬で消え、浮き上がっていた鱗も無くなっていた。
「お前に聞きたいことがあるんだが」
【なんでしょう】
「……八年前、俺を救ったのはお前か?」
【わたしは魔法を使えないわ】
「あの子は魔法を使わずに、歌う事で俺の傷を癒したんだが」
【声が出ないのは、あなたも見ての通りよ】
「そう、か……。いや、悪ぃ。お前の姉ちゃんにも言われてたんだが……俺を救ったのはお前達じゃないって」
リベルトは小さく溜息をついた。その様子が余りにも哀しそうで、思わずオリヴィアはリベルトの腕に自分の手を添えていた。
温もりに、リベルトは伏せていた視線をオリヴィアに向ける。
【どうしてそこまでして、その子を探すの?】
「深い理由なんてねぇよ。ただ、あの歌声が耳から離れねぇんだ」
【そう……】
リベルトの言葉に、不思議と喜びを感じる反面、オリヴィアは深い悲しみも感じていた。この人にわたしはもう唄ってあげる事が出来ない。その想いが昏い影となって心に刺さる。
「お前達が何を隠してるのかは知らねぇけどよ、あの子の事を知っていたら教えてほしいってだけだ」
【どうしてわたし達が隠し事をしていると?】
「俺は動物達に連れられて、あの子を家に送り届けてんだよ。お前達の住む、あの家にな」
【勘違いじゃなくて?】
「あの森の中に、他に家が建ってるってんなら教えてほしいぜ」
リベルトが盛大に肩を竦めて見せる。その様子が何だかひどく幼く見えて、オリヴィアは笑った。声はないけれど楽しげな様子に、リベルトも表情を和らげる。
「ちょっと! 妹に手を出さないでって言ったでしょ!」
「でけぇ声で人聞きの悪い事言うなっての」
風呂から上がったロザリアがガウンを羽織りながら、バルコニーに飛び出してくる。その剣幕に思わずオリヴィアは笑ってしまった。
「オリヴィア、大丈夫? 変な事はされてない?」
オリヴィアを背に隠しながら、ロザリアが心配そうに問いかける。魔法黒板を手にしていないオリヴィアは言葉を伝える術を持たず、何度も頷いて見せた。
「ただ話してただけだろ」
「こんな時間に女の子の部屋に侵入すること自体が、間違ってるって言いたいのよ」
「部屋には入ってねぇんだが」
「もう! ああ言えばこう言うんだから。めんどくさい男ね」
今にも噛みつきそうな程に怒りを露にするロザリアを、リベルトは軽く流すばかりだ。
それをどう宥めようかと考えていたオリヴィアは、ロザリアの髪から雫が滴っている事に気付いた。髪も乾かさないで飛び出してきてくれたようだ。
【姉さん、風邪を引いちゃうわ】
「風邪を引くって言ってるぞ」
「え、なに……?」
オリヴィアの唇を読んだリベルトがそれを伝えるも、ロザリアは何の事かとばかりに困惑の声を漏らす。オリヴィアは濡れた髪に触れながら再度口を開いた。
【髪を乾かさなくちゃ。部屋に入りましょう】
「髪を乾かすから、部屋に入ろうってよ」
「……あんた、オリヴィアの声が聞こえるの?」
「唇が読めるんだよ、俺は」
「……っ、ふん! 唇が読めるからって、勝った気にならないでよね!」
「何の勝負だよ」
半ば威嚇するようなロザリアの様子がまるで怒った猫のようで、オリヴィアは肩を揺らして笑い出してしまう。そんな妹の様子に、ロザリアもようやく表情を和らげた。
「入りましょう、オリヴィア。今日も一緒に寝ましょうね」
「おい、お前の姉ちゃんは何を張り合ってんだ」
【さぁ?】
「まぁいいけどよ。おやすみ、オリヴィア」
片手を振ったリベルトはその手を手摺に掛けて、軽い身のこなしで飛び降りる。それを見送って、オリヴィアはロザリアと共に室内に戻った。
ロザリアの髪はすっかり冷えてしまっている。
「……何を話していたの?」
【助けたのは誰かって、それを聞きたかったみたい。魔法も使えないし、声も出ないって言ったら納得していたみたいよ】
「そう……」
鏡台で髪を乾かすロザリアの隣に椅子を持ってきて、オリヴィアはそこで魔法黒板に言葉を紡ぐ。その様子を見たロザリアの瞳に、一瞬翳りが差したのをオリヴィアは見逃せなかった。
【どうかしたの?】
「……悔しいだけ。あの男なら、オリヴィアがそれを使わなくてもお喋り出来るのかと思うと。絶対にそれを改良して、もっとあんたがお喋りしやすいようにしてやるんだから……熱っ!」
ぐっと力を込めた拍子に、手元の魔力調整が狂ったらしい。髪を乾かす為に手元から出していた温風が熱くなりすぎて、ロザリアは顔をしかめた。
【大丈夫?】
「ええ、大丈夫。これも全てあの男のせいだわ」
八つ当たりにオリヴィアは苦笑いだ。
それでも姉の気持ちが嬉しくて、そっとその肩に頭を寄せた。
そういえば、あの人はわたしの名前を呼んだ。
その事に気付いたオリヴィアは、胸の奥のもっと深くがずくんと痛んだような気がして吐息を漏らした。その痛みが何なのか、まだ知りたくはなかった。




