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天京の聖杯  作者: はぐれイヌワシ
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死を奪う毒


それから三年の後、李自成は国号を『順』と定め、北京へ向けて最後の進撃を開始した。

最早官軍も彼らを押し留めようとはしなかった。


崇禎十七年三月十八日の夜。


「…何故、そなたらは皇女になぞ産まれてしまったのだろうなぁ…」

由検は、自らの三人の娘を斬り殺した。

『賊軍に穢されない為』ということで双方合意の上での子殺しであった。


「公主様達の亡骸を運ばせていただきます」

太監の王承恩が、由検に許可を求めた。

彼は由検が産まれた時からの世話役でもあり、由検が信頼する数少ない人物の一人であった。


「わかった。皇后や太后、その他の女達に『それぞれの方法で身を処するように』と伝えてくれ

…一人でこなすには大儀かもしれんが…」

由検に最期まで付き従ったのは、王承恩一人であった。

あとの宦官、いや、廷臣も含めて紫禁城に出入りしていた男たちは皆、明朝を見限っていた。


***


「長平公主は腕を少し斬られただけで、まだ息をしておられる。急ぎ、宮城から連れ出すように」

王承恩は近くにいた女官に告げた。


「妃賓たちへ、詔を」

「はっ」

詔を受け取った女官の一人が、仁寿宮の方へ向かった。


遠くで、由検が文武百官を集めるための鐘を鳴らした。


***


張嫣は、国が滅びようとするのを何処か他人事のように感じていた。


何れはこうなる時が来ると、薄々わかっていた。


とうとう子を成せぬまま、国を救えぬまま終わろうとしている自分。


「陛下より、詔と杯でございます」

どういう詔だかは大体わかる。


「『皇嫂が穢されるようなことがあっては、天啓帝に申し訳が立たぬ』と陛下が仰っておりました。

全く苦痛を感じずに逝くことの出来る毒杯でございます」


見ると、黄金の杯には、真紅の液体がなみなみと湛えられていた。


―――私が、苦痛なしに逝く事を望むとは。


張嫣は、由検のいじらしさに僅かにほほ笑んだ。


彼が自分に想いを寄せている事は薄々感じていた。

だが、由検は生真面目な男であったので嫂に想いを伝える様な反儒教的行動には出なかった。


その代わり、張嫣によく似た、田秀英という女性を即位前から寵愛していた。

田秀英は男子を三人産み、皇后である周氏ともしばしば争ったが最終的には和解した。


その田秀英は二年ほど前にこの世を去っている。

この亡国の瞬間に立ち会わなくて彼女は幸運だと思ったが、

同時に自分を愛していた帝がこの後どうなるか憂いながら死んでいったのではないかと思いを馳せた。


―――由検、私達が産まれた時には、既に、この国は、手遅れだったのだよ。


―――何れ自我を蝕んで殺す悪果によって生かされていた国であった。


―――私たちはそれを知らず、悪果を一つ残らず刻んだら、臓器が無くなってしまった。


最早、彼と彼女に残された希望はたった一つ。

『誰よりも安らかな死』の為に、張嫣は紅い液体を呑み干した。


***


翌朝、紫禁城北の景山に、二つの首つり死体がぶら下がっていた。

由検と、王承恩である。


由検の死体は髪を解き、全て前に垂らしてあった。

『祖先に顔向けできない』という意味である。


由検は年号が『崇禎』だったので『崇禎帝』と称される。


***


数時間後、紫禁城に入った李自成は、宮中に転がる多数の女たちの死体と、裏山の首つり死体を発見した。

由検の死体の前で、李自成は言った。


「―――あんたが馬鹿とか極悪人とかにはどうしても思えない。ただ、部下どもが悪すぎた。

大半は利権争いと政争に気を取られ過ぎて、民衆が死にかけている事に気づいてすらいなかったんだ」


由検こそが、最初に李自成を失業させた張本人であるのに、だ。


***


目を開けると、先程と全く変わらない、仁寿宮の天井が広がっていた。


―――死に損ねたか!

しばらくしてその事実に思い当たると、杯を渡した女官を探し回ったが、もうどこにも見当たらなかった。

その時は、まだ、纏足の筈の自分が、裸足で仁寿宮を駆け回っている違和感に気づくことはなかった。


―――ええい、縊れて死ぬよりは!

髪を解き、男のように結い上げて、白布を胸に巻いた。

煌びやかな着物を脱ぎ棄て、首を括って死んでいた宦官の服を剥いで着た。

様々な死に方をしている女と宦官の累積する後宮を抜け、父の邸に向かうことにした。


もう、空腹も疲労も感じなかった。

その代わり、酷く喉が渇いたのであちこちの家の店先に置いてある水瓶と柄杓で幾たびも喉を潤そうとしたが、

全く効果がなかった。


***


渇きを抱えたまま、どうにか邸にたどり着いた。

しかし、生きた人の気配がしない。


―――まさか、ここも。

思った通りであった。

邸の人間は皆、生きてはいなかったし、値の張りそうな財物や食物は消え失せていた。


―――賊軍にやられたか!

張嫣は父の寝室に向かった。

「父上っ!」

父の屍があるとすれば、そこであろう。


****


思った通り、張国紀は惨殺されていた。

だが、張嫣は悲しむよりも先に自分自身思いがけない行動に出た。


なみなみと溢れ出る父の血にその掌を浸して掬い取り、夢中になって啜ったのだ。


ひとしきり啜った後、張嫣はやっと自分が人間として極めて異常な行動に出たことに気づいた。

同時に、やっと喉の渇きが失せた事と、

纏足の包帯がすっかり解け、そこから生まれたままの天足が露わになっている事にも気づいた。


―――『死を齎す毒薬』ではなくて、『死を奪う毒薬』を、由検は私に渡したのか?


―――否、そんな薬があったら、由検の意思に関わらず、まず帝が飲むべきものであろう。


――― そして、由検は恐らく妻子と共に死んだ。


張嫣の出した推論は、『あの女官が既に何者かと入れ替わって、宮中に存在しない薬を飲ませた』である。


―――ええい、だから、紅い薬は信用できぬのだ!


***


李自成の軍は厳格だった規律がすっかりと緩み、

金持ちの家と見えたらすぐに襲ってあらゆるものを奪い、奪っても仕方がないものは殺す者が多かった。

だから張嫣がその『暴徒』の中に紛れ込む事も、また容易ではあった。


李自成に媚びようとして失敗した父の同僚たちの血肉を、こっそり啜れば飢えも渇きも、疲れもなかった。


「おい、金持ちどもを殺して奪うのは今日が最後だそうだぞ。

何でも、北の果ての山海関にいる呉三桂はまだ明が滅びた事も知らないで、満洲軍と睨みあっているらしい。

呉三桂は袁崇煥亡き後明国最強の軍らしいから、

万が一満洲軍と組んで俺たちを攻撃したら目も当てられないからって、

北京にいる奴の家族を人質にして交渉しに行くんだとさ」


呉三桂。

張嫣はその名前に、聞き覚えがあった。


***


「瓦礫の下に埋まった生存者を救出していた者で、

大の大人が三、四人がかりでやっと持ち上げられるような石像を

一人で軽々と持ち運んでいた少年がいたそうで」

「なんでも、呉襄という武進士の十五歳になる息子さんらしいですよ」


「呉襄というのは、四年前の武進士でしたっけ」

「何でも当日は、親子で狩りをしていて、都の方角から爆音が響いたのを聞いて慌てて駆け戻ったそうで」

「幸い、本人たちのお屋敷は王恭廠とは逆の方角で無傷でしたから救出に専念できたとのことです」


「して、その少年の名は?」

「覚えておりません…確か『桂』が入る名であった事は覚えておりますが」


***


そうだ。

あの、北京が地獄に変じた日に、怪力でもって民を救出していた、武進士の子か。


あの後、自らも武挙に受かり、戦場で様々の活躍をしたと聞いている。

僅か十八の時に、満洲軍の包囲を二十数名の部下と共に破って父を救ったというじゃないか。


そんな男が、父を人質に取られて降らない訳がない。


呉三桂を味方につけてしまえば、とりあえず北方は引き続き任せておけば安全だ。

後は、江南に残っているであろう明の皇族を各個撃破すればいい。


―――私は何を考えている?


明の皇后であった筈の自分が、賊軍と共に明を根絶やしにする前提で考えていた。

本来だったら、賊軍に紛れるのではなく、男装のまま江南に逃れ、江南の皇族に頼るのが筋だろうに。


―――もしや、私は無意識のうちに他者の血を得られる環境を求めているのでは?


***


最早自分は明朝の皇后でも何でもない。

人ですらない、人の女の形をした何らかの生き物なのだ。


そう理解した張嫣は、李自成の部下である劉宗敏の軍に入り込み、血を喰らう生活を選んだ。


劉宗敏は、李自成と共に、北京近郊の城へと向かう。

―――呉三桂の家族、三十数名を引き連れて。


「そう言えば呉三桂が山海関に出立する直前に、家に妾を入れたと聞いたが」

「聞いた聞いた!元々蘇州の名妓だったんだろ?

で、周元皇后の親父が身請けして元皇帝に紹介したけど

『確かに美しいが後宮の人員を増やす余裕はない』って言って家に帰しちゃって、そこで呉三桂が見初めたって」

「身請けしてすぐに戦場ってのも、無体な話だな。で、あの中にそいつはいるの?」

「いないな、そいつらしき美女は」

「劉将軍の事だ、自分のモノにしちゃったんだろ」


***


山海関から、呉三桂の軍がやって来た。

「おい、満洲軍は放置するらしいな」

「みんな、白い布を右の肩に巻いているな」

「元皇帝に対する喪章のつもりなんじゃないの?」


白い布の軍から、砲撃が轟いた。


―――どうやら、呉三桂は私たちの仲間にはならないようだ。


―――彼の性格からして満洲軍とは手を組まないだろうから、

数万の軍で双方と戦えば、何れ擦り切れるだろうに。


数の李自成軍と、質の呉三桂軍。

数倍の軍勢で迎え撃っている筈なのに、なかなか呉三桂の軍が減ってくれない。


どれが呉三桂なのかは、直ぐにわかった。

武状元の肩書に違わず、常人の身体能力を大幅に超えて殺戮の機械の様に振舞っている、

黒髪を後ろで括った、大刀を振るう美丈夫だ。


―――あれも、人ではないのやも知れぬな。


と、張嫣が思った次の瞬間。

霧の向こうから、異相の一団が現れ、李自成軍に襲い掛かったのである。


その軍は一様に、頭頂部にだけ残した髪を三つ編み状に纏めていた。


「なっ…!!呉三桂の野郎、満洲軍と組みやがったな!!」

「この野郎!!漢土を満洲人に渡す気か!!」


―――呉三桂、お前は最悪の手段を採ったぞ!!


張嫣はこっそりと、城門の方に退避した。

と、眼前に大量の首が落石の様に落ちてきたので、慌てて回避した。


察するに、今落ちてきたのは呉三桂の家族の首であろう。

彼らを見殺しにしてまで、何故異民族と組むなどという、彼の印象からは最も程遠い道を選んだのだろうか。


それをぼんやりと考える頃には、もう勝敗は決していた。


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