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天京の聖杯  作者: はぐれイヌワシ
6/19

救民の為に


また、陝西省には李自成なる農家産まれの青年がいた。

彼は一際身体能力に優れていた為に身入りのいい駅卒に就職したが、

由検は即位直後に経費節減の為に駅站制度を廃止してしまったため、折角の就職先が無に帰してしまった。


折り悪く旱魃が続いていた為に今更農民に戻っても飢えるほかはなく、

生きるために『明国の民』であることを辞めることにした。

同じように元は単なる飢えた農民であったが、『ある所から奪えばいい』とばかりに富豪の家を襲って以来

『盗賊』と呼ばれるようになった王嘉胤の部下で『闖王』を名乗る高迎祥の軍に入り、

玉石混淆の反乱軍の中で頭角を現した一人になった。


彼らは給料や兵糧の行き届かないことに不満を抱いた兵士や土着の山賊も巻き込んで

黄土を巻き上げる一大旋風となって陝西、山西、河南と黄河流域を呑み込んでいった。


だが、首魁であった王嘉胤が官軍との戦いの最中に部下の裏切りに遭って死ぬと、

高迎祥単体では曲者たちをまとめ上げられずに彼は官軍に捕らえられて処刑された。


高迎祥の軍には李自成の他に張献忠なる元軍人もいた。

彼は口減らしの為に殺されようとしている貧民の男子を養子として貰い受けて部下として育てる方法で

軍隊の強さとしては李自成軍よりも上ではあったが、

そもそも軍人でなくなった理由が『暇つぶしで任地の民を殺していた』というとんでもないもので、

死刑の代わりに最大限の恩情で軍籍を剥奪されて放逐されたというものであった。


彼はやたらと人を殺したがる為、

『明を倒すのは民を救うためであって過度の流血は望まない』という李自成とはそりが合わず、

いつしか李自成は黄河を下って北京を目指し、張献忠は南下して四川を獲るという方向に分裂した。


高迎祥ら『闖王』の名を継いだ李自成軍は一度は官軍によって追い詰められ、

垓下の戦いに敗れた項羽の二十八騎よりも更に少ない十八騎で逃亡した。

しかし明と後金改め『清』を名乗るようになった女真軍との戦争が激化したため、

彼を追っていた洪承疇は対清最前線に転属となり、これが李自成を救うことになった。


『李自成はもう終わりだ』と見た官軍は矛先を長江流域の張献忠に転じ、

李自成をそれ以上追おうとはしなかった。

彼本人も『明はその内誰かが滅ぼす、それが俺である必要はもうない』と考えるようになり、

再起は考えていなかった。


筈だった。


***


或る晩、単なる山賊に成り下がりつつあった李自成一味のねぐらに、

女と見まがうような線の細い青年が転がり込んできた。


青年は河南で地主をしていた李岩と名乗り、次のような身の上話をした。

「私の父は進士でしたが、魏忠賢に逆らって罷免されました」

「魏忠賢に逆らって殺されなかったなら幸運な部類じゃないか」


「もう少しでそうなる所だったのでしょうが、間もなく魏忠賢は失脚したので一族共々命拾いしたのです。

それでも我が家は富裕だったので食うには困りませんでした。

しかしこの度の旱魃で民は飢えていたので、私は県令に『民を救う為に私達に出来る事を講じましょう』と

手紙で相談を持ち掛けたのです。

しかし県令は無視し続け、業を煮やして役所まで行ったら

『ここでやったら、他からも民が流れる。その全てを救える等と思うな』と返されたのです」

「理屈は解るけどよー、民が飢え死にしたら回りまわって

最終的には自分も飢え死にするとか考えられないのかな」


「私は『こうしている間にも一人、また一人と民が寿命を全うできずに飢え死にしているのです!』と

思わず声を荒げた所、県令に殴打されて『お前が手紙を寄越した時点で逮捕されなかった事を幸運に思え!!』と言われ、諦めて背中を見せると

『そんなに今すぐ民を救いたいなら、てめえの全財産で全ての民を救ってみせろ!!』と

背中をしたたかに蹴飛ばされました」

「お前、何一つ間違った事を言っていないのに役人に暴力まで振るわれたのかよ…」


「私は『暴力を振るわれたのは許せないが、県令の言っていることもまた一理あるな』と

まずは自宅の要らない物を全て売って何とか炊き出しを行いました。

しかし瞬く間に炊き出しは底をついてしまったので今度は本当の本当に全ての財産を売り払って施し、

彼らに県令とのやり取りを語り、

『私は全ての財産を売り払ってしまったのでこれ以上の施しは行えません』と告げました」


李自成は驚いた。

自分の様な貧民だったら食う為に、偶然手に入った高そうな物

――例えば、畑を掘っていたら出てきた昔の金細工とか――を売り払うなんて日常茶飯事だ。

それを、裕福な生まれのこの男は、生まれた時から身近にあった、

愛着のありそうなものを全て手放してしまったのだ。


その決断がどれほど重かったか、李自成には想像もつかない。


「そうしたら、彼らは私が止めるのも聞かずに役所へ押しかけて、その県令を血祭りに挙げてしまったんです。

逃げ出した数人の役人が『李岩が窮民を扇動して県令を殺した』とお上に通報したため、

私は炊き出しを受けた窮民たちの家に匿われて過ごす事になりました」

「で、どうして今俺たちの所へ転がり込んだんだ」


「――― 一度、死ぬ覚悟を決めたのですよ。

このまま誰かの家で食わせてもらっても何れ見つかって殺されるでしょうし、

私を匿った方も無事では済まないでしょう。

そこで夜中に抜け出して河に身投げでもしようと思ったら、

通りすがりの盗賊たちに『あんたが李岩?』と聞かれて今更惜しくもない命だったので

『そうですが、何か?』と答えたら、そのまま拉致されて…

彼らの首領によって、口に出すのも悍ましい…行為を…幾夜も…」


そこまで言うと、今まで話した中で『それ』が最も恐ろしい経験だったのか、

李岩は俯き、顔を覆い、小刻みに震えながら押し黙ってしまった。


「ひょっとして、お前…そいつらにケツを掘られたのか」

「違うんです…盗賊の首領は、女性だったんです……」


「じゃあ盗賊の首領を張るような、男と見まがう様な女に無理やり相手させられたのか。災難だったな」

「いや、そういう訳でもなくて…」


その時、見張りが李自成達の元へ飛び込んできた。

「『李岩という男がここへ逃げ込んでないか』と、若い女を頭とした集団がやって来ました!」

「あいつらです!!どうか私の事は『ここへ来ていない』と言って下さい!!」


***


「シラを切るのはやめにしな!ウチのねぐらに官軍達が攻め込んだ時のどさくさに紛れて、

あんたらの潜んでいる山の方へ李岩が逃げたのはあたしの部下から聞いたんだよ!!」


『紅娘子』と名乗るその首領は、存外美しかった。


「流石に『いい男』に対する嗅覚はあるんだな

…李岩があんなに怯えるぐらいだからどんな不細工かと思ったら、案外いい女じゃねえか」

「悪いがあんたにゃ興味ねえよ。李岩こそ、私が婿に取るべき古今無双の大丈夫だ。

あたしが生まれてこの方、李岩よりいい男は見たことないよ」


「…貴女、今、『ウチのねぐらに官軍が攻め込んだ』って言いました?

貴女方の後をつけてくるとしたら、こちらへ転進するのも、時間の問題ではないでしょうか?」


空になった水瓶の中から、李岩が顔を出した。


「そうなのよ~!でも、あたしは貴方がいれば何処へだtt

「触らないでくれませんか。それよりこちらの十八人と貴女方の十人足らずで、官軍に勝てるとお思いですか?

官軍はきっと最低でも百を超えるでしょう」


「いや、多分官軍はこいつじゃなくてお前を追ってきたんだろ?それならきっと…」


***


程なく、深夜の山奥に二百程度の官軍がやって来た。

「山賊ども!反逆者の李岩を引き渡せ!!さもないと貴様らなど皆殺しだ!!」

「させるか!」


官軍の遥か上方から声がしたので見上げると、屋根の上に弓をつがえた李自成が一人立っていた。

「おーい!お前ら!!李岩の恩を受けたんだよな!?だったらやることあるよな!?」


言うなり、官軍の司令官の頭を射貫いた。

それを合図とばかりに、どこから湧いて出たのか官軍の更に後をつけて来ていた民が官軍に襲い掛かった。


官軍はまたしても頭を失い、もみくちゃにされた挙句逃走していった。


「やったな。お前の最後に残った財産、有効活用できたぜ」

「『てめえの全財産で全ての民を救ってみせろ』って県令に言われたんでしょ?

きっと、全財産ってモノだけじゃなくて、貴方自身の事でもあるのよ」


「俺たち自身の、他から奪っていない財産なんて武力ぐらいしかない。

お前の知識と知恵、そして人徳があればきっと全ての民が救えるさ」


この柔和そうな身体は、きっと戦場を駆ってきた自分たちの何倍も痛みを感じやすいのだ。

それにも関わらず、こいつは、どんな痛みを受けても民を救うことをやめようとはしないのだろう。


かくして、李自成は、再び戦いの道を選ぶことにした。


***


紅娘子の手下と官軍の襲撃に参加した民が、そのまま新生李自成軍になった。

武器は李自成の部下、劉宗敏の実家である鍛冶屋から調達し、あちこちの村で役所を襲った。

他の盗賊たちは李岩が説得して新たな仲間にしていった。


『みんな門を開けてくれ、お酒を出してくれ、出来れば御馳走も出してくれ。闖王は寛大だ、税を取らずに民を救う』

これは、李岩が広めた李自成軍に関する流行り歌である。


新生李自成軍は流賊発祥でありながら官軍より規律が保たれており、

また先述の『貧民からは税を取らない』『耕地は均等に分配する』という公約によって

以前とは比べ物にならない支持を獲得した。


***


嘗て万暦帝に最も愛された息子・朱常洵は洛陽にいた。

帝位に就けない代わりに、万暦帝は常洵に皇帝並みの暮らしをさせた。

常洵が正妻を娶った際には通常時の皇族の十倍にあたる三十万両を結婚式の費用に費やし、

『常洵に帝位は継がせられない』と正式に決定し、

洛陽に移した際には二十八万両で邸宅を整備し、無数の田畑と塩田を下賜した。


明国の頂点である皇帝と、彼が最も愛した女性の間に産まれ、その双方から愛されて育った男子は、

この国で最も幸福な人間であった事は間違いないであろう。


―――李自成らの軍が、洛陽に押し寄せるまでは。


常洵は備蓄しておいた金で募兵したが、もう遅かった。

彼らは金だけ受け取って、悉く李自成軍に投降してしまったのである。

中には城中と城外で談笑する兵士までいた。


あっけなく城門が開くと、あっさり常洵は捕らえられた。


「民を慈しむ義務のある皇族が自分達だけ酒色に耽るなぞ言語道断!死を以て天下に償うべし!!」

李岩とかいう男だか女だか分らぬ者が、凄まじい表情で常洵を断罪していた。


しかし、常洵はその罪状に心当たりは全くなかった。

彼は、この局面に至るまで自分が『搾取』している為に民から恨みを買っていると気づかなかったのである。


裸に剥かれた常洵の眼前では、大鍋に鹿肉が煮込まれていた。

「福王と鹿で福禄酒か。こりゃ身体に効きそうだぜ」

そう言って、李自成は常洵の腹に刀を入れた。


かくして、常洵は生きながらに解体され、煮込まれ、喰われた。

明国で最も幸福だった男は、絶望の内に死んでいった。


李自成は常洵の貯えていた財産から一割の食料と財貨を洛陽の民衆に開放した。

搾取する者にはいくらでも残酷になれたが、搾取される者にはあくまで優しかったのである。


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