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天京の聖杯  作者: はぐれイヌワシ
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猜疑の皇帝

由検は東林書院を修復し、魏忠賢に弾圧されていた『東林党』の者達を積極的に起用し始めた。

暴虐の時代は終わり、新帝の元で明朝は回復するかと思われた。


しかし明朝二百五十年の毒は帝国全体を蝕み、既に回復不能の状態に陥っていた。


また、由検は『皇太子』の経験がないため、『腹心』と呼べる部下は存在しなかった。

だから、誰を信じればいいか全くわからなかった。


『東林党』の中でも有力なものは魏忠賢によって駆逐されていたし、宦官たちは勢力を削がれて面白くない。


かくして、由検は、疑心の塊と化したのであった。


***


ここに、袁崇煥という客家人の進士がいた。

元々軍事に興味を示していたらしく、

福建の地方官だったころから一線を退いた元武官達と防衛策について語り合っていたという。


及第から三年後の天啓二年、軍事に明るい事から兵部職方主事に転属となり、

間もなく広寧が女真軍に攻められ、山海関以北が全て陥落した際には単騎で視察に行き、

その直後魏忠賢に向けて

『私に兵と馬、兵糧と資金を下さい。私一人でも北方防衛は可能です』

と言い放った。


これを真に受けた魏忠賢は早速彼を長城最大の防衛壁である山海関に移し、

次いで『山海関外の寧遠に城砦を作らせてください』との彼の申請を採用し、

一年以上の時間をかけて新たな城砦を建てた。


魏忠賢にとっては、自らが富貴と権力を楽しめればそれで満足だったので、

軍事については有能な人間に丸投げしたかったのである。

それが彼にとっては幸いだった。


彼は寧遠城を完成させるとすぐにポルトガルから輸入した最新製の大砲『紅夷砲』を数十台配備し、

現地の人間を屯田兵とした。


だが上司の孫承宗が魏忠賢の恨みを買って更迭され、

代わりに魏忠賢の息がかかった宦官、高第がやって来たが高第は臆病で無能だったので

『寧遠城は放棄しろ。山海関に引っ込め』と命じたが

袁崇煥はそれを拒否し、『私はここの守将です。死ぬときはここで死にましょう』と独り寧遠に残った。


後金軍が寧遠に攻め寄せたのは天啓六年の初めである。

その時寧遠には一万の兵しかいなかったが、農民から志願者を徴発し、

また略奪を防ぐために民を説得して民家を焼いた。

間諜の洗い出しも徹底され、軍規違反者は即刻処刑された。


寧遠城の築城責任者の一人である祖大寿を参軍に、袁崇煥は一万で二十万を迎え撃つことにした。


火砲が効果的に勝利に貢献したのは中国ではこれが初の事例である。


後金の皇帝は、紅夷砲によって傷つき、やがて崩じた。


しかし、このような大功を挙げながら、彼の受け取るべき褒美は皆魏忠賢の一族に分配された。


そして、高第によって失われた領土の回復と寧遠城の修復の為に後金と単独で講和を進めようとした。

これが北京に察知されて詰問されたが、『単なる時間稼ぎです』と返答したため、その時は事なきを得た。


翌年、朝鮮が後金に降り、そこを拠点に後金が今度は錦州へ攻め入った。

袁崇煥は寧遠との二正面作戦を強いられたが、見事これを撃退した。


同時期に天啓帝が崩じて由検が即位したため、

崇煥ははじめて正当に評価されて兵部尚書・右副都御史となった。


ところで、崇煥が寧遠に派遣される以前から後金と対峙していた毛文龍という男がいた。

彼は長く遼東総兵をやっていた李成梁の元で働いて学び、その後は朝鮮に駐屯して後金を攻撃していたが、

同時に密貿易で儲けてその金を北京の廷臣に送っていたので、いくら負けても隠蔽できたのだ。


崇煥は閲兵と称して毛文龍が駐屯する近くの島まで共に出かけて酒宴を開き、

文龍を酔い潰して本音を聞いたところ、

『袁崇煥じゃなくて俺が軍の指揮を取れば後金なんて潰してやるのに』などと言っていたので

とうとう処分する決意を固めた。


崇煥は山上に自分の陣屋を建てて、文龍のみを山登りに招いた。

ついて来ようとした官吏や指揮官の名前を問うと毛姓が多かったので文龍に問い質すと

『みんな私の孫です』と悪びれもせずに言い放った。


山頂に就くと、袁崇煥の文龍に対する態度は一変した。

「毛文龍の冠と官服を取り上げて、捕縛なさい」

「ちょっと待ってください、私が何をしたと!」


崇煥は『毛文龍を処刑する十二の理由』を彼に向けて提示した。


・将が外にある時は必ず文官の監督が必要であるが、その監視逃れをしている

・虚偽の上奏によって降伏者や難民までも殺した事を自分の功績にしている

・登州で馬を養うことを上奏したが、これは軍の私兵化防止法に違反している

・数十万の軍資金を兵士の俸給にせず、糧食をケチって貯えている

・馬市を勝手に開いて個人的に異民族と交易している

・部下の殆どを自分の親族で固め、それぞれに権力を濫用している

・寧遠から移ってからは自ら商船を襲って略奪している

・民間の子女を攫い、部下もまたこれに続いている

・難民を前線に駆り立てて、従わない物を餓死させる

・北京に賄賂を贈り、魏忠賢を父と呼び、その像を島に建てている

・敗北を隠して戦功を装う

・八年も島にいるのに後金が膨らむのを手をこまねいて見ていただけ


文龍は蒼褪めて許しを乞い、崇煥の部下の中にも『彼は数年来の功労者です』と言う者がいたが、

崇煥は

『彼は一庶民でありながら官位を上り詰め、家は俸給で満たされ、功は十分に報いられている筈です。

であるのに、どうしてこの様に道理に悖ることが許されるのですか!』

と一喝した。


そして都の方角に拝礼すると、文龍の首を落とした。


文龍の首を掲げながら山を降り、それを見て恐慌状態に陥った兵士たちに

『誅されるのみは文龍のみで、後の者は無罪とします!』

と叫んだ。


翌日、『昨日貴方を斬ったのは国の法による物で、今日貴方を祭るのは同僚としての私情です』と

毛文龍への祭壇に落涙する袁崇煥の姿があった。


***


確かに袁崇煥は後金から領土を回復し、毛文龍による不正は全て正された。

しかし、毛文龍のお陰で楽に暮らしていた兵士やその家族がいたのもまた真実なのである。


文龍の配下の一部が後金に降り、後金の皇帝・ホンタイジのある謀に加担したのである。


ホンタイジは『山海関を無理に超える必要はない』と判断し、長城を遠回りして北京を攻めることにした。

同時に明国内に放った間諜達が、魏忠賢の残党である宦官たちに賄賂を贈り、

『袁崇煥が明に見切りをつけ、山海関一帯を占拠して清に降ろうとしている』とのデマを流させた。


さて、北京近郊に突如として現れたホンタイジの軍に、人々は『袁将軍はどうした!?』と叫んだ。

その声に応えるかのごとくに袁崇煥は急ぎ北京まで駆け付けたが、待っていたのはホンタイジではなく、

宦官や廷臣たちの

『袁崇煥こそがホンタイジを迎え入れた張本人』

『以前後金と単独講和を結んだのは密約があったのではないか』という誹謗中傷と、

それを真に受けた満年齢二十歳未満の皇帝であった。


張嫣が口を挟もうとしたが、謀反人を赦すには由検はあまりにも若すぎた。


かくして、袁崇煥は漢族が最も恐れる死に方―――生きたまま刻まれる、『凌遅刑』―――によって死んだ。

彼の一族は後金に奔る他なく、八旗の一部に加えられた。


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