終章
「ん…」
部屋のソファに横たえ、タオルを被せてあったタオが意識を取り戻したようだ。
「大丈夫かね?」
「あ、あー…ちょっと貧血気味かもしれませんが、大丈夫です。…ってなんで俺は上半身裸なんですか!?」
「呼吸が苦しそうだったので、とりあえず上は全部脱がした。寒かったかね?」
タオは急に寒さを感じたので、慌てて傍に在った自分の服を着た。
「すみませんでした!!ホテルの方に迷惑かけてしまって…きっとウチの店長にも怒られますね」
「その心配はない。君が失神している間に店長には話をつけておいた。
きっと君は連日のストレスで疲労をいつもの何倍も溜め込んでいたのだろう。暫くは無理しないで早めに寝なさい」
「そういえば…署名の件は」
「今から従業員全員に書いてもらって、後日店に届ける。
また、店のフロントにも用紙を置いて、お客様にも書いてもらう」
「ありがとうございます!」
「で、次の試合はいつかね?」
「今日は広島で4時からアウェー戦なんです。だから先輩たちは今横浜にいないんですよ
―――TVでもやっていると思いますけど」
「そうか。実をいうと私はサッカーの試合自体をまともに見たことがないので
これを機に一度フォーゲルスの試合を見ようと思っているんだ」
「そうですか。実をいうとですね、来週にはリーグ戦は終わってしまうんですが、
12月から『天皇杯』ってのがあるんですよ」
「天皇杯?」
「プロ・アマ問わず日本中のサッカーチームが1月1日の決勝戦を目指して戦うカップ戦です。
プロだけの『Jリーグカップ』というのもありますが、
こっちの方が昔からやっている、日本のサッカー界で権威ある賞なんですよ」
「それで優勝すれば、あるいは…か」
「そうですよ!リーグ優勝はもう無理ですけど、
天皇杯獲ったらもしかしたらいいスポンサーがつくかも知れないんです!!」
「98年では終わらない、その先へ続く為の天皇杯か」
「ええ、99年の元日、そしてその先へ、ずっとずっと!『最後の天皇杯』になんかしませんよ!!」
「――-私たちの署名が、合併撤回への一助となればいいな」
***
タオが店に戻った後、張は応接間のTVをつけた。
すると、丁度サッカーの試合を中継していた。
しかも、試合をしている一方のチームこそが件の横浜フォーゲルスだった。
五年前のJリーグ誕生直後、サッカー界には遅すぎたバブル景気がやって来た。
そのバブルが弾けた今となってはサッカー地上波生中継を行う民放は多くない。
だからこそ、今度の合併騒ぎは起こったのだ。
今回の中継も、『渦中のクラブの試合』だから中継したのであろう。
何事もなかったら中継していないに違いない。
張は試合の光景に見入りながら、自分が天京を出た後の回想をしていた。
あの日、自分は天地会の全てを投げ出して身一つで脱出した。
其処から海路で香港に入り、太平天国の動静を伺っていた。
自分達が作っていた『天兄の血』はあそこで全て失われたのかどうか、定かではない。
『天京の聖杯』が、誰かに持ち出されて、利用された可能性は否めない。
ただ、天兄の弟を称した男は結局飲まずに死んだことだけは確かである。
彼もまた、誰かを実験台にして、神にはなれぬ事を悟ってしまったのだろう。
『神通力』を失った太平天国は見る間に衰弱していった。
最早万策尽きたかと思ったその時、丁度日本が西洋諸国に港を開いた。
開かれた五つの港の一つである横浜に移って、もう百五十年近い。
僅かな漁民しかいなかった寒村が、よくもまあここまで育ったものである。
その後、旅館事業を始めると見る間に商売がはかどり、
日本と清との間で戦争が始まると、恐れをなして帰国する者とそうでない者に分かれたが、
そうでない者の内自分の言うことを聞く者を集め、程なくして天地会を再結成できた。
ある日、明確に自分を頼った上で一羽の窮鳥が懐に飛び込んできた。
その窮鳥は、日本政府の高官と組んで清国を打倒したが、王朝の伝統までも消し去った。
最早、自分は何のために生きているのかわからなくなった。
手元にあるのは、自分の体内を流れる、不完全な『死を奪う毒薬』と、異国の地で営む旅館で或る。
革命後の混乱下に喘ぐ同胞らを甘言で誘い、実験体にする。
『薬』の量や質を変え、どのような生を生きて終えるかを観察する。
しかし、自分と完全に同一のもの、そして、完全な『薬』を持つ者には三百年出会っていない。
それがなければ、この実験と称した悪趣味な、倫理観のない行動は何の進展もない。
―――『完全』を手にすれば、あるいは。
今やそれだけが、自分の魂を殺さぬようにするよすがであった。
―――例えば、誰かが人であった頃の私の名を呼んでくれるなら。
―――その時こそ、私は安らかに、燃え盛る炎の中で眠れるだろうに。
そんな人間は、もうこの世に存在しない。
ふとTV画面に目を戻すと、そこにはフォーゲルスの選手が大写しになっていた。
右下のテロップには、『三村 敦宏』と表示されていた。
―――なるほど、こいつが件の『アツ先輩』か。
―――こいつの様な人間が、私の『薬』を口にしたら、どんな生き物になってくれるだろうな。
言っては悪いが、今回の合併を回避できる可能性は果てしなく低い。
既に企業間や協会で合意がついているであろうものが、そうそう簡単に覆るものか。
そして、そういう現実を目の当たりにした人間が。
自分の『薬』を口にした後の行動が、今の張嫣にとっては重大な関心事項であった。
「面白そうな男だ」
張はそう呟くと、TVを消して、従業員を招集するためにホールへ向かった。
***
Servatis a periculum! 我らを危難から救い給え!
Servatis a maleficum! 我らを邪悪から救い給え!




