天京の聖杯
さて、清軍は天京の南北に軍事拠点を建設した。
これを何とかしないと清朝打倒は夢のまた夢なのだが、洪秀全に提出された案は三つあった。
・天京南北の基地を潰して江南の支配を安定させる。
・全軍を北に向けて一気に北京を潰す。
・軍を天京確保と北京侵攻に分け、更に西方へ軍を向ける。
古来、江北に対抗した江南の政権が取れる三つの道そのままであった。
文化の違う江北に関わろうとせず、独自に豊かになろうとするのなら江南を固める。
中華思想に則り、漢人のいる地域全てを手中にしようとするのなら足を止めず、一息に駆け上がる。
二つの道の中庸が、四川をも手中に収める。
洪秀全は第三の案を採択し、精鋭たちを北京に向かわせて残りは天京確保に残置した。
しかし、彼らは気づかなかった。
第三の案こそ、もっとも難しい案であったことを。
***
「へえ、領内にある全ての耕地の生産性を精査して等級付けし、
全ての民の生産が均等になるように分配するってか。いい考えじゃねぇか」
「全ての田畑で気候や水の条件が同じであったとしても、
同じように米や麦が収穫できるわけではないのは、貴方もご存知でしょう」
「そうだな。…待てよ。耕した人間が食う分以外は、みんな持っていっちまうのか!?」
「ええ。その代わり、冠婚葬祭や身寄りのなく、
また自ら生産できる力のないものは、その生産物を支給するのです」
「お前の考える制度は、随分と役人が必要になりそうだな。
二十五戸毎に礼拝堂作って、学校代わりにするって一つの村にどれだけ礼拝堂建てたら気が済むんだよ!」
「ええ。全ての民が文字を知れば、それだけ法令や教義も頭に入るでしょう」
「俺は文字なんか知らんが、俺が考えた作戦や政策はみんな覚えてるけどな」
張嫣は楊秀清のその言葉に、過去に対峙した怪物を思い出しつつも。
「全ての民が、貴方のように優れた頭脳をお持ちというわけでもないのですよ。
あ、あと纏足は全面的に禁止です。清の後宮には、纏足の女性はいません。
満州人には、纏足の風習がないからです」
「そういや、天王も『後宮で、初めて纏足の女性の素足を見て吐きそうになった』とか言っていたな。
俺も纏足は気持ち悪いわ…で、どうして南京育ちの漢族のお前は纏足じゃないの?」
「客家人にもその風習はなかったのですね。
私は、幼い時に親を亡くして、農作業をこなす必要があったので纏足を受ける機会がなかったまでです」
***
しかし。
傅善祥の考案した政策は、何れも有名無実に終わるか、布告すらされなかった。
太平天国の領地では、以前と同じように地主が支配していた。
税の徴収には、多数の役人が必要となる為、まず識字率を上げる様な数十年かかる政策だったのである。
***
天津に向かった北伐軍は、援軍を待って北京に向かうつもりだったが、火災で援軍が壊滅した。
加えて天津では洪水が起こり、南方出身者が大半を占めた北伐軍は凍え死んだ。
古来、何故中国南方に興った政権が北方政権を倒せなかったのか。
それは一つ、『倒す必要性を感じなかった』からである。
まず、黄河と長江では水の質も量も流れも違う。
黄河の水で育つ麦より、長江の水で育つ米の方が収量も多く、生産性も高い。
言ってしまえば、『何故豊かな土地から貧しい土地へ攻め込む必要性があるのか』という話である。
だから、兵士たちの士気も上がらないのである。
北伐軍は天京へ戻ろうとしたが失敗し、最終的にはモンゴル族のセンゲリンチンに叩き潰された。
一方、征西は順調だったようである。
北伐軍からひと月遅れて天京を発った征西軍は、その翌年には安徽省を制圧した。
更に湖北省の武昌を取ろうとしたが、曽国藩率いる湘軍に大敗した。
最終的に湘軍も征西軍に敗れ、江北、江南の大営も崩されるのだが、その頃には天京で異変が起きていた。
***
太平天国の指導者は名目上は聖書の神である『天父』の次男である『天王』、洪秀全であったが、
彼は天京入城後は滅多に民衆の前に姿を現さず、
政権を指揮していたのは『天父下凡』を習得していた楊秀清と、その懐刀の傅善祥であった。
楊秀清に『天父』が憑くという設定上、儒教が染みついた漢族を率いる洪秀全は『天父』の子であるが為に
『神憑り』となった楊秀清に逆らう事が出来なくなっていたのである。
儒教の影響を排す為、洪秀全は太平天国内で四書五経を禁書としようとしたが、
彼の真意を察した楊秀清は即座に『天父下凡』で「時期尚早なり、人心が離れてもいいのか!」と反論し、
更に「父の言を聞かぬ子には、痛みによって理解させることが必要だ」と、
洪秀全を臣下の面前で自分の前に平伏させた上で打擲させた。
***
「天王が、英国の使節から聞いたらしいんだけどさぁ」
楊秀清がその話を傅善祥に振ったのは、彼が致命的な『天父下凡』を演じるひと月前の話であった。
「千八百年前、天王の兄貴が処刑された時に、その血を受け止めた杯が今も地球の何処かに存在していて、
天父を信じる西洋の権力者たちはそれを求めて争っているんだってさ。
千八百年違いの兄弟も大概だが、そんな昔の杯で大騒ぎする方も大概だと思わないか?」
俺だったら『たった一つの杯よりも今目の前にある富貴を大事にすべきだった』とそいつらに言うんだがなぁ、
と話を終わらせようとした楊秀清に、傅善祥が食いついた。
「その使節の名を、覚えていらっしゃいますか?」
***
「お待たせ致しました」
天京の街中、傅善祥に用意された屋敷の一室に、その英国人は身を屈めて入り込んだ。
「よくいらっしゃいました」
傅善祥は、使節に丁寧に答えた。
使節は、窮屈そうに身を屈めた。
栗色の長髪に、鳶色の目。
傅善祥がこれまで生きてきて見たことがないぐらいに彫りの深い顔である。
「私が、天王に話した聖杯の話をお聞きしたいとの事でしたが」
「ええ。天王の兄が槍で刺された際に流れた血を受け止めたものでしょう?」
「左様です。それでは、貴女にも詳しくお話いたしましょう」
***
天兄がこの世に処女の腹を借りて産まれて来たのが千八百年前の事。
その頃、彼の帰属する民族とその王国は
当時数多の民族を支配していた帝国の管理下に置かれ、屈従を強いられておりました。
彼がこの世に誕生した際、当時の国王は『ある村に、新しい王が産まれて来た』という予言に恐れおののき、
『その村近辺にいる二歳以下の男児を全て殺害せよ』という命令を下しましたが、
当の天兄本人は母と仮の父と共に辛くも国外に逃れていました。
やがて危機が去り、故郷へ戻った天兄は、
様々な奇跡を起こしながら大工であった仮の父の元で修業をしていました。
彼の人生が一変したのは三十になった頃。
当時、荒野を流れる川のほとりで皮を纏い、イナゴと花の蜜で食いつなぎながら
『神の国は近づいた』『罪の穢れを洗い流すために洗礼が必要だ』と説く預言者がいました。
預言者の母と天兄の母は親戚だったので、天兄もその洗礼を受けました。
その後、彼は家に帰らず、天父が遣わした聖霊によって荒野に放り出され、
四十日の間悪魔の誘惑に耐えました。
それから天兄は独自の宗教活動を始め、十二人の弟子を引き連れて国中を回るようになりました。
それは当時の、帝国への屈従を是とする王国の者にとっては脅威でした。
当局は、弟子の一人を金貨三十枚で内通させ、天兄の元へ案内させました。
兵士たちを見て弟子たちが皆逃げ出す中、天兄は真っ直ぐに進んで、自ら囚われました。
当局に逮捕された天兄は直ぐに裁判所へ連行されました。
王国の上層部は最初から彼を死刑にするつもりでしたが、
帝国から派遣された総督の判断がないと死刑にできなかったので総督の元へ送りました。
天兄と相対した総督はしかし、天兄が罪人とは思えませんでした。
総督は王国の民の祭りにかこつけて恩赦する事を思いつき、
『天兄と盗賊、釈放するならどっち?』と王国の民に問いました。
しかし、王国上層部に扇動された民は、盗賊の釈放を選んだのです。
総督は尚も食い下がり『天兄は辱めた上で釈放する』として
わざと豪華な着物を着せた上で茨の冠を被せ、『王国の王、万歳!』と群衆に言わせました。
民はそれでも納得せず、『十字架にかけちまえ!』との大合唱。
危うく暴動になりかけたので総督は手を洗い、『この者の流す血に、私は責任を持たない』として
遂に天兄を十字架にかけることにしたのです。
十字架刑は帝国でも反逆者のみが受け、帝国の市民権があった者には免除されていた程の、
凄まじい苦痛を伴う死刑でございました。
この国では『磔刑』というと、最も重い、生きたまま切り刻むというものでしょう。
また、十字架を使っても実際は槍で直ぐに刺し殺す国もあります。
しかし、時として人間にとっては『放置』こそが最も過酷な刑にもなるのです。
まず、受刑者は鞭打たれた上で、処刑場まで自分を殺す十字架を運ばされました。
処刑場に着くと、受刑者は服を脱がされ、地面に置かれた十字架に寝かされ、
両の手首に釘を打たれて固定されます。続いて足も曲げた状態で釘を打たれます。
これによって、杭が引き起こされてからは手足で体重を上手く支えることが出来ず、
体重が肺や心臓のある胸に集中します。言ってしまえば緩慢な絞首刑です。
天兄は、単独ではなくもう二人の犯罪者と共に十字架にかけられました。
天兄が天父に王国の民を赦すように乞うていると、
片方は『お前が救世主なら、まず自分らをここから救ってみろや』と言い、
片方は『俺たちが死ぬのは因果応報だが、この人には罪がない』と言いました。
天兄は後者に『貴方は今日、私と共に神の国にいます』と返しました。
更に若い弟子に老いた母を託し、神に向けて『どうして私を見捨てたのか』と叫び、
渇きを口にして、兵士が持ってきた葡萄酒を含むと『終わった』とつぶやき、
『我が霊を父にゆだねる』と言って息絶えたのです。
その時俄かに空が暗くなり、地は震え、雷が地上に降り注ぎました。
その恐ろしい様子から周囲の者達は『まこと、この者は、神の子であった』と感嘆しました。
そこで『んなわけあるか、こいつも人の子だ』と帝国の、とある盲目の兵士が
天兄が息絶えたことを確かめるために脇腹に勢いよく槍を突き刺しました。
兵士は血しぶきが目にかかったのを感じ取り、槍を置いて目を拭いました。
瞼を開くと、そこには彼が今まで一度も目にしたことがなかった、世界の有様が広がっていました。
初めて見る世界にただただ感嘆していた兵士の様子を見た王国のある議員が
『天兄の血液には神の祝福がある』と断定し、
天兄が弟子たちとの最後の晩餐に使用した杯で天兄の血を受けました。
議員は実は密かに天兄に弟子入りしていたのですが、政治的立場の為にそれを表明できずにいました。
そこで、議員は自らの地位を利用して『この者の遺体は私が引き取って埋葬する』と宣言し、
天兄の遺体を亜麻布に包んで洞窟に葬りました。
その後、天兄は三日後に蘇るのですが、それはまた別の話として、
この議員が晩年、全ての地位と財産を棄てて伝道の旅に向かい、
天兄の血を受けた杯を携えて私たちの祖国の島に渡ったという伝承があるんです。
盲目を瞬く間に癒してしまう様な血を受けた杯なら、何らかの恩恵が得られるに違いない。
そういう訳で、昔からその杯はあらゆる権力者に追い求められたんです。
「ちょっと待ってください」
傅善祥が、使節の話を遮った。
「だとすれば、誠に癒しの力を有しているのは単なる杯ではなく、天兄の血ではないのですか?」
「まあ、そうなんですけど。天父を信じる大抵の権力者たちは、
癒しの力より、その血を受けた杯の所有者であるという権威が欲しかったのでしょう」
「そんな杯よりも、癒しの力を持つ血の方が、有用であるはずです
―――我らがこの手で、天兄の血と似た物質を生成出来たら―――」
使節は目を丸くした。
「それが出来たら、天王はまさしく天兄の弟と呼ばれるに相応しい存在になるでしょうね」
「ええ。西洋諸国は太平天国にひれ伏すことになるでしょう」
「しかし、天王に実際に血を流させるわけにもいかないでしょう」
「ですから、『これは天王の血である』と称して血液と同様の性質を持つ紅い液体を以て
治癒の奇跡を起こせば、民はみな信じるでしょう」
「そんな液体がこの世の中にあればの話ですが、ね」
そう言って使節は去った。
***
「東王閣下」
明くる日、傅善祥は楊秀清を呼ぶと次のように指示した。
「以前、貴方が天王を打擲させたとお聞きしましたが」
「ありゃ天父の指示だ。俺の意志じゃねぇ」
「貴方の意志ではなかったとしてもです。今後、天王に血を流させるような事態はなるべくお避け下さい」
「俺だって驚いたよ。気づいたら目の前で天王が流血していたんだから」
「今後、天王の血には付加価値をつけないといけませんから」
「付加価値って?血を市場で売ったらめっちゃ高値で売れる様な?」
「件の使節から、お聞きいたしました。天兄の血を目に浴びた盲目の兵士が、目が見えるようになったのだと」
「そりゃ大方天兄の弟子による与太話だろ?例えば天王が血を流したら、其処に米でも湧くのか?」
「そうではございません。天王がまことに天父の子と認められるためには、
天兄に匹敵する奇跡を起こさなくてはなりません。
『天王の血』と称する紅い液体で、盲目の民を癒すことが出来たら、可能でしょう」
「それなら出来るかもな。紅い目薬とか使えば。―――なあ、それさぁ、『俺の血』って事にはできないかな?」
「できないでしょうね。貴方はあくまで天父の依り代なのですから、天王の聖性を侵す事までは出来ないでしょう」
「だろうな」
***
『研究費』と称して楊秀清から大金を受け取った傅善祥―――張嫣はその金で、
自らの天地会のメンバーを天京に呼び寄せ、研究を再開した。
既に彼女以外の構成員は入れ替わってしまっていたが、
自らの呪われた血が、清国打倒の一打になるのなら、それでも構わなかった。
構成員だけでは実験体が足りないので、天京にいる身寄りのない浮浪者や盲人に、
自らの血液から作成した『薬』を服用させた。
のだが。
その『薬』を服用した者は、悉く異形に変じて人の形を取り戻せず、始末せざるを得なかった。
人の形を保っていた者達も、人の血が必要になる身体になるのでは表に出す事は出来なかった。
伝え聞いた話によると、人の血を喰らう異形を排除するのは、西洋でも同じらしい。
―――- 私が作りたいのは、『化け物』ではなく、奇跡を創造する紅い液体だ。
――― 『天京の聖杯』をこの世に現出させるために、後は何が足りないと言うのだ!
***
ある日、また楊秀清の身に『天父が下った』。
急いで駆けつけた洪秀全に、『天父』はこう言った。
「秀全よ、我が依り代である楊秀清はそなたと共にこの太平天国にその身を捧げる身であると言うに、
何故楊秀清には『万歳』がないのか」
つまり、楊秀清も洪秀全と同様に『万歳』の対象となりたかったのである。
ある意味、『九千歳』で満足した魏忠賢を越えている。
「わかりました。臣民には楊に対しても『万歳』と声掛けするように指導します」
洪秀全は、震える声でその発言を肯定するしかなかった。
傅善祥も、その席にいた。
***
傅善祥―――張嫣は、研究室に帰り着くとげえげえ吐いた。
「あれは……許せぬ…!」
張嫣は部下に紙と硯を用意させ、密かに洪秀全向けの手紙を書いた。
「東王閣下は最早簒奪の意思を隠そうともしていない事は、お分かりかと思います。
つきましては、閣下が私に命じたある物質の作成を、お伝えしなければなりません」
張嫣は、『天京の聖杯』と名付けたその企画の全てを洪秀全へ知らせることにしたのである。
密かに張嫣に通じていた女官を通じて洪秀全に張嫣の密書が届けられた同日に、
洪秀全はある人物と会見していた。
「―――では、東王が天父の意思を逸脱し、簒奪を企てているのはまことなのだな?」
「ええ。天父は最早あの者を見捨てました。今の東王は単なる野心の塊です!」
洪秀全は、以前楊秀清に棒叩きを食っていた部下から話を聞いていたのだ。
そこに、傅善祥からの手紙も届いたのである。
***
「盲人を癒した天兄の血を、東王が再現しようとして、自らの手で奇跡を起こそうとしている―――?」
それは、洪秀全にとって、楊秀清にも越えさせてはいけない一線だった。
楊秀清は、神の依り代には飽き足らず、自ら神になろうとしているのだ。
「太平天国に、肉体を持つ神は、朕一人でよい」
洪秀全は天京の防備を司る韋昌輝と秦日綱、征西軍の石達開に『東王・楊秀清を討て』と密詔を出した。
***
八月の終わりのある晩、楊秀清は傅善祥に声をかけた。
「おい、一体何処へ行くんだ?」
「研究所です。『天京の聖杯』が完成するまで、あと一歩なのです」
「そりゃ楽しみだな。完成品、最初に俺に見せてくれよ!」
***
「明朝、東王府を陛下の軍が急襲する。それまでに撤収の準備を!」
傅善祥―――張嫣の指示で、部下が実験体に止めをさしていく。
身動き取れない状態から首を落とされる者、まだ人のままなので単に絞殺されるもの。
実験体を全て始末した時点で、部下が張嫣に伺いを立てる。
「薬瓶はどうなさいますか?」
張嫣は、何事か考え付いたように笑った。
「残しておけ。―――あれを残しておいて、何が起こるか、私も知りたい」
***
翌朝、日の出と共に韋昌輝と秦日綱の軍が東王府を襲った。
突然の事に東王府の者達は抵抗らしい抵抗も出来ずに、二万もの人命が失われた。
「傅善祥!聖杯は何処だ!!」
楊秀清が、傅善祥に与えた研究所の中に逃げ込む。
其処には、人間や、人間の形に見えるモノの死体、そして、大量の紅い液体が入った瓶が遺されていた。
楊秀清は死体には目もくれず、紅い液体の入った瓶を手に取った。
「確か、あいつは『あと一歩』とか言っていたな…奇跡を起こすには不完全かもしれないが、あるいは…」
瓶のふたを開け、飲み口を口に持っていこうとしたその瞬間―――
――― 一発の銃弾が、楊秀清の脳天を吹き飛ばした。
***
前述したように東王府では二万人が虐殺されたが、
その中に傅善祥のものらしき女性の遺体は発見されなかった。
傅善祥の名は太平天国の歴史から消えたのである。
***
楊秀清の死は太平天国の統治体制に大きな障害を齎した。
彼を直接攻撃した韋昌輝と秦日綱が石達開と対立し、
軍事的才能のあった石達開を宥める為に洪秀全は二人を殺害したが、石達開は二度と天京には戻らなかった。
洪秀全は独自に新たな指導部を再編したが、何れも楊秀清程の能力はなく、
太平天国は次第に軍を立て直した清軍に追い詰められていった。
味方だと思っていた西洋諸国は太平天国の本質がキリスト教とは全く違うと悟ると敵に回り、
同時進行していたアロー戦争が終結し、条約が結ばれると清軍と共闘を開始した。
アロー戦争の最中に清国の飛天研究機関が・血滴子が置かれていた円明園は
フランス軍の略奪に晒された後にイギリス軍によって灰燼と化した。
円明園を焼き払うイギリス軍の中に、張嫣に聖杯の話をした使節と似た男がいたという話があるが、確証はない。
円明園からの脱出に成功した血滴子の残党らは自ら清国政府を見限り、
西洋諸国の協力を得て尚も飛天を狩り続けることになる。
***
そして、金田での決起から十三年。
「甜露(旧約聖書に出てくる『マナ』の事らしい)」と称して雑草を食し続け、洪秀全が栄養失調で死亡すると、
清軍は遂に天京を陥とし、太平天国は滅びた。
一説に、この時に清軍が行った大虐殺が中国人の『南京大虐殺』のイメージだともいわれる。




