円明園の刃
秘密組織の例にもれず、天地会は裏切り者には容赦がなかった。
その裏切り者を使って、自分の血と組み合わせて張嫣は人体実験を始めたのである。
傷口から血を注げば、身体能力は高いが日光を浴びることが出来ず、
やがて肉体がひび割れて自然崩壊してしまう個体―――つまり、李定国と同様の個体になる。
それに、そういった個体は自我を残していた為、とても奴隷にすることはできなかった。
傷口ではなく、飲ませたのなら日光でも平気なようであった。
ただし、多く飲ませすぎると人の形に戻れなくなる。
丁度良い量が見つかるまで、張嫣は研究をつづける気だった。
ところが。
たった一滴舐めただけで、人に戻れなくなるものも多かった。
そういう者は、焼き殺すしかなかった。
どうやら、この血は体質による適性があるらしい。
そして、その適性は飲ませてみるまで解らない。
***
さて。
呉三桂らを鎮圧した康熙帝は、ロシアと条約を結び、ジュンガルを退け、
満人、漢人のみならず周辺諸国の民族の統治者となった。
贅沢を嫌い、学問を好んだ。
そんな『中国史上最高の名君』こと康熙帝にも、どうにもならないものがあった。
それが、後継者の育成である。
彼が最も愛した女性は、男子を産んだ際に亡くなっていた。
その男子は胤礽と名付けられ、産まれた翌年には立太子された。
胤礽の母の大叔父はオボイを捕らえたソンゴトゥであり、それもまた追い風であった。
しかし康熙帝は胤礽を自分と同じように贅沢を戒める育て方をした上で、息子たちの誰よりも溺愛していた。
それが仇となったのだ。
ある意味『逆・箱入り息子』だった胤礽は、戦地には同行する事はなかった。
代わりに弟たちが戦功を挙げ、兵や領地を与えられた。
元々満洲人に長子相続の概念はなかった。
『最も優れた者が継ぐべきだ』そう信じた弟たちは、康熙帝と胤礽の眼を欺いて陰謀に明け暮れた。
父からは過度に期待され、弟たちからは妬まれ。
歪まない訳がなかったのである。
ソンゴトゥが失脚すると、胤礽はこれまでの反動の様に遊興に明け暮れ、
それを知った康熙帝は断腸の思いで胤礽を廃し、そして自らは暫く寝付けなくなった。
しかし、新たな皇太子は定められなかった。
胤礽の異腹兄であった胤禔が八男を推薦したが、
その八男が胤礽を攻撃して歪ませた最たる人物であった事と、
胤禔が胤礽に呪詛を仕掛けた事が三男の密告で発覚し、八男は爵位召し上げとなり、胤禔は軟禁された。
胤礽の廃太子から一年、康熙帝が胤礽を訪れると
憑き物が落ちたようにすっきりしていたので胤礽を太子に戻した。
しかし、胤礽は康熙帝が愛していた以前の胤礽に二度と戻る事はなかったのである。
廃嫡の憂き目にあったのが『余りに自らの基盤が脆弱だった故』と思い込んだ胤礽は
康熙帝とは別の徒党を組み、皇帝の権力を脅かした。
結果、胤礽は再び廃嫡された。
そして、康熙帝は自らの崩御まで皇太子を立てることはもうなかった。
***
康熙六十年、結果的に康熙年間で最後となった科挙の結果発表が行われた。
その中に、当時二十四歳の高郵の呉有垂なる人物がいた。
彼はかの呉三桂の遠縁にあたる人物であるが、
呉三桂の一族が高郵から遼東に移る遥か前に枝分かれした一族であったため、
呉三桂の栄華の恩恵も受けなかったが、逆賊の粛清の巻き添えになる事もなかった。
当時、彼は進士達の最終的な序列を決定する殿試の結果発表に向けて、
高郵から身重の妻含めて一族郎党を全てかの隋の煬帝の大運河に乗せて北京に呼び寄せていた。
彼の家は古くから大運河沿いの街である高郵を拠点に馬や船の行商を行う家であった。
その家から進士が出るのだ、それは晴れやかな祝福の道中であっただろう。
結果発表の前夜、彼の一族の宿泊する宿は何者かに襲撃され、彼以外の全員が惨殺された。
一人生き残った彼もまた、右腕をもがれ、一時は意識不明の重体に陥った。
夜明け前に一報を聞きつけた内閣大学士達は大混乱に陥った。
これから官吏になろうという者が、突然の災厄によって命が危うくなるとは。
当人不在のまま、夜明けまでに試金榜をどうするか決めなくてはならない。
一人の読巻大臣が、康熙帝の指示を仰ぐことを提案した。
康熙帝の返答は、
『家族と右腕を失ったのでは死ななかったにしてもまず政務を執り行える精神状態からは程遠いであろう。
試金榜からは外してやるのが本人の為でもある。もし快復したならば、それなりの救済措置を与えるべきだ』
というものであった。
発表された試金榜の中に、呉有垂の名はなかった。
市井の者は
『きっと助からなかったのであろう、あと一歩で一族の栄華に届いたというのに』
『呉三桂の遠戚というのが当局に知れて、消されたのではないか?』
『そういえば七十を過ぎた崇禎帝の息子を刻んでいたな、陛下』
などと噂した。
***
呉有垂の容態が安定した頃、一人の使者が病床を訪れた。
「…試金榜に、私の名はないのであろう?今更内裏からの使者とは」
「…あの夜を思い出させるような問いかけで御座いますが
―――あの夜、貴方方を襲ったのは、人ではないのでしょう?」
呉有垂の眼が、動揺するような様子を見せた。
「何故、それを」
「我らは、この大清の大地、ひいてはこの世全ての地上にあまねく存在する怪物を
根絶やしにする為に組織された陛下直属の『血滴子』で御座います。
本日は、陛下の密命で貴方を『血滴子』にお招きする為に参りました」
「…その怪物は、血を喰らうか?」
「はい」
「…その怪物は、人の形をしているか?」
「はい」
「…その怪物は、いくら傷つけても死なぬか?」
「いいえ。殺す方法はいくつか御座います」
「―――わかった。その怪物は、人の身でも殺す方法が存在するのだな?」
「はい」
「ならば、このような手負いの身でも喜んで全身全霊を『血滴子』に捧げよう。
元々、あの夜からずっと、どうやって片腕で我が一族の後を追おうか、そればかり考えていた身だ」
「…その言葉、しかと聞き届けましたぞ。
しからば、貴方様に相応しい義手をお造り致しますので、それに慣れたらご出仕くださいませ」
呉有垂の新たな腕が完成する直前の康熙六十一年十一月八日、
六十九歳の康熙帝は発熱し、その六日後に危篤状態に陥った。
康熙帝は枕元に重臣のロンコドを呼び、何事か囁くと、そのまま崩じた。
正直、ロンコドにも末期の康熙帝が誰を後継者に指名したのかを聞き取れなかった。
ので、一番自分に利益を齎してくれそうな皇子を『康熙帝の遺詔』で指名した。
四男にあたる、当時四十五歳の胤禛である。
ロンコドは胤禛の祖母の甥であった為、胤禛からは『叔父』と呼ばれて慕われていた。
しかも、他の皇子と違って政争に興味を持たず、専ら趣味と学問に明け暮れていた。
扱いやすいと判断したのだろう。
***
呉有垂が初めて出仕したのは、胤禛の世になってからである。
新しい年号は『雍正』と公布された。
胤禛は在位時の年号から一般的に『雍正帝』と呼ばれる。
しかし、雍正帝はロンコドをはじめとする臣下や他の皇族が思い描いたような皇帝にはならなかった。
雍正帝は母の身分が低く、また即位前は全く政治に興味を示していなかった。
なので、後継者に指名された際は本人が最も意外に感じていた。
――― これまでただ遊び呆けていただけの自分を、何故?
――― それは、本当に、父上の遺志なのだろうか?
――― だが、この務めから逃れることは許されまい。
――― それに、あの父上に認められたことが、私にとって、何より誇りである。
かくして、雍正帝は中国史上稀にみる専制的名君への道を歩むことになった。
雍正帝の継承を不服とする他の皇子を屈辱的な名前に改名させた上で幽閉した。
八旗のうち自分に異を唱える者を処刑した。
そして最大の標的となったのは、他でもないロンコドであった。
自分にとって最も有利な皇帝を擁立したはずの男は、その皇帝によって誅殺された。
***
さて、独裁権を確立するために宮中で多くの血を流した雍正帝であったが、
他人にも厳しければ自分にも厳しかった。
夜明け前に起き、深夜に眠る。
その間はひたすら広大な大清帝国の全土から届く全ての上奏文を読んで自ら返答していた。
その殆どが上奏文の送り主の失策や怠惰を痛罵するものであったが、
送り主の才能や努力を認めると、それを称賛し、時には中央政界へ自ら抜擢する事さえあった。
また、康熙帝も贅沢を嫌う皇帝であったが、雍正帝はそれに輪をかけて倹約に努めた。
上奏文が華美であるのを嫌い、自らも質素な部屋で政務にあたった。
満州人の支配をよしとしない漢人の思想家が反逆を企てると、
話も碌に聞かずに処刑するのではなく、正々堂々とその思想家と論戦をして感化させた。
***
しかし、そもそも即位した時点で四十五歳である。
それまで趣味の世界にのみ生きていた者が、突如として激務に身を沈めるのは負担をかけ過ぎた。
それでいて雍正帝は、趣味の時間も削りたくはなかった。
満州人の皇帝ではない他者に身をやつすのは、雍正帝の僅かな安らぎであった。
仙人、ラマ僧、モンゴル人…西洋人の格好をした肖像さえ残っている。
だが、人間の肉体の活動時間は有限である。
これ以上睡眠時間を削っては命が危ういと、何度も医者に言われた。
雍正帝は、ブムブタイが発足させ、康熙帝が管理していた『血滴子』に目を付けた。
『血滴子』では、不老不死、不眠不休の化け物について研究を重ねているらしい。
さすれば、いつの日か人が眠りを必要としなくなる秘法を手に入れるのではないか?
雍正帝には皇子時代に父から拝領された『円明園』という庭園があった。
それまでは北京郊外にブムブタイが密かに建てた屋敷で活動していた『血滴子』をそこに移し、
資金を惜しみなく継ぎ込んだ。
彼は贅沢には興味がないと言ったが、
ある分野の学問や研究を飛躍的に進めたければ多額の資金の投入が絶対条件となる。
円明園を拠点とするようになった『血滴子』は、
宮中の、その存在を知る者達からは『円明血滴子』と呼ばれるようになり、
その後雍正帝の設立した諜報機関として世に知られるようになるが、
その実情は順治年間から存在した特殊部隊なのであった。
血滴子内部では怪物の事は『飛天』と呼ばれていた。
大清帝国では唯一、満漢蒙その他諸民族の別なく混成状態で編成される血滴子には、
それこそ多様な出身者がいた。
人口増加によって進んだ富の再分化によって窮乏した旗人の次男坊、村を飛天に襲われた漢人、
血滴子以外の場所では才能を発揮できない明旧臣の子孫…。
呉有垂は、血滴子初の漢人進士であった。
最初は義手に馴染むのにも難儀したが、やがて難なく重い武器を扱えるまでになった。
そして、進士の論理性と進士とは思えぬ発想をいたく評価した雍正帝は、呉有垂を血滴子の長官に据えた。
一見優雅で冷静に見える呉有垂は、その実この世の誰よりも飛天を憎悪していた。
雍正帝の真意を知ってか知らずか、飛天はこの地上から一体残らず殲滅しなければならぬと考えていた。
***
雍正十三年、雍正帝は遂に生命の神秘を掴めぬままに崩じた。
どうも晩年は飛天の研究による不老不死の達成には見切りをつけていたらしく、
『従来の方法』である道士の丹薬によって中毒死したらしい。
雍正帝は、飛天の実情を知るにつれ恐れを抱いた。
確かに彼らはいくら首を刎ねるか焼き尽くすかしない限りいくら傷つけても再生するし、寿命も確認されていない。
そして、『彼らは元々人であったもの』という仮説まで血滴子内部では立証されていたのだ。
しかし、飛天はどうやら自らの姿形や衝動を制御できない者が大半であるらしい。
その衝動というのが―――人間の血液を喰らうというものである。
雍正帝はその報告を聞き、逡巡した。
確かに彼らは眠りを必要としない。
だが、人の命を代償にする生き物となった者が、国を治めるのは正しい事だろうか?
やはり、人がそれを欲するにはより危険性の高い古来の方法しかないのか。
雍正帝は、自分が崩じた場合の事も考えた上で、丹薬を飲んだのである。




