救い主の像
一方、南に戻った張嫣は、改めて永暦帝たちの現実を突きつけられていた。
明の官僚たちより、軍が強い張献忠達の残党を当てにしたため、統治が出来なくなった。
彼らは、救いを西方の神に求めていた。
ローマ・カトリック教会に使節を送ったが、協会側は『既に清宮廷に宣教師がいる』と、
それを受諾しなかった。
永暦帝本人が洗礼を受けていたかどうかは張嫣には最期まで解らなかったが、
彼の親族や部下の多くは洗礼を受けていた。
彼らは首から人がくっついた十字を提げ、事あるごとに西方の神に祈りを捧げていた。
張嫣が思うに、その神こそが滅びゆく彼らの精神的支柱になったのであろう。
西方の神の教えではこう言っている。
『神と呼べるものは西方の神一柱のみで、あとの類似物はみな『悪魔』である』
『この世界の一切のものはその神が創造したものである』
『全てを創造した後に、神は土から人間の男を作り、その肋骨で人間の女を作った』
『地上最初の男女は神の教えに背いたため、苦しみのない楽園から追放された』
『史上一度だけ、神の子が女の腹を通じて地上に産まれた』
『神の子は地上の過去・現在・未来の全ての人間の罪を背負って死んだが、その三日後に復活した』
『全ての人間はこの世界が終焉する時に審判を受けて、
永遠の幸福の世界か永遠の苦痛の世界のどちらかに送られる』
『神を信じ、徳を積む者は永遠の幸福の世界に送られる』
―――つまり、これまで漢族が積み重ねてきた歴史も、思想も、文化も、
また満洲族が心のよりどころにしている数多の神々も全てを放棄した所に
『永遠の幸福』があると説いているのだ。
要するに、現世での勝利はもはや望めないが、西方の神に対する信仰だけでも守り通していれば
何れ『永遠の幸福』側の世界に受け入れられると信じた結果、南明の上層部に支持者を増やしたのだろう。
張嫣には、まるでその教えが『敗北を前提に想定している』様で到底受け入れられなかったのだが。
***
彼らは各地で敗戦を喫し、遂に漢族の要る地から、
ビルマ(現ミャンマー)のトゥングー王国へ逃れざるを得なかった。
この時、永暦帝に付き従う者の数は皇族とその侍従を含めても千人もいなかった。
トゥングーのピンダレ王は初めのうちは利用価値があると考えて彼らを
―――ほぼ軟禁状態であるとはいえ―――歓待を尽くした。
しかし、呉三桂が『永暦帝を引き渡さなければビルマを攻撃する』との書状を送ったことから
宮廷は彼らの扱いを巡って紛糾するようになった。
その呉三桂の脅迫状の中に、にわかには信じがたい文章があった事が議論を呼んだ。
『私は辮髪を拒む雲南のある部族を攻撃した際、象を率いる軍と交戦した。
隊の前列が踏みつぶされて乱れたので、私は彼らを戒めるために馬を駆って象の面前に出た。
部族の長は馬を降りた私を見て、彼の操る象に踏ませようとした。
私は兵士に『手出しは無用と』指示を出し、
象の片方の前足が、私の上に降ろされようとしたその時、私は右手でその象の足裏に触れた。
するとどうだろう、象の足はそこで押し留まった。
どんなに力を込めようと、象は私を踏み潰すことは出来ないようであった。
もう片方の手で象の足を突き飛ばすと象は真後ろにひっくり返り、部族の長はあべこべに下敷きになって死んだ。指揮官を失って恐慌状態になった部族の兵は、同士討ちを避けるために自らの象を撃ち殺し、
自ら辮髪にすることで滅亡の危機を逃れた』
要するに、呉三桂は片手で戦象を押し留める事が可能と主張しているわけである。
「素手で象を倒せる人間など聞いた事もありませぬ。漢族特有の法螺でしょう」
「いや、これは呉三桂や清の軍事力の比喩でしょう。
いくら象がいたところで、我らはそれを押しつぶせるだけの兵力と火器があるぞ、と」
何れにしろ、永暦帝を保護する限りはトゥングー王国は清の攻撃を免れる事はないらしい。
***
事態が動いたのは永暦十五年五月二十二日のことである。
ピンダレの弟が兄の一家を襲撃してチンドウィン川に沈め、王位を奪取したのである。
古い王を殺した新しい王が、古い王と同じ考えをするわけもない。
七月十九日、新王は永暦帝たちのいる宮殿を襲撃し、皇族以外の侍従を殺し尽くした。
筈だったが、張嫣は兵士の一人を返り討ちにして入れ替わり、ビルマを脱出した。
一人だけ、永暦帝たちを救える可能性のある存在に対面するためである。
彼の名は、李定国といった。
彼も、張嫣と似た存在である。
彼は陝西省の貧農の子として生まれ、十歳の時に赤の他人の子と交換されて屠殺されそうになった際に
体格のいいのを見込んだ張献忠によって救われ、彼の養子になった。
以来、彼は張献忠を恩人として慕い、彼の命ずる如何なる殺戮にも嫌な顔一つせず応じた。
張献忠の死後は進むべき道を失ったように思ったが、義兄弟と共に雲南を手に入れ、
『我らが望んだのは善き明朝であって、異民族の支配ではない』と漁夫の利を狙うかのように
明領に侵入した清に対抗する決意をして桂林から逃亡してきた永暦帝たちを迎え入れたのだ。
その後も明に降った清の漢人将軍を自決に追い込んだり、呉三桂の侵攻を長期押し留めたりもしたが、
永暦帝が雲南を離れてビルマに向かう際に離れ離れとなり、彼も『病を得た』という。
***
「やあ、君は確か陛下の近衛の一人だったね」
久しぶりに対面する李定国は、身体中のあちこちに包帯を巻いていた。
「人払いをしてくれ。彼とは二人きりで話がしたい」
李定国も張嫣から『同種の匂い』を感じたのだろうか。
「―――怪我でも、病でもないのだろう?その包帯は」
二人になった瞬間、張嫣がためらわずに口にした。
「ああ。どちらかといえば『病』に近いんだろうけど
―――まるで、手入れを怠った漆塗りの器が、ひび割れていくようだよ」
そういって李定国が左腕に巻いた包帯を解くと
―――そこには、網目状にひび割れ、紅いものが垣間見える傷口が広がっていた。
「陛下と別れてからだ。それから、日を追うごとに少しずつ広がっている。
全身を蝕まれてしまったその時、私がどうなるかは私自身にもわからない」
「痛むか?」
「痛みは今更あまり感じない。ただ、熱を持っている。
医者は『癩病の亜種か?』とでも言いたげに癩病の薬を飲ませたり塗ったりしているが効果なぞあるわけがない」
「私も、それを病んだ者を幾人も見てきた。しかし、全身に広がったのを見たことはまだない。
――-そうなる前に、みな首が飛ぶか焼け死ぬかしているからな。そうでもしないと、死なぬのであろう?お前も」
「ああ。―――君も、紅い薬を摂取したんだろう?」
「飲んだよ。謀られて、な。その謀になんの意味があったのかはいまだにわからぬが」
「私は―――必要に迫られて、摂取した。まだ、私が漢族でも李定国でもなかった頃に。
取り込まなければ、私は其処で死んでいた」
***
今は李定国を名乗る男は、元は倭人であったらしい。
明が腐り果てて生命を終えるのを待っていたような状態だった頃、
倭国は長い内戦を終えて新しき平和の時代が訪れようとしていた。
しかし、新しい平和の時代が来る前には、数多の生贄が必要である。
彼の父の主君も、そんな生贄の一人であったらしい。
また、戦の時代が終わるという事は、戦士にとっては就職氷河期の時代を迎えるという事でもある。
彼の父も再就職はかなわず、故郷に帰って農民に戻った。
彼が西方の神を信仰している理由は、元をたどればその父の主君に起因している。
信者である領主の一部が西洋諸国に奴隷として倭人を輸出している事が発覚して
倭国ではその神を信仰する事が禁止された。
倭国は火山の集合体の様な島国であるが、彼はその中でも最も活動が活発な火山群の近くに産まれた。
元は仕える主君がいたからか、彼の家は周りの浪人に比べて富裕であったため、
多くの西洋人が行き交う港町で高度な教育を受けることが出来た。
彼もまた西方の神の洗礼を受けて暫く後、沢山の大人が彼を取り囲んだ。
『教養がある』
『見目も整っている』
『偶像に相応しい』
そして、彼の父の口から、『衝撃の生い立ち(今となってはそれすらも真実とは思えない)』を聞かされた。
彼は、彼の産まれる数年前に倭国であった最後の大きな戦で敗れ、炎の中に消えた筈の男の落胤であるという。
その男は、燃え盛る城を逃れ、西へ向かい、南の果てに逃れたという。
その途上で、男に付き従っていた女が男子を産んで死に、子は彼が父母と呼ぶ夫婦に預けられたという。
その男の子は男女二人いて、城が燃えた際に男子は捕まって殺され、女子は出家させられたはずだ。
つまり、彼は時の政府にとっては存在してはいけない存在だったらしい。
大人たちは、本題に入った。
「君には、『救世主』となってもらいたいんだ」
***
この火山のふもとは、暴君によって統治されていた。
いや、暴君と呼ぶのも聊か乱暴かもしれないのだが、民にとっては迷惑な領主であった事は疑いようがない。
その父は独自の野望を持っていたらしく、ルソンへの遠征を考えていたらしい。
彼もまた、新しい時代への生贄だったのだろう。
暴君もその父の路線を強化したがために、民から税を過剰に搾取した。
税が納められない場合は、名主の家族を人質に取り、期限までに支払われなかった場合は容赦なく殺した。
ある庄屋の身籠った妻が子と共に殺された事が切っ掛けとなり、代官を血祭りに挙げて彼らは蜂起した。
すでに水面下でかなりの規模の軍が組織されていたらしかったが、
彼と同じ志を抱いていた者がその何割だったかはわからない。
暴君の統治に不満はなくても強制的に反乱軍の数に入れられた農民も数多かっただろう。
暴君の軍が城に引きこもったのに乗じ、彼らは城下を略奪した。
***
それに呼応するように、彼らの在所でも
失業軍人や弾圧される西方の神の信者たちも寄り集まってその暴君を討つことに決まったが、
誰を頂点に抱くかで揉め、結局『部外者がいい』となり、
見目麗しく教養もある彼を頂点に置くことにしたらしい。
要するに大人たちの傀儡ではあるが、
彼も自らの信仰を隠さなければいけないことに窮屈さを感じていたのでその謀に乗ることにした。
***
彼らは城を一つ落とす直前まではいったが、政府軍が近づいているとの情報を受けてやむなく海を渡り、
暴君の父が政府の命令で放棄した廃城に籠城した。
城跡を修復して防備を固めたが、圧倒的兵力・食料不足下での籠城戦は援軍が前提となる。
そこで大人たちは倭国全土に潜伏している信者たちに一斉蜂起を促す手紙を送り、
また、葡萄牙への援軍要請の為に船を出したとも彼は廃城に入って初めて聞かされた。
政府側はその地方の領主たちを討伐軍として派遣したが、寄せ集めであったので逆に総大将が討ち取られた。
しかし、政府軍が到着してからは様相が変わった。
陸と海から幾重にも包囲され、食料の補給もままならない。
膠着状態が幾日か続いた朝、聞いた事もないような砲撃の音で目覚めた。
海の方を見ると、待ちわびた西洋船が―――城に向かって、大砲を打ち込んできた。
信じる者は、救われるのではなかったのか。
共に、神の敵を討つのではなかったか。
後で知ったことだが西方の神の教会は一枚岩ではなかったらしく、
彼らが援軍を要請した国と彼らに大砲を打ち込んだ艦船の国は違う教会に属していたらしい。
しかし反乱に参加した民どころか、彼自身、どころか彼を擁立した大人たちも
其処のところがよくわかっていない人間の方が多かったらしく、
『神は我々を見捨てたもうた』と口にはせずとも『同じ神を信じている筈の者達に攻撃されている』という事実は
彼らの士気に多大なる影響を及ぼした。
***
最早、我らは現世に於いて救われる事はないのだろう。
ならば、神の僕として死に、天国へ向かう事だけを考えるべきだろう。
海藻を齧りながら聖書を読みふけっていた春の朝、遂に政府軍の総攻撃が始まった。
今まで志を同じうしていた仲間たちは、勝ち目のない敵にまっすぐに向かっていき、
一人、また一人と倒れていった。
―――私が何より神を信じずして、どうして彼らが天国に向かえるだろう。
敵の本陣に向けて駆け出したその瞬間、何発もの銃弾が彼の身体を貫通した。
***
―――次に目を覚ました時、彼は既に倭国を離れて、西洋の船で明国へ向かっていた。
傍には、見たこともない男が一人だけ。
聞くと、他の皆は倭国の政府軍に皆殺しにされたという。
「どうして私だけ」と問いただすと、西洋人らしきその男は答えた。
男は廃城に密かに潜入していた葡萄牙の密偵であったが、
先に敵国が大砲を打ち込んだため、援軍を出すことが出来なかった。
彼は複数の弾丸を受けたが、全て急所を外れていた為、虫の息で持ちこたえていた。
急いで彼を敵兵に見つからない場所へ隠し、
一人分だけ持っていた『秘密の薬剤』を心臓に最も近い傷口へと注ぎ込んだ。
傷はあっという間に消えたが、意識を回復するまで七日七晩かかったという。
倭国で『彼』として晒された首は、実際は年の近い少年。
最早彼は死んだものとして扱われているため、信仰の容認の希望のなくなった倭国は離れた方がいいと言われ、『私は奴隷商人ではない。明へ渡り、そこで自らの思うように生きてみろ』と伝えられた。
「但し」と男は付け加えた。
「もう、君は薬の副作用で陽の光を浴びることが出来ない体になってしまった。
陽光を浴びると、そこから君の身体は塵の様に崩れ去ってしまうであろう。
それともう一つ。薬で得た肉体には『使用期限』があって、それがいつになるかは私にもわからない。
ただ、期限が切れるとやっぱり君は塵になっておしまいだ」
***
「結局、私達は殉教者にすらなれなかったんだ」
戦の発端となった暴君は、倭国政府によって不名誉な方法で処刑されたらしい。
されど、嘗て倭国で彼と共に戦った者達を、西方の教会は『殉教者』として扱おうとしなかった。
純粋に信仰の為に戦ったわけでもなければ、武力を持って動き、人を殺めたとして。
「そんなもの」
彼―――李定国は、嗚咽するように言った。
「西洋人だって同じじゃないか。
彼らだって、神の名の下に、信仰だけじゃない目的で、戦を起こした経験があるじゃないか」
嘆く李定国を尻目に、張嫣は気づいた。
とても神を信じる気になれなさそうな立場に追いやられたというのに、
相も変わらず彼はその教会の言う『救世主』の形代とでも言うべき首飾りを提げている。
「では、何故、それを外そうとはしないのだ」
「これは…人として生まれ、陽の下を歩けた頃の私と、血に沈み続ける今の私を繋ぐ、唯一のよすがだから」
李定国は、遠い目をした。
きっと、この男は、首飾りと其処にぶら下がっている『救世主』の向こうに今なお神を見続けているのだろう。
例え、『永遠の幸福』への門が自分には閉ざされていたとしても。
***
『思うように生きろ』とは言われたものの、殆ど他人を殺め続ける事が前提の生態である。
それを厭うて初めのうちは鼠や犬の血を啜っていたが、やはり人の血でないと満たされないらしい。
やがて、明国の民が倭国の民よりも悪い状況にある事に気が付いた。
だが、今の自分には『救世主』の資格などない。
そんな時に出会ったのが、張献忠であった。
彼は人殺しが趣味と公言して憚らない男であったが、少し前までの倭国にはそんな男は沢山いた。
戦が無くなった倭国ではそういった男の行き場がなくなったために暴君の跋扈に乗じて暴発したのであるが、
明国では今まさに世が乱れようとしている時であったので生き生きとしていた。
彼は『李定国』と名乗り、漢人の様な経歴を騙り、張献忠の養子になった。
最早、李自成らの綺麗ごとでは誰も『永遠の幸福』にはたどり着けないと理解していた。
血にまみれた大西帝国は、彼にとっては生存に適した環境でもあった。
張献忠の死後、彼は再び同じような境遇の義兄弟らと彷徨った。
其処に、永暦帝らが落ち延びてきたとの報せが入り、彼はある決意を固めた。
「それまでの私は、他者に命じられるがままに破壊するだけの存在だった。
陛下と共に明を再興させることによって、私はやっと自らの意思で生産する側の者になれると信じたんだ」
永暦帝とその家族は、彼の首飾りに興味を示した。
李定国が人だった頃を懐かしむように神について語ると、
いつしかその信仰は宣教師らを介して彼らの軍に広がっていった。
陽の光を嫌い、日中の戦闘は必ず肌を隈なく覆う装いであった彼を奇異の眼で見る者もいたが、
永暦帝は彼を信頼した。
「明の軍中は、確かに、神によってひとつになれた―――気がしたんだ」
李定国は、其処で目を伏せる。
「しかし、陛下一行がビルマに向かう際に私は呉三桂らを押し留める役を仰せつかったが
――戦いの最中に、左腕から、身に覚えのない古傷が裂けたような痛みを感じた。
今の私の身体に、『古傷』なんてものは存在しないのに。
それは、矢が飛んできたわけではなくて、肉体が自ら裂傷を発したものであった。
戦には敗れ、陛下と連絡が取れなくなった。以降、日を追うごとに傷が広がり続けている。
これがあの男の言った『肉体の使用期限』なのかも知れない。私は結局、何も果たせぬまま―――」
「もう一度、陛下を救う算段を立てないか。ビルマ王が呉三桂に陛下を引き渡すその時を狙おう」
***
永暦十五年十二月三日。
その日は、ビルマ王が国境付近で呉三桂に永暦帝の一家を引き渡す予定の日であった。
縛り上げられた皇帝一家を先頭に、ビルマ軍が呉三桂の軍を待っていた。
其処に。
多数の影の様な者が躍り込んだ。
影は瞬く間に多数のビルマ軍を殺害し、永暦帝一家の方へ向かった。
「陛下、まだ何も終わって等おりませぬ。今一度、海まで逃れて再起を―――」
「させるか!」
騒ぎを聞きつけ、軍を急行させた呉三桂軍が反対側から現れた。
「李将軍、我らは共に呉三桂にあたろう。ビルマ軍と陛下は部下がなんとかできる」
張嫣と李定国は少数の部下と共に、呉三桂軍に向かっていった。
しかし、やはり呉三桂その人の強さは群を抜いている。
互角に戦えそうなのはそれこそ李定国のみであろう。
李定国が呉三桂の頭に鉞を振り下ろそうとした刹那。
鉞を持った腕が、すっぽりと何処かへ飛んで行った。
張嫣も李定国も、そしておそらく呉三桂も、何が起きたのかはまったくわからなかった。
ただ、李定国が突如として戦闘不能になった事だけは確かであった。
「大丈夫か!!」
すかさず大刀を振って李定国を横に真っ二つにしようとした呉三桂から、張嫣が飛び出してきて離脱した。
「陛下…!」
「お前のその容態じゃもう無理だ!!あきらめろ!!」
実際は、張嫣こそが、李定国と共に最も諦めたくない人物でもあったのだが。
***
永暦帝一家を救出しようとした部隊は李定国と張嫣以外は全滅したと聞かされた。
「痛みはあったのか?」
「ない。まったく何の前触れもなく、ひびが入っていた所の感覚がなくなって、落ちたんだ」
李定国は、医者には『腕を落とされた』と話した。
その『傷口』は血の一滴も出なかったが、代わりにかさぶたにも似た血珊瑚色の脆い結晶が落ちた。
張嫣は、その結晶を拾い上げて指で潰し、呟いた。
「指で軽く押しただけで粉々になってしまう。まるで塵のようだな」
すると、何か気に障ったのか、李定国が張嫣を押し倒した。
「何をする!!」
李定国は、張嫣が女性であることは知らない。
しかし、肌を見られるわけにはいかなかった。
「私とお前、一体何が違うんだ!?どうして私だけ、こんな役立たずの肉体なんだ!!
私は陽の光を避けて通ったとしても、何れ塵になる運命だというのに!!」
李定国は、張嫣の首筋に噛みついて、血を啜った。
ひとしきり吸い終わると、左手で口を拭った。
その間に、張嫣の傷口は塞がってしまった。
「…すまない」
李定国が、目を伏せた。
「実はあの時、陛下と目が合ったんだ。多分、陛下は私が常人ではないことにもうずっと前から気づいていたんだ。それでも私の身を案じているような眼をしていたよ」
***
永暦十六年四月十五日。
その日は、『永暦』のみならず、明の元号が消滅する日でもあった。
昆明の市で、明の皇統の消滅を見守る群衆の中に、
頭を剃った張嫣と、身体中に包帯を巻いた上に色の濃い着物を着て顔を隠した李定国がいた。
呉三桂は、張嫣の眼には逡巡しているように見えた。
今から処刑される筈の永暦帝の方が、落ち着き払っていた。
永暦帝一家は、口々に呉三桂を罵った。
「呉三桂、そなたらの魂は永遠に救われぬ!」
「女の為に道を誤るとは、まるでエデンを追われたアダムの決断だな!!」
「いや、神の子の弟子でありながら金貨三十枚ぽっちで敵に神の子を売ったユダか!?」
「そなたも、そなたの子らも、そなたの孫らも、みな地獄に落ちるがいい!」
「…みんな、面白いぐらいに異国の神の話を信じていやがる」
呉三桂が笑った。
「北京にいる宣教師から、こんな話を聞いたことがある。
お前らの信じる神の教えでは、亡骸は焼いてはいけないそうだな。
神が『最後の審判』の為に全ての死者を復活させる際には
身体が骨だけでも揃っていないといけないという理由で。
俺に対する誹謗中傷をこの場で止めるなら弓の弦で瞬時に息の根を止めてから焼いてやる。
俺を罵り続けるというのなら―――生きたまま、灰になってもらうぞ!」
「山海関では、鬼神の様な働きをしたと聞いたよ、呉三桂。
君は、自分の向かう先に天国がないと知っても、なお戦えるのかい?」
それまで沈黙を貫いてきた永暦帝が、はじめて口を開いた。
「天国だの地獄だのは、一度死んだ奴に聞かないとわからないが、
あいにく俺は一度死んで蘇った者を見たことがないんでな。
…俺の行く先に天国がないなどと、誰が断言できる?」
「呉三桂、君は強いよ。本当に強いよ。
―――そんなに強い君が、新しい王朝の脅威にならないと、誰が断言できるんだい?」
呉三桂ははじめ口の中だけで笑っていたが、やがて、その笑いは口を飛び出して昆明に響き渡った。
「俺が、清の脅威になる、だと?俺はこれ以上の乱世を望まぬ。
俺は、選ばざるを得なかった。ただそれだけのことだ」
「そう―――近い将来、君はまた、紫禁城に刃を向けることになるだろうね」
***
永暦帝一家は、その殆どが生きながら焼かれ、みな口々に
『我らは神のみもと、呉三桂は地獄の底』と歌いながら灰になった。
ただ、当の永暦帝本人だけは、先に呉三桂自らの手で弓の弦によって絞殺された。
彼らは皆骨壺に入れられて北京へ運ばれる。
小さな壷に収まる程度に小さくなった彼らが車に積み上げられていくのを見届けた李定国は、張嫣に告げた。
「石林という場所を、知っているか」
***
昆明を南東に百キロほど行ったところには、石灰岩と地下水のカルスト台地が広がっており、
其処を総称して『石林』という。
「昆明が落ちた後、一時的にこの辺りに潜伏していた。
ここから見える朝焼けが最高だって、岩登りのうまい部下が言っていた」
「その部下は?」
「…陛下に随行して、ビルマ王に殺された」
張嫣の方が、頂に立つのが遥かに早かった。
李定国は、今にも砕けて落ちてしまいそうな左腕を両の足で、懸命に登った。
「大丈夫か」
「このくらいなら、自分でも登れる」
もうじき陽の光が見え始めるという頃になって、やっと李定国が登頂した。
しかし、李定国は登れても降りることは出来ないだろう。
「どうするつもりだ」
一応問うてはみたが、張嫣にもこれから李定国がどうするかは、薄々わかっていた。
わかっていたが、止めるのも酷であろう。
李定国は、顔の覆いを外した。
包帯も、いつの間にか全て外してしまっていたらしい。
「―――もう一度、太陽を見たかった。それだけさ」
やがて、東の空の果てに光が差した。
張嫣にとってはどうという事もないが、李定国にとっては死神も同然である。
陽が高く上り、ひび割れだらけの李定国の肉体から、微かな煙が立ち上り始めた。
「熱いか」
「熱いさ。ただ―――温もりは、二十数年、感じていなかったものでね」
Gloria Patri, et Filio, et Spiritui Sancto,
sicut erat in principio et nunc et semper et in saecula saeculorum. Amen.
願わくは、聖父と聖子と聖霊とに栄えあらんことを。
始めにありし如く、今もいつも世々にいたるまで。アーメン。
呟き終わると、白い炎が李定国の身体を包んだ。
***
灰一つ残さず消えていった李定国の衣服を改めると、一冊の本と例の首飾りが遺されていた。
本の方は、張嫣が見たこともない異国の言語で書かれていたが、
内容は常日頃から李定国を始めとする永暦帝周辺の人間が語っていた事に相違なかろう。
首飾りの方を、改めて詳らかに見る。
―――悪趣味な像だ。
―――人、それも『神の子』とされる人物がが磔にされて苦しめられている様を、信仰の証として首に提げるとは。
***
永暦帝の生母は、マリアという洗礼名を授けられていた。
この時八十五歳の高齢であったが、なお矍鑠たる人物であったようで、
北京に送られる最中に我が子、我が孫の処刑の報せを聞くと、
「逆賊の呉三桂よ!汝の謀反によって、我らの国は落日の一途を辿った。
我らは死して、汝の屍の全てが砕かれるのを見届けてやろう!!」
と痛哭し、『自害する者は天国に招かれない』という神の教えに従って
永暦帝の后と互いの首を絞め合って死のうとしたが、后は死に、マリアは生きた。
マリアは、清の宮廷には同情を以て接せられ、結局九十一歳まで生きた。




