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天京の聖杯  作者: はぐれイヌワシ
10/19

摂政王は見た

張嫣は、永暦帝の軍を離脱し、北に向かうことにした。

中華の大地の大半は、この時点で既に清の手に落ちていた。


方々で辮髪の男の血を飲めば、済む話であった。

一日毎に別人になり、使い捨てていく。


***


だが、清は中華の大地に蠢く怪物に気づいていた。

南明との戦いで、それらしき怪物を沢山の将兵が目撃していたのだ。


何せ、常人には首を刎ねるか焼き尽くすかでしか駆除できない生物である。

しかも、常人に化ける能力まで持っている。

清国にとっても統治の障害にしかならないこの生物を、見逃すわけにはいかなかった。


その生物が確認された城は、全ての住民を殺してでも生物の息の根を止める事が最重視された。


揚州十日、嘉定三屠、庚寅之劫。


これは皆、清軍が皆殺しを余儀なくされた戦である。


生物と常人との見分けが困難である以上、巻き添えは仕方がなかった。


清の摂政・ドルゴンは各地の将軍たちに

『明の旧領に、人に化けて人の血を喰らう怪物が多数潜んでいる。戦地で発見したら細大漏らさず報告するように』『可能ならば生け捕りが好ましいが、困難である場合は何としてでも駆除せよ』

と司令を送っていたのだ。


***


なぜ彼が『怪物』の存在に気づいたか。

それは、山海関が開いて、北京を目前に李自成の軍と交戦した時の事である。


清に降った山海関の守将・呉三桂の家族を、李自成が人質に取ったとの情報が入ってきていた。

漢族の思想基幹である儒教では、こういう時に親を見殺しにするのは最悪の行動とされている。


土壇場で寝返るのではないかと、清軍の誰もが怯えていた。


一応、ドルゴン本人は呉三桂から

『少数精鋭の自軍と烏合の衆の李自成じゃその内内紛が起きる』

『家族の事はもう諦めることにした』

『北京が落ち着いたらみんな辮髪にする』

との言質は取ってある。


それでも、呉三桂を信じる以外には、清が長城を越える可能性はなかったのだ。


呉三桂の軍がまだ辮髪にしていない以上、同士討ちにならないように区別する必要があったので、

呉三桂の軍には崇禎帝に対する喪章の意味も込めて右肩に白い布を巻かせた。


忠誠を示させるために、李自成の軍と呉三桂の軍を真っ先に交戦させた。

そこで、ドルゴンはあり得ない物を見た。


呉三桂が武官用の科挙、『武挙』で武状元を取ったという情報は以前からあった。

しかし、それは同じく武進士である父の肝いりであろうとも思っていたのだ。


そうではなかった。

呉三桂は、常人を大幅に圧倒する跳躍と速度で、戦場を駆けていた。


とても、彼が同じ人間であるとは思えなかったのだ。


「失礼する」

ドルゴンは、白い布を肩に巻いた、漢人の兵士に漢語で質問した。


「漢人の武進士は、皆あの様に戦うのかね?」

「さあ、私は山海関付近の村で志願した新米なのでよく解りません。

呉将軍が自ら武器を取って戦うのを見るのも今日が初めてです」


ドルゴンは、意を決し、もう一つ質問をした。

「―――そなたの上官、目が、赤く光っていたように見えたのだが」


李自成の軍の兵を数人纏めて斬り倒す瞬間、彼の眼が血の様に光って見えたのだ。


「―――多分見間違いですよ」


―――決して見間違いなどでは無い。

―――常人では有り得ない動きを披露しているではないか、眼の前で。

―――あの『将軍』は人とは違う生物とでもいうのか。


***


李自成の軍を追い散らし、ドルゴン達は北京に入城した。


紫禁城は、李自成軍によって灰燼に帰してしまっていた。

ここにはいない順治帝の代わりに玉座から指令を出すことにしたドルゴンは、

慌てて辮髪にした明の遺臣らに紫禁城の設計図の探索を命じると、真っ先に呉三桂の邸に向かった。


呉三桂の家族は、山海関に連れて来ていた正妻と幼い長男以外は全て殺害されたらしい。

その中には、最近彼が一目惚れして

彼の財産の半分で崇禎帝の義父から譲ってもらった蘇州の名妓もいたそうだ。


下手な慰めの言葉よりも、これから彼がとるべき行動を指示してやった方がいいだろう。


そう思って邸に入ると、想定外の流血沙汰があった。


呉三桂は、真っ先に父の首を探していた。

のだが、その右腕の袖は引きちぎられたというよりも明らかに刃物で切断されたようになっていて、

それでいてその下の右腕は健在であった。


そして、その傍らには喉元を紅く染めた彼の部下が転がっていた。


「将軍、これは」

「ああ、そいつはまたウチの中にいた賊に喉を掻っ切られたのよ。かわいそうに」


「袖が、丸ごと切り落とされたようだが」

「その賊に肩口斬りつけられてなぁ、何とかそいつは倒したけど袖だけビラビラになって邪魔だから切っちまった」


ドルゴンは、気づいていた。

呉三桂の証言の矛盾に。


部下の傷は、刃物による傷というより、明らかに獣による噛み傷に見えた。

また、呉三桂が肩口を傷つけられたのであれば腕を怪我している筈なのに、腕には傷らしきものは見当たらなかった。


そして、何よりも。

首の入った桶の並べられたその陰に、呉三桂の大刀を握りしめた、呉三桂の衣装の右腕部分に一致する衣装に包まれた右腕が転がっていたのである!


「将軍」

ここでこれ以上何かを詮索すれば、自分もどうなるかわからない。


「何だよ」

「一つ、聞きたいことがある。明の皇帝が自害した時点で、この国の主はいなくなった。

我らの協力を受けず、順軍を君一人で蹴散らしたなら、

北京の臣民は君を一点の曇りもない英雄として迎えただろう。もしかしたら皇帝に推戴されたかもしれない。

―――何故、そうしようとはしなかったんだ」


「お前らと組む方が確実だったからだ。それと―――俺は帝位『は』望んじゃいねえ」

「まるで、他に何か望む物があったかのような物言いだな。何を望んだ。

家族を見殺しにして、自分達と同じ髪型を強要する民族の軍と組んで」


「…質問に質問で返して悪いが、なんで、お前こそ俺の望みが『帝位』だと思い込んだ。

『帝位』を一番欲しているのはお前の方じゃないのか、摂政王。

清の太祖に一番愛されていた筈のお前が、年齢を理由に兄に帝位を持ってかれて、

その兄が死んでやっと争いの舞台に立てると思ったら、何故か七歳児の皇帝を掲げる羽目になって」


「…私の一番の望みもまた、『帝位』ではないのだよ」

「何だ」


「―――案外、私達は似た者同士なのかもしれないな、将軍」

「そうかね」


翌日、呉三桂は、部下たちの前で率先して辮髪にした。


***


ドルゴンは確かに、父である清の太祖・ヌルハチに最も愛された男子であった。

だが、父が袁崇煥の砲火に斃れた時、彼はまだ余りにも幼すぎた。


晩年のヌルハチの寵愛を独占し、我が子を帝位に就けようと暗躍していた母・アバハイは

ヌルハチの遺言によって殉死を命じられた。


いくつかの争いの後に異母兄のホンタイジが帝位に就いた後は、

ドルゴンとその同母兄弟が率いる『正白旗・鑲白旗』はモンゴルのチャハルを討って

元朝の玉璽を得る等の数々の戦功を挙げ、一定の信頼を得た。


ホンタイジの死後は、ホンタイジの長男・ホーゲとドルゴンの二者が有力な後継者として挙げられた。

ホーゲはドルゴンより年長で、武勇に優れていたが、謀略に関してはドルゴンに及ばなかった。


他方、ドルゴンが有能である事は全員が承知していたがドルゴン本人は病弱な上に、男子もいなかった。


このまま後継者争いが長引けば、其処を明に衝かれてしまう。

長城越えなど夢のまた夢になってしまう。


そんな焦燥が清の上層部に広がっていたある晩、一人の女人がドルゴンを訪れた。


「このまま帝位が空では、私達は何も為せません。一つの提案がございます」

ホンタイジの妃の一人である、モンゴルのボルジギン氏から嫁いできたブムブタイであった。


ブムブタイが産んだ男子はたった一人、しかも数えで六歳のフリンである。

まさかそのフリンを擁立するとか言うんじゃなかろうなと思っていたら、そのまさかだった。


ドルゴンは目を白黒させた。

自分を父の後継者にさせようと暗躍しまくった結果、父と同じ墓に入る羽目になった母を思い出したのだ。


しかし、ホンタイジの治世を思い返すと、正直自分は皇帝の器じゃないとは思えてならない。

かといって、ホーゲに帝位を渡してしまったらそれこそどうなるか分かったものじゃない。


何より。

ブムブタイの白く滑らかな肌は、ドルゴンの眼を惹き付けてやまないのだ。


***


急転直下、帝位はフリンが継ぎドルゴンが摂政として実権を握る事となった。


それは、ドルゴンにとっては自身の帝位継承を断念したも同義であった。


――― 彼女は、生涯自分を愛することはないだろう。

――― だが、彼女が望むものは、全身全霊を以て、叶える事が自分の存在意義だ。

――― それが報われるどころか、全てを仇で返される日が来ることが明白であったとしても。


***


例え似た者同士であったとしても、最早ドルゴンの目には呉三桂は人間とは映らなかった。

ドルゴンは呉三桂の同意の下、彼の監視として自分の旗下である正白旗の部下から、

センギという者を選んで呉三桂の軍に同行させることにした。


センギは絵が上手く、どんなものを目にしても筆と墨で紙に写し取れる才能があった。

ドルゴンは彼に

『呉三桂本人の肉体的な特徴―――食事や負傷時の回復までの様子に特に目を配って欲しい』

『例え我々が今まで目にしたことのない事象が君の眼の前に広がったとしても、

君なら自分自身に惑わされずに私に報告できるはずだ』

と言い含めておいた。


辮髪にした呉三桂をセンギと共に先に李自成軍追討に向かわせると、

ドルゴンは秘密裏に彼以外の将軍達を招集した。


「これから諸君には李自成軍及び明の残党を討伐しに行って貰う訳だが、

その前に頭に入れておきたいことが幾つかある」


ドルゴンは、呉三桂の名は出さず、

『常人はとても及ばぬ身体能力で、腕を切り落とされても瞬時に回復し、人の血を喰らう人によく似た怪物』が

明の旧領に棲息しているとの情報を間諜から得ていたと発表した。


勿論、諸将は信じるはずもなかった。

が、『占領地の男性は全員辮髪、拒めば死刑』と発令したドルゴンに口出しすればどうなるかわからない。


「もし、諸君が遠征先でそのような怪物を目にした際は、

まずそれの生け捕りもしくは殲滅を第一に行動して欲しい。

最悪、城一つ滅ぼしてもいいから怪物一体を逃がすようなことのないように。

また、滅ぼした際にはその生態やどうやって滅ぼしたかも詳細に報告願う」


「要するに、ヤバい生き物が城内にいたらもうその城は全滅させろってことでいいんですね?」

「そして、その変わった生き物の詳細についても報告して欲しい、と」


(ああ、当たり前だけどこいつら信用してないな)と悟ったドルゴンは、

「そうだ」と答え、彼らを解散させた。


***


そして、案の定清軍は大陸南部のあちこちで大虐殺を余儀なくされた。


確かに全ての男性に辮髪を強制したのは大きな反発を招いたかもしれない。

漢族の居住地域を支配した民族は、基本的に漢族の風俗にまでは介入してこなかった。


だが、ドルゴンは辮髪だけは譲ろうとはしなかった。

辮髪というのは、他の髪型にしようとするとどうしても髪を伸ばすのに時間がかかる。

もし叛意を持ったものがそれを示すために髪を伸ばそうとすれば、伸び切る前に察知できる。


それよりも、怪物がドルゴンの予想より根深く、

この大陸、いやこの全ての地上に根を下ろしている事の方が大問題であった。


これは、最早清の大陸統治とかそういう範疇を遥かに超えていた。


―――彼奴等は、何れ人に取って代わろうとするぞ。


幸い、どう倒せばいいかは前線の将兵たちが報告してくれた。

首を落とすか、灰になるまで焼き尽くせば復活はしない、と。


しかし、この怪物の存在を公には出来ない。

公にしたところで、彼奴等は、人に化けるばかりだ。


―――専門の部隊を作るのはどうだろうか。

―――満人蒙人漢人関係なく、同じ目的を持ったものが集う部隊。

―――出来るだけ、その存在は秘匿されるべきだろう。



***


喀喇城を拠点に、日頃の苦悩を忘れ去ったかのようにドルゴンは久々に趣味の狩猟に興じていた。

元々、満州族は遊牧民でというよりかは半猟半漁の狩猟民である。


満州族の男子の遺伝子には、狩猟の本能が染みついているのだろう。

正白旗の中では絵が好きなちょっと変わった青年という立ち位置であったセンギでさえ、

弓の腕だけは満洲人である。


ふと、目の前の林に蠢く影があった。

虎だろうか、熊だろうか。


考える間もなく、『それ』は姿を現した。


今までに出会った動物の何にも似ていなかった。

あえて言えば、大きな人間に角やらコウモリの翼やら付け足してみた、と言った方が正確だろうか。

二足で歩行する『それ』は、真っすぐにドルゴンたちの方へ駆け寄った。


「何者だ!」

《私は…お前らに生きていては困る者だ》


咄嗟に弓を射かけようとした瞬間。

何か衝撃波の様な者が『それ』を中心に迸り、弓矢が吹き飛ばされた。

尚もドルゴンは腰の刀を抜いて抵抗しようとしたが。


彼が斬りかかるより先に、『それ』の指先から発射された杭状のものが

ドルゴンの胴体に複数本刺さる方が先であった。


ドルゴンは落馬し、部下が慌てて駆けよった。

その隙に、『それ』の姿は消えた。


杭を引き抜いたところで、助かるどころか出血量が増えて

余命がさらに縮まるだけだとドルゴン本人が一番よくわかっていた。


「杭は動かすな。急ぎ、喀喇城へ向かってくれ―――太后に、渡したいものがある」


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