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彼らの周りの奇しき事件簿

さくらのしたで

作者: 水沢ながる

 五月の夜の満月は朧に霞んでいた。

 男は一人、夜道を歩いていた。時折遠くからサイレンの音が走り抜けて行く以外は、静かな夜だった。男の足音が暗い街並みにコツコツと響いていた。

 と。

 男の足が不意に止まった。頭上を見上げる。

 ひらひらと。

 桜の花びらが舞っていた。

「……ああ」

 横にあるフェンスの向こうは、ちょっとした公園になっていた。公園の奥に立つ、一本の桜の樹。その桜が今を盛りに咲き誇っている。朧な満月の光に照らされ、自らぼうっと輝くように。

 男は公園に足を踏み入れた。少しばかりの寄り道は許されるだろう。この桜は俺を誘っている。

 桜の花を見上げ、男はふと考えた。この桜は何故(なにゆえ)に咲いているのか? 誰も知らない夜の公園で、桜は一体何を主張している? それはある種哲学的な問いであるかも知れなかった。

 キィ。金属のきしむ音。

 男はそちらに顔を向けた。キィ。音の主を求めて。

 ブランコが揺れていた。

 桜の樹のすぐ側に設置された古ぼけたブランコに、一人の幼い少女が乗っていた。年の頃はまだ五~六歳といった頃だろう。少女がブランコをこぐ度に、キィ、と金属がきしんだ。

 男は辺りを見まわした。他に、人の姿はない。

 キィ。ブランコの音だけが響く。男は少女に近づいた。

「やあ、お嬢ちゃん」

 少女はブランコを止め、不審そうに男を見上げた。

「おじさん、誰?」

 少女の問いかけに、男は少しばかり苦笑した。おじさん、か。俺はまだ二十代なんだがな。まあ、この子くらいの年齢の子供から見れば、大人は大抵「おじさん」だよな。むきになるのも大人気ないと思い、男はあえて訂正しなかった。

「いや、あんまりこの桜が綺麗なんでね。ちょっと見に来たんだ」

 男が言うと少女の表情がぱあっと明るくなった。

「おじさんも桜、好きなの?」

「好きだよ。俺の名前と同じだから」

 少女は少しだけ首を傾げたが、まあいいか、という風に再びブランコをこぎ始めた。キィ。

「まいもねえ、桜、好きだよ」

「まいちゃんってのか、お嬢ちゃんの名前」

 キィ。ブランコの音。さらさらと、桜の枝が風になびく。花びらが風に舞う。

「まいちゃん、お母さんはいないのか?」

 男は訊いた。少女はうつむいた。

「まいね、ここでママを待ってるの」

「待ってる?」

 言いかけて、男はふと眉根を寄せた。ブランコの鎖を握る、少女の手。その小さな手に点々とついているのは──

(火傷の痕、か)

 男は傷の正体を正確に見て取った。恐らくこれは、煙草の火を押し付けた痕だ。しかも、どうやら一度や二度ではない。男はさりげなく少女の体中を観察した。表から見えるところには、傷などないように見える。だが……服の間から少しずつ覗く。はっきりとつけられた青痣が。

「まい、ママと一緒に暮らしてるんだけど、最近知らないおじさんが来るの。そのおじさんが来る時は、まい、おうちにいられないの。だからいつもここで待ってるの」

「お家は何処なんだい?」

 少女の目線までかがみ込み、男は尋ねた。

「あそこ」

 少女は公園の向かいに建つ古ぼけたアパートの一室を指差した。少女と一緒にその窓を見上げる。二階の端から二番目の窓。灯りが点いている。

「……あそこか」

 男は独りごちた。眼差しが一瞬険しくなる。だが次の瞬間には、嘘のように険しさの取れた穏やかな視線を、男は少女に投げかけた。

「まいちゃんは、お母さんのこと好きか?」

「好き!」

 即座に答えが返って来た。

「でも、叩かれたりするんじゃないか?」

「それは、まいが悪い子だから。おっきな声で泣いたりするから。怒ったら怖いけど、ママなんだもん、大好き!」

(聞かせてやりたいね、この一言)

 男は口の中だけでそう言った。

「この桜もね、ママと一緒に見るんだよ。ママに手をつないで、一緒に見るの。ママ、この桜が綺麗だねえって言うの。嬉しそうに言うの。だからこれ、ママとまいの桜なの」

 誇らしげに少女は宣言した。

「そっか……じゃあ、俺はここにいちゃ邪魔だったかな?」

「ううん。おじさんは特別に許してあげる」

「それは光栄だ」

 男は少女の手を取ると、火傷の痕の残るそれにそっと口づけた。少女はわけが判らない、といった風に表情を固くした。男は少しばかり照れたように微笑んだ。

「よくお姫様にこういう風にするだろ? まいちゃんは桜のお姫様だから。俺を桜の国に入れてくれたお礼だよ」

「まい、お姫様なの?」

「ああ、そうさ。ここの桜はまいちゃんのために咲いてるんだから」

「ありがとう、おじさん」

 少女はにっこりと笑った。

「もう一つだけ訊いていいかい?」

「なあに?」

「その……ママのところに来るおじさんって、まいちゃんは好きかい?」

 その質問を聞いた途端、少女の笑顔は見る見るしぼんで行った。

「好きよ」

 答えた言葉は正反対の意味をもって男の耳に入って来た。

「あのおじさん、まいのパパになるかも知れないの。だから、好きにならなきゃいけないの。……でなきゃ、ママがいじめられるの」

「……そうか……」

 と、不意に少女の家の窓の灯りが消えた。それを見て男は立ち上がった。しばらくして、両手に旅行にでも行くような荷物を抱えた女が一人、アパートから出て来た。

「ママ……!」

 少女が小さく叫んだ。少女の頭に、そっと大きな手が乗せられた。少女は手の主──男を、見上げた。

「なあ、まいちゃん」

 男は少女に微笑みかけた。

「おじさん、ちょっと君のママと話がしたいんだ。いいかな?」


 女は公園の入り口で少しだけ躊躇した。この中に足を踏み入れるのは、正直ためらわれた。だが、ここで待っているという約束だ。行かなければならない。

「もっとこっちへ来たらどうだ」

 いきなりかけられた声に、女ははっとしてそちらを見た。公園の奥、桜の樹の下に、一人の背の高い男がたたずんでいる。

「な……何よ、あんた」

「花見客だよ」

 男は樹を見上げたまま答えた。

「花見ですって? 一体何言って……」

「ま、こっちへ来て見てみろよ。せっかく咲いてんだから」

 そう言って男は初めて女の方を見た。全てを見透かすような視線が、女を捕らえた。蛇に睨まれた蛙のように、女の足はすくんでいた。逃げ出したい。だが、逃げられない。

 残された道は一つしかなかった。女は震える足で男に向かって二~三歩、踏み出した。

 風が吹いた。

 女の周りを、桜の花びらが舞い散っていた。

「な……に?」

 女は呆然として、この夢幻の光景の只中に立ちすくんでいた。

 花吹雪の向こうに男が立っていた。そして、男の脚にすがりつくように。

 彼女の娘が、いた。

「舞……!?」

 女は今度こそ後ずさり、この場から逃げ出そうとした。彼女の足を止めたのは、やはり男の言葉だった。

「何処へ行くつもりだ? 自分の子供を置いて」

「どおしてよおっ! なんで舞がこんなとこにいるのよおっ!?」

「あんたが置いてったんだろ? ここへさ」

 錯乱気味の女と対照的に、男はあくまでも冷静だった。一見無造作な風に言葉を投げ付ける。

「だって……だって……舞が……あの子が、いるわけない!」

「いたんだよ。ここにずっと。あんたを待ってたんだ」

 女はきっと男を睨み据えた。

「何が目的なの?」

「何が?」

 男は飄々とその視線を受け止めた。

「とぼけないでよ! こんな妙な仕掛けまでして、そんな子供まで連れて来て! お金が欲しいの? それとも?」

 いきり立つ女を前に、男は一つ大きな息をついて見せた。

「やれやれ。そういう発想しか出来ねえか? つーか、てめえの子供くらいちゃんと判れよ」

「何ですって?」

「この子は確かにあんたの娘だよ」

 男が言い切るのを待つように、少女は小さくママ、と言った。自分の母親に。母親はその声を聞いて、へなへなとその場に座り込んだ。

「そんな……莫迦なこと……」

「たまに起こるんだよ。莫迦なこともな」

 次の瞬間、女の眼に浮かんだのは──恐怖だった。

「舞……そんなにあたしが憎いの? こんなところにいつまでもいるくらいに? いつまでも……そんなになってもあたしを苦しめるつもりなの!?」

 少女が身をすくめたのが、男には判った。落ち着かせるように少女の頭を撫でてやり、女に向かって冷ややかな憐憫の眼を向ける。

「哀れだな。そんな風にしか考えられないとは」

「何よ……あんたに何が判るってのよ!」

「子育ての苦労なんてのは判らないが、この子がここにいる理由くらいなら判るぜ。──あれを見な」

 女はのろのろと男の指し示す方に目を向けた。桜の下に。女は眼を見開いた。

 自分がいた。

 娘の手を引いて。

 舞い散る花を見上げている。

『綺麗ねえ』

 自分が言った。

 娘が自分を見上げてにっこりと笑った。

『まい、桜大好き!』

 ママが桜を好きだから、まいも桜が好き。言葉にならない、そんな声が聞こえた。ああ……いつかの春、自分はあんな風に笑っていたんだろうか? 娘もあんな嬉しそうな顔をしていたろうか?

「これがここに残っていた“想い”の全てだよ」

 男の声が遠く聞こえた。

「“想い”が残るってのは、別に恨みつらみだけじゃない。『好き』という想いがその場に染み付くことだってある。今みたいにな」

「好き……ですって?」

 女はうつろに笑った。

「……嘘よ……あたしはあの子を散々ぶったりしてたのに。だんだんエスカレートして……歯止めが利かなくなって……それなのに……」

「それでも、この子にとってあんたはたった一人の母親だったんだ」

 男は静かにそう言った。

「判らなかったのよ」

 ぽつり、と。女はつぶやいた。

「自分より弱くて、小さくて。すぐに泣くし、言うことは聞かないし。それでいて、すぐにあたしにすがって来るし。どう扱っていいのか、判らなかったのよ」

「こうすれば良かったんだ」

 男の声が正面からした。女は顔を上げた。男が娘を抱き上げているのが見えた。男はそっと娘を地面に下ろした。娘はとことこと女の目の前まで歩いて来た。女は反射的に娘を抱き締めた。確かな感触があった。

 と。

 感じた瞬間、腕の中から少女はいなくなっていた。桜の花びらが何枚か、風に吹かれて飛んで行った。

 ふと見上げると、桜はなかった。あんなに咲いていた桜の花は、何処にも残っていなかった。もはやとっくに桜の季節は過ぎているのだから、当然といえば当然だった。

 男の背の高いシルエットだけが、そこにあった。女は男に尋ねた。

「これで良かったの? こんな簡単なことで?」

「人間ってのは、往々にして至極簡単なことを忘れちまうもんさ」

 男は痛みをこらえるような表情で答えた。

「子供が親とは違う人間だってことも。自分と同じ痛みを感じるってことも。……自分と同じように愛されることを求めてるってことも」

 ああ、と喉の奥で女はうなった。

「あの子は……あんたのことを心配してたよ。あんたの男が、あんたのことをいじめるんじゃないかってさ。子供ってのは意外とよく見てる。ろくな奴じゃないって判ってたんだな」

「あなた……全部判ってるのね? 一体何者なの?」

「本当はあんたの男の方に用があったんだ。ちょっと人より目が利くもんで、見えちまった──あんたの娘が咲かせたあの桜が。それだけさ」

「それじゃ……あなた、まさか」

 男は答えなかった。女がさらに言葉をつなげようとした時、公園に一人の男が駆け込んで来た。

「美和子!」

 女ははっとして後から来た男を見た。前からいた男は表情を動かすこともなく、男の前に立ちふさがった。

「な、なんだてめえ!?」

「塚原豊だな?」

 男は着ていた背広の内ポケットから黒い手帳を取り出した。

「県警の武田だ。おまえには殺人容疑で逮捕状が出ている。……一緒に来てもらおうか」

「ちっ! サツか!」

 男は咄嗟に逃げ出そうとした。その足が止まる。公園の入り口には、丁度パトカーが止まったところだった。刑事が男に近づいた。男の手首に、ガシャリ、と手錠がかかった。

「刑事さん」

 容疑者をパトカーに連行しようとする刑事の後ろから、女が声をかけた。刑事は女を振り向いた。

「あたしも……一緒に行っていい?」

「何故?」

 判っていて訊いていることに、女は気付いていた。女は桜を指差した。

「あの下に、舞がいるの。あたしがやったのよ……殺したのも、埋めたのも。全部、あたしが」

 言い切った。

 刑事はわずかに目を細め、答えた。

「……判った。一緒に行こう」


 二人の男女をパトカーに乗せ、刑事はもう一度振り返った。

 桜が咲いていた。

 桜の下には、一人の少女。

(おじさん、ママをいじめないで)

 声ならぬ言葉で少女は言った。男は優しく微笑んだ。

(いじめないさ)

(本当に?)

(本当さ。約束する。……さあ、もう随分遅くなっちまった。子供は寝る時間だぜ?)

(約束よ?)

(約束だよ。もうお休み)

(判った。……おやすみなさい)

 桜が散った。一瞬のうちに。桜吹雪に巻かれ、少女の姿も見えなくなった。

 男は刑事の貌でパトカーに戻って行った。後ろでは容疑者の供述に基づく現場検証が始まっている。桜の樹の下の死体は、じきに地表に暴かれるだろう。

(おやすみ)

 刑事はもう一度だけ口の中で繰り返した。

 朧に霞む月の下を、パトカーは静かに走り始めた。

刑事さんの名前は、春樹(=春の樹)です。

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