平成浪曲道中記
読んで頂けたら、幸です。
1
鼻で息をしてはダメだ。鼻腔を流れる呼吸音が廊下に木霊する。また、自身の聴覚もそれに邪魔されこの静寂全てを聞き取れなくなる。だから私は顎が外れるほど大きく口を開け、気道を開き、下唇から滴る涎を無視して口呼吸で最大限に息を殺す。両手は親指の腹を耳たぶの後ろにピタリと密着させ、耳を握る様にして聴力を高め、眼球の裏側に痛みを覚えるほどに目を見開いて視界を確保し、背中を丸めて猫足立ちの歩法。リノリウムの床は上履きを履くと、べチャリ、べチャリと足音が響くため靴下で移動する。
平成三年七月十九日(金)十八時七分。
日没=十八時五十六分。
目標=O第二中学校西棟三階、三年C組。
目的=自身のノートの回収。
明日から夏休みの終業式を終えた、誰もいない校舎に忍び込んだエイリアンが今の私だ。なぜこのような事をしているのか?正面から堂々とまだ居残っているであろう先生や用務員のおじさんに「忘れ物したので取りに来ました」と一声掛ければ済む話。安易な出来心だった。自宅から正門まで回る手間を惜しんだのと、西棟に面した駅から伸びる寂れ始めた商店街に私以外誰もいなかった事。学校を取り囲むフェンンスを楽々と乗り越えられる身体能力があり、一度試してみたかった事。西棟の裏手にある下駄箱に続くガラス張りの外扉が開いていた事。そして、義務教育の子供対大人の見つかった時点で即アウトとなるリアル鬼ごっこ。その疚しいスリルが脳裏を過ぎった結果だった。
今、コの字型に上がっていく階段の中二階に位置する踊り場で、人の気配を探る事に全神経を傾けている私。どこから誰が見てもぶっちぎりで変態な私。全存在を賭けて胸が震えるほど真剣に遊んでいる私。戦利品とされる目的のノートは私の恥部だ。絶対に回収して見つかるわけにはいかない。
よし、物音は一つもしてない。十二段の階段を上りきる。左手の角を曲がれば右手側に四つ教室が並んでいて、ここからだと奥から二番目が目標の教室だ。教室が並ぶ廊下を確認する為、曲がり角手前に伏し、床に右頬を擦り付けゆっくりずらしながら行く手を確認。三階は一、二階と比べて西日が強く差し込み、寂寥を纏ったシャンパンゴールドに染まる見慣れた校舎が、どこか遠い日を連想させた。ここからが一番危険だ。物音一つ無く、人の気配も感じない。そこから数秒、十数秒、数十秒、身動きせずに辺りを警戒。変わらぬ静寂。事象に変化がない事を確認した私は廊下左手側の校庭に面した窓枠、それよりも低くなる体勢で移動して、開いていた目標の教室、後ろ側の横引きのドアから入室した。
2
「今日から新しく生徒が一人ふえるぞー」と始業式から二週間程経った頃だろうか、三年C組担任の山久健一先生が朝のホームルームで唐突に切出した。何も聞かされてなかった為に教室内が俄に騒めく。
「マージかよ、ペヤング。そーゆぃーうーことは心の準備が必要だから前々から言っといてもらわないとー」と男子の高田。お笑い芸人の口調を真似て語尾を伸ばし担任をからかう。すると、クラスの数人がクスクスと笑い、ペヤングと呼ばれた山久は痒くもないであろう後ろ頭をボリボリと掻き、しかめ面をして『しょうがないなお前は』と生徒に向けて演技をする。
何処にでもある光景。何処にでもある話。ただ一点、何処にでもあまりないであろうこのクラスの『歪み』は他にある。
担任の山久は年に数回、真剣にキレる。高田を含め数人が山久をおちょくり、山久の人としての自尊心が限界に達すると、顔を真っ赤にして拳を握り締め、喉が枯れるほどの大声で「ばかやろー」やら「いい加減にしろお前ら」と狂気の沙汰と幼稚な言葉でクラスを黙らせる。要するに山久は怒る、叱る、語る、言い聞かせると言った教師が生徒に与える指導、立場や節度を保ったコミュニケーション能力が皆無の先生だった。だから「ペヤング」と揶揄されても誡める事をしないし、出来ない。先程の『しょうがないなお前は』の三文芝居の下りは生徒に対し『クラスの空気を壊さずに、寛大な先生が半分目を瞑って許してやるよ』と言う態度の表れ。もう半分は『許してやる』と言う上からの目線で教師としての立場、そして山久と言う人間の自尊心を最低限度保った態度の現れ。極力エネルギーを使わずにその場を流す譲歩の現れ。
山久先生、このクラスの何人かまでは知らないが気付いているよ。それ。
まるでライオンの周りに数十匹のハイエナが群がり、弱肉強食と言う自然の摂理が一時的に逆転して獲物を横取りされている情景。このクラスのハイエナは思春期に入った残酷な十五歳。空腹でなくても獲物を狙う。このクラスのライオンは獲物を呉れてやったと自分に嘯き、腹を鳴らして、既に四肢がない事にさえ気付いていない哀れなイミテーション。それがこのクラスの『歪み』
3
転校生は帰国子女の女子で、はるばるカナダから転校して来たとの事。家庭の事情で、もしかすると卒業まで在籍しているか判らないとの事を山下が簡潔に説明して、自己紹介を促した。彼女は黒板に『高峰流希碧』と漢字で、その下に流れるような筆記体のローマ字で書いた。
「高峰ルキアです。日本の事はあまり良く知らないですが、宜しくお願いします」と爽やかに笑顔で挨拶をした。
すると高田が突然「調子に乗ってんじゃねーよー」と語尾を伸ばした頓狂な声で釘を刺しにきた。
彼女は一瞬目を見開き、今自分に起きている状況を理解出来ていない様子だ。
私はこの時点で鼻の奥にツンとした火薬の臭いを嗅いだ。
「たーかーみーねーなーめーんーなーろーまーじーでー」ハイエナのボスが号令をかける。お笑い芸人の口調で。
すると、数匹のハイエナが笑う。それにつられて数人が笑う。彼らは高田のモノマネを笑っているのだ。けれどもそれは、高峰を馬鹿にした事に、拒んだ事に賛同したことと同義だ。
高峰もここに至り、状況を理解して真顔になり哀しげな表情へと変わり、どう対応して良いか判らずに一人クラスの前で微妙に左右に揺れている。
山久は「高田」とだけ一言発し、しかめ面をして出席名簿でシッシッと動物を追い払うような仕草をするだけ。体面を保つだけ。自分を守るだけ。
もやもやと胸の中が辛くなり、息苦しくなり、もうやめろ、もうやめろ、と祈りにも似た叫びが私の胸をつまらせて、形而上の何処か遥か彼方でチリチリと燻っている熱源を抑える事にいつのまにか必死になっていた。
高峰はそれでも何とか笑顔を作ろうとして、口だけが笑っている魂の抜けたアイドルの様な表情で必死に取り繕っているのが見て取れた。痛々しく。弱々しく。勇気を振り絞って懸命にこのクラスでのパーソナルスペースを確立する為、こちらに握手のサインを求めていた。
「マジ、ホワイトキック」高田が独白した。
ホワイトキック=しらける。
その暗語を知る数人が笑いを噛み殺した。
高峰は両手で水を掬うようにして顔を押さえて、立ったまま体をくの字形に曲げて泣いてしまった。
ー刹那ー
「先生」大きく言い放ち挙手をして山久の返答を待たずして「五、六分、時間もらいます」と有無を言わせず、私は座っていた椅子を蹴るようにして席を立ち、教壇に向かって歩いていた。
恥ずかしかった。情けなかった。このクラスの一員でいる事が。視界が微かに揺らいでいた。私は感極まって泣いていたのかも知れない。悔しくて。
高峰とのすれ違いざま彼女の肩にポンと手を置いた。掌から伝わる見た目よりも驚くほど小さくて華奢な肩が、震えているその感覚が、私の何かに拍車をかけた。
「今、笑っていたお前らぁ」教壇の前に立つ前にもう喋っていた。「全員クズだな」教壇からクラスに向き直る。「オイ、高田。お前の、うぃーとか、いよーとか、これっぽっちも面白かぁねーんだよ、ってゆーか気持ち悪りぃーんだよ」
私は勿論、高峰に特別な感情があった訳ではない。
「おっ、何だ?高田。なんか言いたそーだなぁ? 何か言ってみたらどうでちゅかぁ?」
クラスは静まり返り、高田が「早乙女、お前ー」言いかけに被せて「うるせぇぇぇ」と恫喝。
「今、笑っていた全員バカだろ、バカだな、バカなんだよ。気付いていねーバカなんだよ。じゃなかったらぁクズなんだよ」
思考より先に言葉が溢れて論理的では無い感情に任せた、浪花節的な噛みつきだった。
「この時期だぞ?こんな時期にわざわざ転校したい奴がいるか?転校生、高峰が前の学校の友達と別れを惜しまなかったと思うか?新しい土地に来て不安を感じなかったと思うか?今日家を出る時多少でも勇気を出してここまで来たのと違うのか?」
私は別に正義のヒーローになりたかった訳ではない。格好をつけたかった訳でもない。ただ、人として情けなかった。このクラスのこの『歪み』が。
「判ってたら笑えねぇんだよ、気付いたら笑えねぇんだよ。高田のくだらねーモノマネに愛想笑い振り撒いて、慎ましやかなつもりで保身気取ってるお前らに言ってんだよ。知ってるか?それ、最低の偽善者ってお前らの事を言うんだよ」
それ以降、高峰の事を受け入れるグループが出来て彼女の事を冷やかす輩はいなくなった。
4
教室に入ると多少緊張の糸がほぐれた。真っ先に自身の机に向かい目的のノートを回収した。迷わず背中のパンツの中にノートを挟みYシャツとTシャツで隠し、ベルトを締めて固定した。これで一安心。今度は緊張の糸が切れた。私にとってそれほど絶対に見つかってはならないノートだった。そんな大切なノートを何故忘れるか?自身の馬鹿さ加減にほとほと愛想を尽かす。そして気付く。学校のフェンスを乗り越えた処を見つかったのならば問題になる物の、一歩校内に入ってしまえばなんら普段と変わり無く振舞えば良かった事を。続けざまに自身にパンチ。もう、溜息しか出なかった。
誰もいないクラス。静寂。窓際の後ろから三番目の席に座った。机にうつ伏して匂いを嗅いだ。高峰の席だ。あの日から彼女の事を意識して見ていた。最初はまた誰かに虐められはしないかと目を光らせていた。次第に目で追うようになり、気付けばこの有様だ。
クラスの大半に向かって大言壮語を吐き、ぶっちぎりの変態っぷりを先程露呈し、気が付けば一人で勝手に好きになっていたり。一見したところ数学のノートに見えるこのノートも彼女への想いの丈を綴っていて・・・。自身の無意識に振り回されてばかりでコントロール出来ていない歯痒さに多少の苛立ちを感じる。
と、その時––––。
ドクンと心臓が大きく脈打った。有ってはならない物を見てしまった。もののけか?いや、有る。いや、居る。教壇の下、くり抜いてあるスペースに上履きを履いた足が二本こちらを向いている。声を掛けるか迷った挙句「そこにいるのか?誰だ?」と、どこか間抜けな質問をした。「一馬君?」と返事があり、ゴソゴソとばつが悪そうに教壇から出てきたのは高峰だった。「ルキア、何してんの?」と高峰の席に座っている私。お互い様だった。少し、取り留めのない話をして沈黙が流れた。西日は流れ続け二人の影は天井にまで達していた。圧迫感が少しもない沈黙。お互い目を離さない沈黙。お互い何を考えているかが共有された沈黙。
キスをした。離すと彼女は泣いていた。
「うれしい。でも、悲しい」そう言って彼女はクラスから出ていった。それが最後だった。ノートに挟まった彼女の手紙を見つけたのは三日後だった。
5
平成三十一年四月十九日(金)十八時七分
日没=十八時十九分
Pホテル四十九階に位置するカンファレンスルーム。少し前に商談を終えた私は西日が射し込み、シャンパンゴールドに染まったこの部屋で遠い昔を少し思い出していた。此の所のマスメディアでは十日ほど後に訪れる元号改元に伴い、平成の三十年はどうだったか?と各社独自の世論調査を発表している。ある調査では『どちらかと言えば』を含め『良い時代』が六十八パーセントに上がったらしい。大震災や新興宗教のテロ行為、認識の相違と論点をずらし、ヒラリと身を躱した体裁で形而下では同じ存在の『護衛艦』と『攻撃型空母』の件など、論えば切りが無いが、私としては良い時代だったと思っている。人生において生まれた時が出発点で、死ぬ時が終着点とするならばその道中、平成には戦争は無かった。思春期の思い煩いも平和に成った時代の上に築かれてきた。
西日に照らされ天井で動く私の影が速くなった。
「平成よ止まれ、おまえはあまりにも美しいから」そう口に出しては自分を嗤うのだった。
読了、ありがとうございました。
この作品は、「平成」をテーマにしたある文学賞に応募したものです。
なので、構成に?と思われる箇所がある事ご容赦ください。スミマセン。。
また、出逢えましたら宜しくお願いします。




