6話 感染リスク
(だ、誰だ? この子……? めちゃカワじゃんか)
1人の男子生徒の動きが止まった。トイレに向かうつもりだったが、可愛い女子から目が離れなくなった。
……その子は俯き加減で佇む、弱々しい雰囲気を纏った子だった。
(でも……なんで、男子制服?)
線の細い面持ちは、明らかな美少女。なのに、何故だか男子制服を着込んでいる。わざわざ、スラックスの裾を折り返してまで。
(……似てるし)
自身の制服と酷似している。男子制服のバリエーションの内、自分もスタンダードなタイプを選んだ。違う点はネクタイくらいだ。
その理由は、たまたま背後で話していた女子2名が教えてくれた。
「ねぇねぇ? もしかして、あの人が例の……」
「たぶん。隣り歩いてるの、松元さんだし」
耳に入ったと言うほうが正確かもしれない。どちらにせよ、それは彼にとって十分な情報量だった。
(アレか!? アレが噂の!?)
B組の可愛い松元さんが関わった活動は有名であり、2年生どころか、全校生徒が知っている。一時期、松元 未貴は毎朝、毎放課後と声を枯らして、署名を呼び掛けていた。
だから、目の前の儚げな彼女が元男子であり、当時の制服を着ているのだと察することが出来た。
一歩踏み出す。
今日から復学? 頑張れよな! ……などと声を掛けるべく、もう一歩踏み締め、軽く手でも挙げようとした瞬間だった。
「……智? 戻ろっ?」
隣りの『松元さん』が、例の生徒の手を取り、背中を向けて遠ざかっていく。
(……タイミングわる……)
声を掛けたかったのに。
儚げな外見に見合った、その表情を和らげてあげたかったのに。
挙げかけた右手の所在がなくなり、意味すら失った手に目を落とした。
(あーあ。俺、何してんだ)
手持ち無沙汰に耳の裏を掻き、ふと周りを見ると、彼と同様に2人の後ろ姿を見送る多数の姿。
(すっげー見られてんじゃん……)
人の振り見て、初めて気が付いた。
(あ! 俺もやっちまってんじゃん!)
この男子は2人の思い詰めたような顔を思い出し、後悔を生じた。
そっと通り過ぎてあげるべきだった……と。ジロジロ見る目を嫌ったのだ……と。
他者の立場になって考えられる彼は、良い奴なのだろう。
それから10分ほど後。
「と、智……? 気にしちゃダメだからね?」
既に6時間目の始業のチャイムは鳴り終わっている。
閑散とした廊下を歩いているのは、5時間目修了前にお手洗いへと出発したはずの智と未貴の2人だ。
「……うん」
暗く重たい声と共に頷いた彼氏を恐る恐る横目で確認すると、予想通りの暗い顔をしていた。
教室から離れた教職員トイレ。
そこまで行き、用を足したのはいいが、戻れなくなった。
道行く生徒の視線が集中し、足が止まってしまった智の手を引き、もう1度、先程のトイレに誘った。そこで小休憩の時間をやり過ごした。
それくらいしか未貴は思い付かなかったのである。
(みんな、あんなに見なくてもいいのに……)
未貴は掛けるべき言葉を検索中だ。平均を少々下回った成績の脳をフル回転させ、適切な文字を探索していく。
(あれはあたしでもきついよ……)
とにかく見られた。
不躾に観察された。よい雰囲気で終わった5時間目のお陰で、トイレに向かう時には足取り軽やかだった智が止まってしまうほどに。
(慣れる……しかないのかな……?)
まさかの前途多難ぶりに、未貴の小柄な体が余計に小さく見える有り様だった。
結局、2年B組に戻るまで気の利いた励ましなど彼女には思い付かなかった。
◇
智は重くなった足を引きずるように、彼女と肩を並べて静かな廊下をゆっくりと進んでいく。
本当に肩を並べるサイズへと縮小してしまった。
ほんの1年前は、未貴を見下ろしていたのに。
だが、今はそんなことを気に掛ける余裕など見られない。盛大にネガティブな思考に振れている。
(わかってた……)
智は覚悟を未貴と同等レベルの小さな胸に秘め、この日、復学したはずだった。
(なのに……)
いざ、そんな目を見たとき、足が竦んで動けなくなった。いや、動かなくなってしまった。
彼女は精神的に脆くなってしまっており、それがはっきりと表に出てしまった。
(やっぱり……)
良からぬ思考に支配されているようだ。
その先にあるのは、おそらく退学のふた文字だろう。
俯きがちな視界の端に、小柄で愛らしい未貴の姿が入った。
(未貴……。大起……)
未貴と大起。2人が何をしてくれたのか、鮮明に思い出した。
(純……!)
同時に発端となった少年、幼馴染みの姿を。
(負けてたまるかっ……!!)
秘めていた決意を蘇らせた智は、【2-B】の表札を睨むと、迷わずそのスライドドアを横に滑らせた。
◇
「あ! うめは……じゃなくて、智、ちゃん! 未貴! 心配したんだよ!」
開いたドアのご近所らしい、セミロングの少女が心からとも思える声を上げた。頑張って『智ちゃん』呼びも実行していた。
「一体、どうしたん?」
「そだよー。すぐ、お手洗い行ったはずなのに」
「先生が大人しく待ってろって言うから「はーい! 無事に戻ってきたからおしまいね」
2人を責める声は笹木によって、封じられた。
特別な意図はないだろう。このままでは2人は立ったままになる上、話も進まない。
(『探しに……』って声は封殺したし……? なんでだ……?)
例によってスマホを隠しながら深読みしようとしてる奴が居るが、単なる考えすぎだろう。
「梅原さんは、櫻塚くん……は、分かるわよね? 彼の隣りの席に」
「はい」
急に名前の挙がった純は見てしまった。
そう言われた瞬間、嬉しげに綻ろばせ、歩き始めた智の顔を。
ちっ……と、どこかで舌打ちが聞こえたが、既に智のことが気になり始めた男子からのものだろう。他の生徒たちは、純とは違ってしっかりと顔を上げている。たまたまではなく、普通に智の笑みを目にした。
暗い表情やら不安な表情ばかり見せていた少女が見せた柔らかな笑み。その対象になっている変な奴へのやっかみだ。
智の席が隣になった件については……。当たり前だ。そこしか空席がなかった。なので、純くんもそこは理解している。
「純……。よろしく……」
小さく発した智だが、タイミングが悪い。
何名かの男子生徒が純に向けて、敵意を持った目を向けたのだが、その時にはもうスマホを手元で操作中。純は当然、智もその手元を見ており、気付かなかった。
「それじゃあ、質問を受け付けましょうか」
教室中央付近の未貴は先に。遅れて智が着席すると、早速とばかりに笹木が切り出した。
手は早々に挙がった。5時間目、質問をぶった切られた純の手が。
「はい、櫻塚くん」
指名された純は、机の中のいつもの場所にスマホを置くと、立ち上がった。
「座ったままでいいですよ?」
「あ、はーい……」
くすくす聞こえる何人かの笑声に、少しムッとしながら座ると、ようやくしたかった質問を始めた。
「成人の保有率が20%で子どもが15%ってことは、感染するってことですよね? 大丈夫ですか?」
隣りの智ではなく、教卓に立つ笹木に向けて話した。
踏み込んだ質問だ。
純はこの質問を放つことにより、智を過保護に守ろうとする連中を少しでも剥がしておきたいのだ。
これから先、智への復讐を容易くする為に。
ツイ……と、純の目が、担任から隣りに座る智へと視線を移動させた。その目は鋭く、智を横目に捉えている……が、智は担任をジッと注視している。
「櫻塚くん、ありがとう」
その感謝の意に思わず、笹木に目を戻すと笑いかけられた。
「言い辛い質問ですね。最後まで出て来なかったら、私からしっかりと説明しないと……と、考えていました。櫻塚くんの指摘通り、梅原さんの持つウィルスは感染します」
大半が知っているであろう情報だが、何も調べていなかった数人の生徒が「え?」「……大丈夫なん? それ……」などとざわめく。これらを無視し、続けた。
「ですが、その感染経路は濃密接触に限定されます。粘膜接触……ですね。飛沫感染などの危険度は零に近いものです。非常に弱いウィルスであり、空気に触れるだけで大半が、死滅してしまうほどですので。だから通常、感染は考えられません」
心強い安心宣言に、教室は静寂を取り戻した……が、これに更なる追い打ちを掛ける。
「万が一、感染したとしても梅原さんが教えてくれた通り、発症は数百万人に一人。有り得ない……とまでは言えませんが、リスクを考慮する必要がないと謂えるレベルです」
純は不満そうだ。これじゃあ、誰も智から離れないじゃないか……と、思っている。
笹木の説明は、理路整然としており、何とも理解し易かった。これでは純が考える通り、誰も智から離れないだろう。
もう十分だ。そんなレベルまで引き上げられた安全安心だったが、笹木は教室内をゆっくりと見回す。生徒1人1人と目を合わせていく。
「それに……。この教室にもASCSウィルスキャリアは何名か居るはずなんですよ? 小児……子どもの保有率は15%ですので、この教室28名の内、4名くらいはキャリアである計算になります」
見事だった。これで智を避ける必要が完全に消え去ってしまった。
……と言うか、純の立場を考えると、そもそも智に近い側の人間だ。その外殻になりそうなクラスメイトを離れさせることに余り意味が感じられない。
(……なんか、フォローした気がする)
……気のせいではない。
サッカーで喩えると、笹木先生へのキラーパスを純は放った。それを確実にゴールに繋げただけの話である。
(もっと、色々考えときゃ良かった。反省。今晩、しっかり作戦立てよ……)
もちろん、純のことだ。
『ゲームをしながら』である。