5話 呼び方問題
ほんのりとピンクが主張する空間で、両者は向かい合っている。
物理的にピンク色だ。脳内が染まっている訳ではない。
「あの……。未貴? 一緒に入られると困るんだけど……」
「え? でもあたしも緊張解けたばっかりでちょっとピンチ」
トイレ内での会話だ。
元男子として、彼女の隣りのトイレで用を足しにくい智。
同じ女子となった以上、気にしていないのか、ピンチとまで易々と話してしまった両名の間には厚い壁が存在している。
「ご、ごめん! 入るよ!」
慌てて智が個室に入っていった。
我慢が続かないのだ。男女の差異、尿道の長さの違いに、感覚が狂っていることを未貴は知らない。
「……あたしもピンチなんだってば」
智が入っていった横の空間へと、未貴も突入を果たす。
……結局、お隣同士でそれぞれお花を摘む2人なのだった。
◇
「ちょっとぉ……。梅原……くん? 可愛すぎだよぉー」
「わかる! わかるよ!」
「その呼び方に迷うところもわかるぞ」
「本人的にどっちがいいんでしょうね?」
「女子になったんだからやっぱり『くん』は嫌なんじゃない?」
「でも、男子制服着てるしぃ? だったら『さん』とかー?」
「あんまし、女子に見られたくないってことか?」
「うーむ。複雑なのは分かるんだけどねー」
「でも梅原さん本人が女子って言ってたよぉー?」
「思い切って『智ちゃん』でいいんじゃない?」
「それは未貴が怒りそうですね」
「わかるー!」
現在、笹木先生も辞した後。
本来の小休憩に入った時間でもある。
中央付近、未貴の空になっている席の周りに集まった女子が、いつものように騒いでいる。
未貴不在でもここで駄弁っているのは習慣めいた何かだろう。未貴が愛されキャラであり、普段から未貴の席付近に大半が集合しているのだ。
「あぁん。いったい、どうしたらいいのー?」
「同じく分からない」
女子の皆さまを中心に据え、男子たちの多くは小規模グループに分かれている。その問答に聞き耳こそ立ててはいるが、目線は別の場所だったりする。
ジロジロと見ていると、その対象から顰蹙を買ってしまうかもしれない……と。女子に悪く思われたくないという本能。基本的にそれが男子には存在しているのだ。
(不毛なお題だね)
聞き耳を立てているのは、スマホをいじり回す純も例外ではない……が、アンテナを張っていると言うよりは、女子たちの声が大きく、耳に入ってきてしまう側面もある。
(そんなん、本人に聞けばいいだろ?)
そうは思ってみても純は、忠告を発さない。進言しない。
いつもそこだけが時間が止まったように動かない。2年生に進級して以降、積極的な言動が見られたのは、梅原 智に関してのみ。先程の5時間目で初めて見せただけなほどだ。
「あ……。そうだ」
「ん? 未貴に聞くのか?」
「それじゃ本人の前になっちゃう」
「そうじゃなくて……。居るよね? このクラスに。梅原……くんの幼馴染」
(……俺? 嫌だ。来んなよー。うるさいし……)
純くんの思い虚しく、ポニーテールの少女が黒、グレー、ダークグレーのモダンなチェックのスカートを翻し、甘い香りを散らしつつ移動を始める。先頭の言い出したその子の揺れる尻尾を追い掛けるように2名の女子も動き出す。
「大丈夫かなー?」「ま、スルーされても被害ないし……」と声を潜めて追従した形だ。
この声を潜めた小さな会話は、純くんのクラス内に於ける立ち位置を正確に捉えているものと言えるだろう。
そして、そこだけ切り離したように静かな世界へ。
スマホの液晶画面の上で指を蠢かせてているだけの彼の元に。純の指は画面上、スワイプもフリックもしていない。タップ中心である。これはPC専用のオンラインゲームをスマホに乗せているから……だが、全く関係ない話だ。
指先だけが同一の時間軸上であるような純に、ロングの少女は「ねぇ?」と、切り出した。
「………………」
無論、反応なし。操作する手を緩めなどしない。これこそが人よりもスマホを愛すると陰で囁かれる由縁だ。
「櫻塚くん?」
後ろに手を組み、顔を覗き込むように身を屈めた。弾みで長い尻尾が前方へと流れ落ち、純の机に毛先が触れる。
……彼女を持たない男子にとっては、羨ましすぎる光景だろう。現に、教室内の目の多くがポニテ少女とスマホ少年に向けられている。
「…………」
それでも動かない。視界の端には間違いなく入っている自信があるのに。
「「………………」」
純の席を訪ねた女子3名の内、ポニテ以外の2名は、さすがに閉口してしまったらしい。ちょっぴりムッとしている……が、純に絡みに行ったほうが悪い。自己責任。これがこの教室での認識だ。
そんな時だった。未貴の席の1つ後ろ。クラス委員長の菊地原さんが誰かに知らせるように、わざわざ大きな声を発した。始業終業の号令よりもしっかりした音量だった。
「あ! 智くん、おかえりなさい!!」
みーんな見た。委員長さん以外。
智と未貴が出て行った教室前方のドアを。
「ほら、リム? 櫻塚、顔上げたよ?」
(あ……)
「「あ」」「あ」
純くんに近付いた3名の女声は揃わなかったが、純の内心同様、『あ』としか、言葉を発しなかった。けれど、その連発された『あ』が純の顔を引き上げた。フツメンややイケメンより。至って平凡なセンター分けさえ何とかすれば、磨かれそうな顔立ちの少年だ。
(ちっくしょーー!!! 菊地原ぁぁ!!)
心の中で悪態を吐いていても、表情には出さない。植物のように、平穏、平凡に生き抜くつもりの純にとっては、敵など不要だ。攻撃目標以外には、何一つ干渉しない……予定だった。
「櫻塚くん? ちょっと質問!」
ポニテの『リム』と呼ばれた子がズズイと顔を近付けてきた。
これではもう通用しない。自分の世界に入っているので、何も見えません聞こえません作戦が。
「……なに?」
「初めて私たちの声「しっ……!」
ポニテ少女・リムの背後。何気に可愛いセミロング少女が思ったままを口にしようとしたが、お下げの子に止められた。きっと、折角こいつが反応したのに、むくれてしまったら台無し、とでも思っているのだろう。下手すりゃキレるとまで思われているかもしれない。
キレるような少年ではないのだが、如何せん言葉を発しない純は理解されていない。
「梅原……さんって、どう呼べばいいと思う? なんか難しくって」
「……好きに」
そこで止まった。何も、どもってしまった訳ではない。女子と話せないタイプと言う訳ではない。自信がないのだ。
逆に言えば、長く話そうと思うと、話題に事欠く自信しかない。
……それどころか、久々に女子と話す今回。ちょっとだけ嬉しかったりするのは内緒だ。
「んー?」
純の表情に変化が見られた。
ちょっぴり考え中。その証拠に少し、頭が傾いた。俗に言う、小首を傾げるという動作だ。残念ながら可愛くはない。
女子3名、顔を見合わせる。
純がスマホを操る手を止めたことが異例だ。それどころか、相談に乗ってくれるなどとは毛の先ほども思っていなかった。
当たって砕けろ。損はしないし。
ポニテ少女は、こんな気持ちだった。
「……梅原 智は、智也から、也を消した。これは、女子として過ごす覚悟を示している……よね?」
「……そだね。たぶん」
リムの顔に真剣味が差した。
以前、純の言葉は学校さえも動かした。無口の変人だが、彼の言葉には力が宿っている……とでも、思われている。
「じゃあさ、それなら『くん』は問題外だよね?」
純は、同意を求めるように問い掛ける方式を取っている。
「そうなるね」
これは作戦だ。純は『智をいじり倒す』為、今しがた思い付いた第二弾を決行中だ。
「名字呼びも、わざわざその覚悟を隠すような……。だとしたら……?」
「智ちゃん!」
ビシッと指を差すと、はしゃぐ犬の尻尾のようにポニーテールが揺れた。
「それだ!」
「さすがだよー! 櫻塚くんだねー!」
女子3名がキャッキャと喜んでいる。何気にちょっと照れている純くんだ。顔には出していないが、少しだけ赤い。
教室中央に駐留していた女子たちも、口々に『智ちゃん』と口ずさんでいる。
「ありがとう!!」
「けってーい!」
「ホント! 女子みんな統一ね!」
勢い良く振り返り、スカートがヒラリと靡いた。そのままパタパタと自分たちのポジションに戻っていく女子たち。香りまで、窓際最後列の周囲に残していったかのようだった。
女子たちに喜ばれ、お礼を言われた純くんも本心ではまんざらでもない。
だが、それを感じさせない動きで、いつもの下向きスタイルへと戻っていった。
(智! これで女子に『ちゃん付け』されるって! どんな顔するんだ!? こりゃ楽しみだー!)
実に下らない。
積年の恨みを晴らすとは言っても、退学させる気などない。それだと寝覚めが悪い。自分にも精神的ダメージをしばらくの間、残してしまう。だから留年阻止に動いた。
あくまで智の羞恥心を煽り続けること。
屈辱を与えること。
……これが現時点での目標だ。実に大きな目標である。
「珍しいね」
女子3名と入れ替わるように純に近付いた人物は、竹葉 大起だった。
「………………」
彼は……。彼だけは、智の休学中も時々、こうやって純に話し掛けに来ていた。
しかし、また純は見えない聞こえない世界に没入してしまったらしい。
「……智の為かな? やっぱり幼馴染みは違うね」
大起は微笑みを絶やさない。男子相手だろうと女子相手だろうと、こうやって対応している。競争に何も見出せなかったと言うとおり、良い奴すぎるのだろう。
(そんなんじゃねーけど)
純は聞いている。聞こえない風を装っているだけだ。
それがフリなのは周知の事実だが、当の本人は巧くいっていると思っている。
「ちょっと……妬けるね」
(……はい!? お前……。智って男だったんだぞ!?)
『妬ける』の対象は何も男女の関係に関してだけではない。友人関係でも成立してしまう。圧倒的コミュニケーション不足が災いしているのか、勘違いしているらしい。
「純に任せたら……」
(純って呼ぶな。何人たりとも呼ぶな)
思っていても言わない。口に出さねば、ほとんどの場合、その思いは通らない。なので、この大起は『純』と呼ぶ。智也が呼んでいたので、そのまま受け継いでいる。
「まぁ、いいや」
(途中でやめるなよ!)
大起の言わんとした『全てが上手く行くのかも』は、純には捉えられなかった。
もしもこの時、彼の思考を読み取ろうとしていたならば、戦略を練り直していたことだろう。
「男子も『智ちゃん』でいい?」
大起のこの言葉に教室外周からざわめきが巻き起こる。
変人だけども大した奴、……と認識されている純くんに話し掛けるヤツが出現すると、大勢が耳を傾けるのだ。
「……いいんじゃね?」
母音、『お』の形になった。大起の口が。
下を向いたままだが、確かに純が返答した。明日は雨かな、それとも嵐? ……くらいに思っている。
「……ありがと。じゃあそうするよ」
礼を告げるなり、大起は自分の席に戻っていった。
誰に伝える訳でもなく。そんな必要もなく、誰もが聞いていたと確信でもしているのだろう。
(男まで智ちゃんっ……! これは面白くなってきたぞ……!)
俯いているからこそ余り見えないが、この時の純くんはニヤニヤと気持ち悪かったことだろう。