1話 復学直前
「あの……?」
清涼感を感じさせる澄み渡った声だった。
涼やかな声音でおずおずと問いかけられた背筋の伸びた男性は、少女に目を向け、相好を崩した。
そこに在ったものは、手元にある1年ほど前の写真とはまるで違う、自信の無さそうな瞳を潤ませた可愛らしくも弱々しい少女だ。
そんな少女が男の庇護欲を満たしてしまったのだろう。
初老の男性は長身だった。
この校長室に迎え入れられた時、少女が見上げざるを得なかったほどだ。頭1つ分の差を実感し、思わず半歩ほど余計に距離を取ってしまった。
目上に対して失礼な行動を取ってしまったと、少女は気に病んだが、何も気にしていないのか、そもそも気付かなかったのか、ごく優しく接してくれている。
「何かな?」
これまで話したことなどなかった。
檀上で話す姿は見たが、ここまで高身長とは思わなかった。
私立緑進高等学校・学校長。
そんな肩書きを持つ雲の上の存在……と言えば、言い過ぎかもしれないが、こうやって直接話す機会がある相手とは思っていなかった。
目の前には学年主任。右斜め前方には校長先生。そして右には母。
向かい合わせに設置されている、まだそれなりに新しいソファーに腰掛け、対峙している。
……いったい、何をしでかしたのか?
一見、そんな感想を貰いそうな構図だが、厳めしい雰囲気など微塵も感じさせない。
少女が声を発するまでは、単なる説明に終始していた。
その対話の内容は、復学に際した注意事項。
まとめてしまえば、『何も心配は要らない。学校は君の味方だ』と言われただけのことだった。
「本当にありがとうございます」
浅く、ちょんと座っていたソファーから立ち上がり、深く頭を下げた。すると弾みで耳に掛かるほどの栗色の髪がさらりと流れる。
母親も娘に倣い、腰を上げ、「本当に何とお礼を申し上げれば良いのか……」と深く頭を垂れた。
「頭を上げて下さい。そうですねぇ。お礼は私どもではなく、クラスメイトたちにしてあげて下さい。あの活動がなければ、我々は君に留年を通知していたので」
応えたのは校長ではなく、学年主任だった。
頭頂部が薄くなってきており、同じように頭を下げれば目立つだろう。印象がそこに集中しているかのような中年男性だ……が、そのせいで頭を下げ返さなかった訳ではない。
「……そうですね。留年すればどうなるのか……。気付かせてくれた櫻塚くんには学校として感謝しています」
校長の口から聞かれたその名前に、少女の頬が緩んだ。
これがおよそ10ヶ月ぶりに学校に来て、初めて見せた小さな笑みだ。
これまで少女は緊張を身に纏っていた。1つ1つの動作がぎこちなく、凝り固まっていた。潤んでいた瞳もこれに付随するものだったのだろう。
それも事情を鑑みるとやむを得ないと思う。
この少女に留年を通知していれば、もれなく退学していたと今は判断している。眼前の少女は、そこまでの状況に追い込まれていた。
現に少女の服装には、今でも迷いが感じられる。
制服は指定された中ではあるが、自由度が高い。その中、少女は少女らしからぬ格好を選んでいるのだ。
「あぁ、まもなく指定の時間ですね。そろそろ参りましょうか?」
「……こ、校長……?」
初老の校長先生がソファーから、年齢に見合わぬ身軽な動作で立ち上がった。そのまま、身を翻すとソファーの後ろをドアに向けて進んでいく。
……すると、折角、緩まった緊張が甦ってしまったらしく、少女の柔らかな頬が強張った。
「あの……! 宜しくお願いします!」
母が再び、深く……。先程よりも深く、腰を折った。
「お任せ下さい」
1度、立ち止まった校長は、母親にとって頼もしい言葉を発すると、再び扉に向けて歩き始めた。
自ら教室へと少女を連れていくらしい校長の背中をスラックス……、男子制服を着た男装の美少女が母を押し退けると、短めの髪を跳ね上げ、小走りで追いかけていった。
「……想定外」
学年主任の呟きは、母親の耳には幸いにも入らなかった。
◇
開け放たれた窓から入る、まだそれなりに涼しい風が窓際席の生徒たちの髪を揺らしている。
勉学に励む者たちの心を落ち着かせようとしているかのような、教室から見える広葉樹は青く見事に生い茂っている。
ほんの1ヶ月とちょっと後には、この爽やかな気候は過ぎ去り、鬱陶しい梅雨へ突入することだろう。
そんな爽やかな晴天の下、ある教室だけが少々おかしな事態に陥っている。
現在は5時間目。2時間連結のLHRの真っ只中だったはずだ。
他クラスでは、今頃、修学旅行について時間が割かれているだろう。
ところがこの2年B組だけは自由時間だ。
もちろん2-Bのみ修学旅行なし……な訳ではない。
この2-Bには、この日、ある奇病により10ヶ月近い休学を余儀なくされていた生徒が復学を果たす。
しかしながら、その生徒は混乱を回避する為、この5時間目と云う遅い時間の登校すら遅れてくると言うのだ。
要するにその生徒を待つ為だけに、現行、自由時間となってしまっている。
(もうさ。どうでもいいから早くしてよ……)
教室中央付近には、色とりどりの華やかな女子たちが陣取っている。
デザイン自体は統一されている色違いのセーラー服。デザインそのものが何種類かあるであろうブレザー。セーラー服とブレザーを融合させたような制服も見られる。
胸元もリボンやらネクタイやら色も形も様々だ。スカートまで黒やら紺やらチェックやら入り混じっている。
制服の選べる私立高校として、生まれ変わって久しい。パーツとアイテムの組み合わせは実に数万通りに及ぶと言う。
そんな女子たちを教室の中心に据え、外堀を埋めるように小グループで点在する男子たちの制服もまた、組み合わせにより数千通りになるらしい……が、華やかさでは女子の圧勝だ。それを象徴するかのように男子の視線の多くは女子たちに注がれている。
(用意周到だことで)
思い思いに席を立ち、語り合う生徒たちの中、窓際最後方と云う最高のポジションを確保している男子が異彩を放っている。
机と椅子の距離を広めに取っており、顔向きは思い切り下へ。
教師から見えないように机の陰でスマホをいじり回しているのだ。無論、校則違反である。
……当然、気付かない先生など居ないだろうが、彼は人畜無害な存在だと認識されている。
特に授業を妨害するでもなく、他の生徒から見えないようコソコソとスマホ遊びに興じるだけ。それでいてそれなりの成績を維持している。つまり、特別、害を及ぼす訳でもないので、放置されているのが実情だ。その影響か、隣の席は空席だ。ただただスマホで遊びに興じる奴が隣に座っていたら、気になる。間違いなく。
彼の名は、櫻塚 純。
何を隠そう、本日復学する生徒が留年の危機に陥った際、学校の判断を不服とし、真っ先に異を唱えた張本人だったりする。
そんな彼の感じた用意周到。
留年を突き付けた当時とは異なり、現在、学校は復学する生徒の為、全力を投じている。彼女の復帰自体が奇跡的な出来事であり、これを純の切なる訴えにより理解した。
彼が無事に卒業した時、良い宣伝になる……と。
「あはは! 結局は未貴のせいなんじゃん!」
「で、でもあたしだって!」
本日の復帰が5時間目となったのは学校側の配慮だ。彼の帰還は混乱を招く。なので、午後からの重役出勤を認めた……どころか、勧めた。
「解ってるって! 愛しの彼氏だもんね!」
「一生懸命、宣伝してたもんね。普通に迎え入れてあげて! ……って、めちゃマジな顔してさー」
「「「あははは!!」」」
ところが、この女子の話題の中心となっている未貴と呼ばれる少女が、散々、情報をリークしてしまった。なので5時間目の途中から……と、急遽、時間をずらしたのである。
(これも計算通りなんだろうけど)
純は思う。
昼休憩時、教室内は異様な空気に包まれていた。
声高に『自然に迎えてあげて』と主張する未貴の想いに反して、緊張感を隠せない生徒が多数、発生してしまったのである。
これまでの未貴たちの努力を見ていたからこそ、そんな雰囲気に包まれた。釘を刺されれば刺されるだけ、重圧となってしまったのだろう。
これを今は教壇から降り、窓枠にもたれ掛かったベテラン女教師が変えた。
目尻に皺を蓄えた、如何にも温和そうな先生だ。それでいて、1つに束ねられた黒髪と、ビシッと決まったスーツ姿が生真面目さを演出している。
『皆さんお待ちかねの梅原さんですけど、誰かさんが今日、復学だって言い触らしちゃってるから普通に登校できなくって、もう少し後の到着となります。教室に来るのは、それより更に遅れると思いますよ?』
誰かさんと言いつつ、微笑みを湛えて、ショートカットで白セーラー服の子供っぽい印象な未貴をしっかりと見据えていた。
『気合い入っているのはいいんですけど、ここまで学校中に知れ渡っちゃったら……ね?』
こうして遅刻の元凶であり、ムードメーカーでもある未貴をいじることで教室内の重苦しい空気を払ってしまった。
(大したセンセだね)
純はチラリと視線を上げた。瞬間、腕を組み楽しげに微笑む先生と視線がぶつかり、慌てて隠しスマホへと目を戻す。
どう考えても見られていた。自分の動きを観察されていた。
(あー。もう。このセンセを担任に置いたんも計算通りって?)
その通りであろう。
このクラスは、作為的に手を加えられていると実しやかに噂されている。
現に最初に声を上げた純はもちろん、署名活動に全力を尽くし、本日まで暴走気味に突っ走った未貴も、復帰する梅原くんの親友と公言を憚らない男子生徒もこのクラス内だ。彼も署名を集める際には奔走しており、この両名への助力を惜しまなかった賛同者たちも同じ教室内である。
最早、どう取り繕っても偶然では済まないレベルだ。復学する生徒を暖かく向かい入れるべく施された措置と考えて然るべきである。
(ったく! いつまで焦らすんだ!)
教室をグルリと見回した。
純の気がここまで他に向かう姿を見せること自体、珍しい。
彼は、とあるオンラインゲームの上位ランカーであり、延々と飽きもせずプレイしているのだ。その時の彼には、誰が話し掛けても反応することはない。なのに、授業中の指名などに答えられるのは、純が意図的に無視を決め込んでいるからなのだろう。
そんな調子だから、誰もが一目置く行動を取ったことにより、『大したヤツ』と思われつつもボッチだ。他人に興味を示さない変人。そんな外野の声さえ、スルーしている。
そして囁かれ始めた『あいつは人よりもスマホを愛している』と言う陰口は、彼にとっての褒め言葉なのだろう。
(あっ……! ミスった! やばい!)
イライラが純の手元を狂わせた。飛び出して配置してしまったキャラに、情け容赦ない敵の波状攻撃。可愛らしいロリ的キャラのライフゲージが見る見るうちに減少していく。
(やばい! 撤退! 頼む! 成功して!)
祈りを籠めてタップしたが、【MISS】と無情の文字が躍った。哀れ、ショートカットのちびっ子は敵の攻撃に耐えきれず、【もっとマスターと一緒に戦いたかったです……】と最期のひと言を残し、画面上から消滅した。
(………………)
彼のプレイするゲームは、元々、PC用のオンラインゲームであり、なかなかシビアなものだ。
設定すれば、【これでよろしいですか?】と確認のメッセージが流れるが、純の場合、時間的な遅延を嫌い、短縮を図っているのだ。よって、ターンのラストは細心の注意を払ってプレイしていた。スマホでプレイする為に、わざわざ手を加えてまで。
(くっそ……)
このミスにより、育成中のロリキャラは消滅した。
やり直しだ。またキャラの獲得から始め、育成を施さねばならない。時間にして、10時間以上の喪失。
彼の思う最強デッキ構築への道は遠のいた。
(許さんぞ……。これも全部、智の……。いや、梅原のせいだ!)
櫻塚 純は、何気にひねくれ者だったりする。
周囲の人間の思っているような大物ではない。
ただ単に、積年の恨みを晴らさんと、梅原 智の留年を阻止したのだ。
男子高校生から女子高校生へと変貌してしまった。
そんな智の事情など顧みず。