Ⅱ《電子生存》(5)
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ふと、思い出すコトを意識する。だが封じられているようで何故か思い出せない。ソラ高く続く壁に阻まれつつ、足元の崩れた僅かな隙間から光が漏れ出すような、そんな感覚だった。私は一体、アリス・ロードスとは何者なのだ?
陸軍に入隊後、直ちに特殊作戦部第九課、通称“ナインボール”に配属。暗殺、潜伏、強襲、何でもやった。道なき道のぬかるんだジャングルを数日這って移動し、ヘリからのファストロープ、HAHO、HALO、水中からの進入、当たり前だが重量のある装備を抱えての行進。こればかりは何時の時代も変わらない。違法駐車されている一般人の車をロックピック、それを盗み、軍の強硬派と癒着する産業界の大物を取る。おおよそ想定されうる全ての作戦を網羅したといっても過言ではないだろう。国に対するあらゆる障害を排除する為、ナインボールにはそれらを可能とする装備と人材が揃えられていた。無論、求められる事は全てこなしたし、失敗の二文字など頭中にない。それどころか可能性として完全に排除しなければならない事項だった。いい同僚たちだった。バディに求める事といえば絶対に死なない事、そして迷惑をかけないことだけ。男女も年齢も関係なく、ただ単純に技能だけを求める。だから私もそうしたのだ。お陰で一人、意気地なしが死んだ。
休暇などなく、移動、作戦、移動、訓練、作戦…そういった日々を二年ほど繰り返す。時間という感覚を陽の出入りだけで認識するようになった頃、急な転属命令が下されたのだ。配属先は情報軍。スリーパーとして敵地に潜入し情報を味方に送信し続ける諜報員の任を背に敵地、アーレイへと降り立った。今回は孤独だった。一緒に任務を行ってくれる頼もしい相棒はいない。拠点としたのは郊外にある、街と空軍基地を見下ろすことが可能な小高い丘の小さな集落だ。同国ながら遥か彼方の地からやって来たという設定を被り、隣人とも上手く付き合いながら航空機の運用状況や無線等を解析し続ける。語学に達者な私にとってそれはあくまで日常の一幕に過ぎなかった。最前線という訳ではなかったが、援護機などが離陸するデータは威力偵察のデータと紐づけられることで情報軍に非常に有意義な結果をもたらしたと帰還後に聞かされている。数か月の任務も無事に終了し現地協力員の手助けもあって脱出。しかし短い休暇もなく更なる転属命令が重なる。
身体能力と電子機器を扱う能力が評価され、戦術航空軍の最重要にして最高機密の塊、何もかもが軍全体の中でもトップに位置する第二四航空師団第九飛行部隊、通称アセンダンシィへと渡り歩いた。試験でも極めて良好な成績を残し、その任務性と運用する機体の殺人的な運動性能、様々な要因が重なる事で乗員に強大すぎるプレッシャーを与え、棺桶の死人と揶揄される後席搭乗員の資格を得た私は、同隊の九番機、機体固有愛称タリオニスの失われて以降は延々と定まらなかったECOに着任した。FCOのハルオミ・シマ大尉は人格面がやや特徴的だが機を操るその腕は確かで、尉官ながら同隊の出撃スケジュールや運用計画にも関わる実質的には佐官クラスの中心人物だった。遥か彼方の東方の黄金の国、ジパング出身だという彼は身長が2メートルもあるような巨漢ではなく、豪放で愉快な性格でもなかった。
排他的かつニヒル、自己中心主義かつ利他主義で目的の為なら取りうる手段を最大限に活用する現実主義者であり、それは機上でも存分に発揮された。戦い、勝利し、帰還する。その目的を果たす為にタリオニスを寸分の狂いもなく飛翔させる。その一方でこの男は人情家でもあった。上官と部下の組み合わせだが、それ以上に私を信用し、報告する情報を信頼し、地上でも空でもそれは変わらない。その目の開き具合が大きく作用する事は少なかったが、感情を表現し温和な目つきを見せつつも鋭い眼光が途切れる事はなかった。そのスリムな顔立ちや体型は中性的で“あまりにも個性が強力で捉える事ができない”といった趣で遭遇した事がないタイプだ。何もかも最終的に優勢にあればいい、正にアセンダンシィを体現する男である前に人間、ヒトだった。
フム、特に変わったコトなどないじゃないか。一軍人としては二流軍事小説のように内部を多く動き回っているが、それさえ除外すれば特にこれと言っておかしい事などない。私の能力を適切に扱う場所を求め、私自身もそれを探している。彼、ハルオミシマ大尉は私に短期間ながら大きな影響を与えた人物の一人だ。そして、いかつく屈強な男が多い飛行機乗りの中で表現しようがない風貌と知性、感性を持って私に問うのだった。非常にくだらないと断言できるコトをマジメに。こんな人間を愛せずにいられよう―。
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停滞する戦線を物量で押し上げる中、更なる巡航ミサイルの発射も行われて歩兵が一切活躍しない戦場という極めて稀な状況は次第に打破されていく。双方が総力戦であり大規模な損失を出す中、アセンダンシィの所属機は確実に任務を遂行し、必ず帰還した。総合攻撃計画「MARS」。戦の神を象徴する名をもたらされた大規模攻撃計画は期間を大幅に遅延させながらも海兵隊の強襲揚陸部隊の上陸までにそのプランを進行させていた。言葉を失う激戦だった。現地から送られてくる情報は正に地獄そのもので、人間なる有機質の集合体であり、物質としての原価に換算すれば幾らもしないであろう泥人形同士の単純な殺し合いだった。
従軍記者等も容赦なく戦闘に巻き込まれ、海沿いの市街地や高層ビル群が立ち並ぶ、本来ならば陽気なその場所は単純な戦場となり、支援火器によって互いに互いの弾幕が張られる中、運が良い者は選抜射手によって一発で胴体を掻き混ぜられて意識を消失させ、更に幸運な者は潜伏に長けた狙撃手によって大口径弾を頭部に命中させられ、跡形もなくなったその構造物で道を赤く照らす。逆に不幸だったのはアーマープレートを重ねて入れた者たちだ。それらが遭遇すると互いに互い、まるで料理の下ごしらえをするかのように銃弾を叩き込まなくてはならない。一般歩兵が持つ小口径ライフル弾を停止させる目的で挿入されるのだから当然の結果だが、ダブルタップで打ち込んでも倒れる事がないというのは従来の戦争ではありえない結果だったのだから仕方ないだろう。その結果、一発でも効果を見込める口径の大きな半自動射撃銃が前線で重用された。市街地戦では取り回しに難があったが、それ以上に当たれば敵は起き上がってこないという事実が兵士の心を動かしている。アーマーがある限りは生存する…まるでゲームだ…。と前線から映像をもたらし続けた国営メディアの命知らずなキャスターがMLRSから発射されたロケットの攻撃に巻き込まれて死亡したとの情報。
こうした報道は上陸後、途端に増加している。任務を一向に与えられない晴臣はこうしたモノを軍のデータベースやテレビジョン、ネットワークから得る。そこに広がる光景を簡単には想像ができない。あくまで知識として保管するだけだった。海の先の戦争。戦闘機動で上昇していく離陸機。連日、戦術電子偵察に駆り出されるR-45SP偵察機。援護で展開している内陸の部隊。晴臣やアリスにとって戦争とはこの程度の物にしか過ぎない。それしか体感できる現象がない。時折、威力偵察のために制空権が及んでいない空域の端を飛行する事もあったが迎撃は全くと言っていいほどなかった。単独でそのような飛行を行うのはアセンダンシィ所属機と敵にも面が割れており、そして内陸まで進入する事はないと判断されて意図的に無視されているのだ。こうした飛行の度にアリスは「無視されているなら意味がない」と機嫌を損ねたのだった。
超音速巡航特有のキャノピー越しに伝わる熱。例え空が青くても暗くても、地平線を見渡すような高高度でも全身を完全に密閉する飛行装備――特に最もグローブを温める空気との摩擦によって生じるエネルギーは何度でも晴臣に対して生というものを実感させる。後席のアリスはこれを感じるのだろうか。彼女にはそもそも生きているという感性があるのだろうか。こうして疑問を抱くほどに彼女は死という概念への恐怖がない。まるで自身は不死身と言わんばかりに。特に空ではこうした感性は強力に発揮され、積極的に攻勢に出る事が多い。恐らく史上最高の制空空戦戦闘機、マキナシリーズの一機であるタリオニスのECOとしては極めて優秀だ。その任を果たす為には第一前提として戦闘を行う必要がある。あらゆる手段で獲物を見つけ、撃墜し、空域の優勢を確保する為には攻勢は必要だ。ヘルメットと通信装置越しの飛行指示、目標シンボルを示すディスプレイから伝わるアリスの意思は明確で揺るぎない。排除。この一言に尽きる。全力で「殺し」にかかっている。果たしてこいつは人間かと思うほどに空の彼女は異様だ。成り立ちから姿から内面から全てにおいて。イレギュラー、この言葉が彼女には相応しい。
シャワー上がりで髪が濡れている。自由気ままに降りてくる前髪を強引にバックへと流すとソファーに腰掛け、ロストフィフティーをグラスに注ぎ口に流す。常に変化する中に於いてこの液体は不変だ。これだけで幸せになれる事実が変わる事はない。デスク上の端末に更新され続けるデータベースが流れていく。正しい戦果報告で飾られていない生の情報だ。とてもじゃないが国民にそのまま見せられるような代物ではなく、だがそれは最早日常に過ぎない程に時は経っていた。軍団が壊滅状態にあるとか、多大な戦果を上げただとか、そんなモノは晴臣の感情を動かすに足る事柄ではない。これは個人的な思考ではなく、アセンダンシィの頭脳、作戦から補給に至るまで立案し手配を行う自身の立場、果たすべき役割を理解しているからだった。如何に軍を優勢に導くか、最終的にこの軍が戦争に勝利すべくこの強大かつ扱いにくい戦力をコマに配置し、自身も前線に立つ“大尉”としての能力を活用し理解する事。果たすべき役割はこれだけだ。
無理やり付け加えるとすれば後席の少女のご機嫌取りも任務内だった。これはオノンネルからの個人的な依頼だったが信頼を置いている上官の“命令”に逆らう事はない。
自身の顔を見る。鏡に映る自身の表情は今までにない様相を浮かべている。戦闘機乗りにしては細めの肉体をまじまじと見て、彼女の更に細いラインを思い出し、空軍の中で最も痩せ身の戦闘機搭乗員ではないかと考えてみる。ドライヤーを持つ肩から延びる右手のライン。細い。肌を這う蛇のような血管。そんな事を考えるまでには余裕がある…と思うと彼女との出会いは確実な変化を自身に与えている。生死だけでない思考だ。
…?
吹き出す温風を浴びると空を思い出す。確実な生を感じる熱。まるで地上ながら空にいるかのような感覚。身に染みて隠す事はできない記憶。消せない自身の体。浮き上がる確実な存在の証明。俺は死んでいない。遥か彼方に置いてきた証明と倫理が内なる人間としての積み重なった情報を覚ましていく。過去と辿るべき未来。そうだ。俺はまだ“死んでない”。
そんな熱風だけはない、臓物を逆撫でして去る一律に呪いを吐き出す機械のノイズを浴びると、掻き消すようにテーブル上の携帯端末が叫んだ。嫌でも耳につくパルス音。司令部からの呼集命令。
今の晴臣には手に取るように分かる。
囁いている。間違いない。面白い。面白すぎてたまらない。瞳孔が開き脈拍が上昇。アドレナリンだけでないありとあらゆる快楽物質の過剰分泌。効いている…見える。
紡ぐ線が見える…
ミエル…。ミエテイル。コレだとの自信。それは秒で確信へ変化、再構築。
何も変わらない。だが彼の意思より早く、本来であれば晴臣の全てを制御する意思を上回る力を持った存在が一人の人間を動作させていた。時を遡ってそれは見える。人間たる何かなど気にも留めぬ、ヒトとして最高の動作制御。自由を消滅させたヒトとして最高の動作だ。
傑作。最高傑作。極めて高次元の芸術。
微笑とも冷笑とも言えぬ、形容など不可能な口元を見せて鏡の前から男が姿を消す。
届く事はないソラに月が浮かぶ。何も残す事はなく全て、その残像と姿は満たされ、落ちるべくして落ちる。不可解な事など、何もない。