レイニーデイ
気がつくと雨が降っていた。おや? と立ち上がり窓の外を眺める。さっきまで曇ってはいたけど少し晴れ間も見えていたのに、いつの間にかしとしとと降りだした雨が路面を濡らしていた。ある人は面倒くさそうに傘を開き、またある人は鞄を傘代わりにして走っている。誰しも濡れるのは好きじゃない。
世の中の大半の人がそうであるように、僕も最近までは雨が嫌いだった。
「あーくそ、降って来やがった」
カタログの入った重たい鞄を抱えて僕は、驚きと怒りの混じった目で空を睨んだ。昨日の予報ではくもりマークだけで、降水確率も20%だったくせにどうして降るんだ、と。
くもりの予報で念のために傘を持ち歩く人がどれだけいるのか知らないけど、僕は念のための傘を用意していなかった。でもそれは僕の落ち度では無いと声高に言いたい。誰に? 昨日の予報士に。とにかくどこかに雨宿りできる場所が無いか周囲を見渡すと、少し離れた場所に屋根のあるバス停を見つけたので慌てて駆けこむ。
大人が4人座れるくらいのベンチの端のほうにはバスを待っているのか、女性が座っていたので反対側に重たい鞄を置き、ハンカチで頭と肩口を軽くふくと思わずため息が漏れた。こんな秋口の日に通り雨だなんてなんてついてないんだと思った。
「雨、降ってきちゃいましたね」
じっと空を見ていた女性が不意に口を開くものだから、まさか自分に話しかけてきたとは思わずに僕は左右を見渡した。急いで駆け込んだから見えていなかっただけで実はもう一人バス停に人がいるのかと思ったんだ。
「昨日の予報では降水確率は低かったんですけどね」
そう言って彼女は困ったように笑った。顔はしっかりと僕のほうを向いている。そこでようやく自分に話しかけていたのだと気づいた。
「あ、ええ……」突然の出来事に言葉が詰まった。こんな時人見知りの性格が心底いやになる。
「こんなことならやっぱり念のために傘を持ってくれば良かったなぁ」
ほんとは出かけるときに迷ったんですよ。と膝の上に乗せた小さめのバッグをちらりと見た。
「でもこのバッグに入るような可愛い傘がなくて。携帯用の傘ってどうして可愛いデザインの物がないんでしょうね」
傘に必要なのは機能であってデザインじゃねぇだろ。新商品のカタログを広げてつまらなそうに吐き捨てた同僚の言葉が頭に浮かんだ。そうか? 可愛い傘があってもいいじゃないか、と言うと、お前はバカか。とさらに吐き捨てるように言った。
「傘っていうのは必要な時にしか使われないもの、なんだそうです。だから機能以外の余分なものを捨ててコストを削減しているらしいですよ」
僕はつい先日同僚から聞いた言葉でそのまま答えた。自分の言葉ではなく人からの受け売りや本で得た知識ならすらすらと出てくる、情けないがこの性格で営業なんて仕事をやっていくために必要に駆られて得たスキルだった。
「そうなんですか? でもそれってなんか投げやりな感じがしませんか? わたしは可愛い傘があったら欲しいけどなぁ」
ここでやりての営業マンであれば、すかさず鞄からカタログを取り出して「実はこういう商品があるのですが」などと言えるんだろうけど、僕はというと「そうですか……」と言っただけで次につなぐ言葉を見つけることができなかった。
「雨、これ以上強くなったらこんな小さなバス停じゃしのげなくなっちゃうかもしれませんね」
心配そうに空を見上げた女性は、やはり傘を持ってこなかったことを後悔しているようだった。もしかしたらバスを待っているわけではなく、この女性も仕方なしにこの小さなバス停で雨宿りをしているのかもしれない。
あまりに重くて持っていられずベンチに置いた僕の鞄。その中にはカタログのほかに新商品を売り込むための販促物もいくつか入っている。もちろんそれは各お店に回り実際に商品を見せながら営業するために持ち歩いているのだけど、使い方は営業である僕たちの自由だ。人によっては自分が回るお店に置いてきてしまう人もいる。
つまり、今、ここでなくなってしまっても特に問題はないんだ。
「あの……」
僕は鞄から傘を取り出して女性に差し出した。それは可愛いかどうかはわからないけど、ポップなデザインが施された携帯用の傘。現実家の同僚には実用性が無いと不評だったけど、今この瞬間にこそ実用性があると思った。
「よかったら、コレ、使ってください」
それだけ言うのが精いっぱいだった。女性はえ? と少し驚いたような声を上げていたけど、もちろん目を見ることなんて出来ないし、僕の心臓は恥ずかしさで早鐘を打っていた。
「僕は時間もありませんし、もう行きますから」と足早にバス停を出る。後ろから女性が声をかけてきたような気がしたけど、振り向けなかった。
外は降り出した雨の音に包まれていた。時計を見て不意に心配になる。段々と暖かくなってきたとはいえ、春の雨はまだ冷たい。濡れてしまえば風邪をひいてしまうこともある。
ジャケットを羽織って車のカギを無造作にポケットへ突っ込む。予定の時刻まではあと30分ほどあったが、僕は早めに出ることにした。
玄関を出る際に傘立てが目に入った。彼女は今日ちゃんと傘を持っているだろうか?
「なんであんなものが売れるのかがわからねぇ」
同僚はしきりに首を捻りながら注文書とにらめっこをしていた。彼が回っている雑貨店からは実用性が無いと一笑に付した傘の注文が、それほど多くはないとはいえ入っていた。
「みんながみんなお前のように実用性だけを求めているわけじゃないだろ。中には実用性よりも見た目や面白さを求める人だっているわけだし」
ふと、あのバス停で押し付け気味に傘を渡していしまった女性が頭をよぎった。あの人は実用性よりも見た目やデザインにこだわる人だろうな。
「見た目に何の意味があるっていうんだ? 考えてみろよたかが携帯用の傘だ。それに少しだけ手を加えただけで値段が高くなるわけだ。どうだ? 欲しいと思うか?」
「どうだ、と言われても。僕は欲しい人代表なわけじゃないよ。ただ世の中にはそういう人もいるんじゃないかってこと」
「俺に言わせれば、そいつらはバカだな。金の使い方を知らないんだ」
ふん、と鼻を鳴らして同僚はさも自分は最もいいお金の使い方を知っているような口ぶりだった。
商品のいい使い方なら知ってるよ。そう言おうかと思ったけど口には出さなかった。こいつに話したところでバカにされるのがオチだ。それに、あれでホントに正しかったのかを確かめるすべがない。もしかしたら親切の押し売りになってしまったかもしれないし、あの女性は突然渡された傘の扱いに困ったかもしれない。そう考えると自分のしてしまったことが恥ずかしく思えてきた。
その日の夕方になると、外回りから帰ってきた同僚たちが次々にざわめき始めていたことに気付いた。そういった事には普段あまり関心がないのだけど、隣に座る現実家の同僚が次から次へと新しく仕入れた情報を逐一報告するものだから望まずとも一応の概要を得る。どうやらロビーにとても可愛い女の子がいるらしい、とのこと。
「聞いてきたところによると、どうやらうちの社員じゃないらしい。見た目二十代前半のめちゃくちゃ可愛い子だ」
目を輝かせて、この同僚は会社に突如現れた可愛い女の子とやらに興味津々の様子だった。
「見てきたかのように話すな、お前は。会社に来客なら毎日来てるじゃないか。何がそんなに珍しいんだ?」
「それがな、誰にもアポイントを取ってないんだってよ。て事はだ、仕事で来てるわけじゃないだろ? どうやらこの会社にいる誰かを探しているような感じらしい」
「じゃあ誰かの彼女とか、妹とかかな」
僕がパソコンの画面を見ながらそう言うと、同僚はがっかりしたように「お前は現実的だよな」と言った。お前が言うか?
「もう少し夢を持って考えろよ、いいか? 例えば街中でその女の子がお前を見かけるわけだ、すれ違いざまとかにお前の顔を見る。その瞬間に一目ぼれしてしまうわけだ。な? だけど街中で一瞬すれ違っただけの人間を、見失ったら二度と見つけられない。そう考えた女の子は必死に見失わないようにお前を追いかけるわけだ。そして、お前がこの会社に入っていくのを見て、お前がうちの社員だとわかる。そして女の子は勇気を出して会社の入り口を開けるわけだ。どうだ?」
「どうだ、と言われても僕は今日外回りの日じゃないし、お前もそうだろ。もしお前の考えたエピソードが正解だったとしても、その相手は僕やお前じゃない」
同僚のくだらない話に突っ込みを入れたところで、また一人外回りから帰ってきた。ドアを開けるなり「あの」と大きな声を出すものだから、その場にいた全員が振り返る。
「この中に雨の日に女の子に傘を貸した心当たりのある人、いますか?」
その言葉に部署内のほぼ全員がキョトンとする中、僕一人だけ違う表情をしていた。まさか、と思う一方ドクリと音を立てた心臓がどんどん回転を上げてく。
「傘、ね。どうやらお前の言う通り俺にもお前にも関係のない話だったみたいだな」
心底落胆したようにがっくりと肩を落とす同僚をしり目に、僕は席を立った。
「……ちょっとトイレに行ってくる」
ありえない、と頭では否定しつつも廊下を歩く僕の足は無意識に早足になっていた。もしあの女性だったとして、わざわざ会社を調べてまで傘を返しに来るだろうか。
エレベーターに乗り一階のボタンを押す。ドアが閉まり、誰にも見られる心配がなくなったところで大きく深呼吸をする。まだあの女性だと決まったわけでもないのに何を緊張しているんだ、と自分を落ち着ける。しかし努力もむなしく、もしあの女性だったら何を話せばいいんだ? と僕の思考はそっちにばかり向いていた。
ポン、と小さな音を立ててドアが開く。綺麗に磨かれた床に光が反射している。そこに一つの人影が立っていた。
エレベーターを降りる。
踏み出した足がコツリと音を立てる。
ゆっくりと顔を上げる。
ドクン、ドクンと耳元で心臓の音が聞こえた。
影を目で追う。
目の端に受付が見えた。受付嬢は暇そうに髪をいじっている。
女性の足元が見えた。静かなロビーに「あ、」と声が響く。
まっすぐ前を見る。僕も「あ、」と言った。
フロントガラスに当たる雨が少し強くなっていた。ワイパーがリズミカルにフロントガラスに張り付いた雨粒を払っていく。その音が妙に心地が良かった。
世の中の大半の人が雨を嫌う。誰しも濡れるのは好きじゃないし、雨が降っているというだけで出かけるのが億劫になる。でも僕は、雨の日は嫌いじゃない。
「なんか、楽しそうだね」
僕の顔を窺って助手席の彼女はそう言った。
「雨が好きなんだ」と言うと、彼女はくすりと笑った。
「雨が好きなんて変わってるね」
チラリと彼女を窺う。すると「でも」と言った。
「でも、あたしも雨好きだよ」
にっこりとほほ笑む彼女の足元には、あの傘がきちんとたたまれて置いてあった。