萬血廼虚窪
とある世界のとある大陸のとある王国のやんごとなき家に──とある少女がいた。
「きひひ」
──と、そんな風に笑う彼女はその笑い声をよく周りから注意されていたものの彼女がそんな笑い声と共に見せる笑顔はとても魅力的だったので、皆強く言うことはできずに結局その笑い声が変わる事はなかった。
彼女の名前は■■■・■■■■■■。
月光のような髪を持って生まれた美しい少女だった。
■■■■■■家の二女として彼女が生を受けたのは決まっていたかのような満月の夜。
その産声は今にも消えてしまいそうな弱々しいものだったという。
しかしながら少々成長してみればその産声は何かの間違いでしかなかったのだと誰もがそう思うようになった。
いざその二本の脚で歩く事ができるようになれば汚名返上とでも言わんばかりにしっちゃかめっちゃかに駆け回るようになったのだから。
住んでいた屋敷の中の使用人という使用人を戦々兢々な阿鼻叫喚の渦に陥れ、三日に一回大脱走を試みる彼女はさながら暴風雨の如く根こそぎに暴れ回るのだった。
彼女にとってはカエル毛虫は頼りになる相棒であり、屋敷の豪華な品物はトラップの部品と化し、使用人達は最高の玩具となった。
食器類は毎日のように破壊され家具達は日に日に傷んでゆき使用人が来なくなるのは珍しくない。
鉄拳制裁を主義にした高名な熱血家庭教師がやってきた時はようやくあの小さな破壊者も年貢の納め時かと思われたが一週間の死闘(指導)の末に燃え尽きた家庭教師は去っていった。
それを彼女は高笑いして見送ったのだった(頭に大きなタンコブをこしらえていたが)。
もはや彼女を止めるものはいないと誰もがそう思ったが、やがて彼女はある日を境にピタリと悪戯を取り止める。
それは彼女が六歳の時、弟が死した父と入れ替わるかのようにして生まれた日であった。
しかしてキッパリスッパリ悪ふざけ(自覚はあったようだ)は卒業し、姉として弟に見習わせるかのように彼女は良家の令嬢として相応しい振る舞いを見せるようになった。
元々外見は超の付く一級品であり、勉学にも秀でていた彼女は途端に称え評されるようになっていった。
もっとも本人は周りの賛辞などどこ吹く風に弟の面倒を見続けていたのだが。
そんな彼女の生活にひびが入るのは弟が生まれ彼女が変わってから四年後のこと、彼女が十歳の年である。
十歳の夏。
いつも通り弟と共に屋敷の庭にいた彼女だったが──その日は酷く暑い日だった。
酷く、太陽が輝く日だった。
弟と共に歩いていた彼女は太陽を静かに見つめ──そして倒れた。
その様子はまるで紙か羽が舞い落ちるかのようだったという。
それ以来彼女の生活は一変する事になる。
病的なまでに肌が白くなり、陽の出ている時間帯は微塵も光を通さないように締め切った部屋に籠もり、決して出てこようとしない。
数少ない屋外へと出る時は決まって、月の出ている夜だった。
それだけならまだあっさりと受け入れられたかもしれない──ただ体が弱くなったで済ます事ができただろう。
しかし彼女は「陽の光を嫌う」という事を除きさえすれば、それ以外の面ではむしろ強くなった、とさえ言われたのだった。
普段から習っていた剣術に突如磨きがかかり、月の下を舞うように身軽に駆け回る。
まるで別人のように身体能力が伸びていたのだ。
それは異常に、といって良いほどに。
──ある夕食の席で、食事中に何の予兆もなく彼女が持っていたナイフを放り投げ、ナイフは天井へと深く突き刺さった。
本人は手が滑ったと笑みを浮かべ、結局その場では皆がそれに同じように笑顔で返した。
しかしその後使用人が刺さったナイフを天井から抜き取ると、その刃には──真っ赤な血が滴っていた。
対象的な青い顔をして使用人が天井裏を確認すると、そこでは大きな鼠が息絶えていた。
本人はただの偶然だと笑ったが、その笑顔に何人が笑顔で返せたのかは不明である。
そんな様子を見て弟を始めとした彼女を知る者は当然ながら心配したが、それでも彼女は今までと変わらない笑顔で──否、今まで以上に可憐な笑顔で微笑んだ為、心のどこかで安心していた。
言うまでもなくその笑顔がより美しく見える理由は、ただただ彼女の存在が儚くなってしまったというものだったのだが──周りの人々がその事に気付くのは、全てが終わってしまった後の事だ。
そんな霞のような日々が過ぎてゆき──そして彼女の人生は当然のように幕を閉じる事となる。
彼女という存在はどうしようもなく必然的に、酷く理不尽であまりにも一方的な運命の前に呆気なく潰える事となる。
彼女の終わりは十二歳の誕生日に訪れた。
ささやかな──当然皮肉でしかない──パーティが夜に開かれ、数多くの人々が招かれる事となったその夜は──言うまでもなく満月だった。
彼女は弟を連れて教会へと足を運んでいた。
下心満載の四方八方からの視線に疲れていたのだ。
手を繋いだまま弟と誰もいない教会を歩く。
ステンドグラスの光が美しく姉弟を照らしていた。
歩きながら姉は弟へと語りかけた。
「もうすぐ『ナニカ』に捕まってしまうんだ」と。
そこに哀しみは感じられなかった、ただ、どこか残念そうな口調だった。
「だから私が無くなってしまっても強く生きていくんだよ──」と、そこまで口に出した所彼女は振り返った。
重々しく開かれた軽いはずの扉からは一人の聖職者らしき男を筆頭に、続けて数名の兵士達が入ってきた。
それを見ると彼女はやれやれといった風な微笑みを浮かべて、繋いだ手を離した。
二度と繋がれる事のない、その手を。
聖職者は無感情な目で彼女を見、そして十字架を構える。
それを見た途端にビクリ、と彼女が怯える表情を見せた。
そしてそれを見た聖職者の表情に感情が映る。
そこに在ったのは──侮蔑である。
やがて彼の口から何かが紡がれ──そして光が教会内に包まれたその時、絶叫が響く。
その叫びの主は、彼女だった。
普段の彼女のものとはとても思えない、そう、まるで血を吐くような叫び声。
やがて頭を抑えてうずくまった彼女
に、ある変化が訪れた。
月の光のようだと謳われた美しい金髪が──
赤く。
紅く。
朱く。
緋く──
と、そこで彼女は最後の言葉を振り絞る。
まだ、隣で怯える弟へと最後に伝えることがあると──
「■■■■──逃げて!」
それが彼女の最後の言葉だった。
結局の所最初から最後まで、彼女は弟の姉だった。
姉として生き、姉として終わった。
この途方もない理不尽に襲われた哀れな彼女を締めくくる気休めがあるとすれば、せいぜいそんな所である。
まんげつのうつわ。