不足
バルティオ・ミリオーネがこの闇樹海に住まうようになってから二百年もの時が流れた。
かつての「大戦」を終えた彼に残されたものは共に戦った仲間達との友情のみ、などと言えば少しはロマンが在るように聞こえるだろうか──事実彼の持っている物といえばそういったもののみで、およそ建設的なものなど何一つなかったのだから仕方ない。
故にこの大陸で最も自身が波風立てずに生きれるであろうこの闇樹海に住まうようになったのだ。
己の身の上を知っている者はほんの一握りのみ──無論それは彼自身が望んだ事でありそれについて何も思う事は無い。
ただ、自身の在りように思う所が無かったと言えば、当然嘘になるのだろう。
かつての仲間達も半数が逝ってしまった──無論種族の壁を鑑みれば珍しい事でも何でもない。親しい者の死などは誰の身にも起こる事でしかない。
仲間達は天寿を全うした、大陸中の人々に惜しまれながらである。それにいつまでも未練を残していては余りに情けない。
しかし、自身の唯一と言っても良い生きた証が消えていってしまうのは──やはり虚しい物がある。
二百年もの間、この大陸にはかつてのような「大戦」は起こってはいないものの、いつも通りのこの上なくありふれた「戦争」は大なり小なり在った。それが世の常というものだろう。
しかしそれに彼は見向きもしなかった──それは恐らくは正しい事だったろう、完全に世間と断絶していた彼にできる事などせいぜい無駄に戦火に油を注ぐ事ぐらいだった筈だ。
彼の身の上を考えればそれは至極当然である。
故に彼はこの二百年ひたすらに他者と深い関係になることを避け続けて来た、自身がどれほど面倒な存在かは身に染みて理解していた為に。
だから十日程前の夜、家の前に倒れていた真紅の髪を持った少女を拾った時も、じきに別れる事となるだろうと、そう思っていたのだが──
「………我ながら呆れたものだな」
台所に立ちながらバルティオは呟いた。
拾った少女──クレアレッドはまだ屋根裏で眠っているようである。
あやふやな言い方になるのは、彼女が気配というものを眠っている最中にすら微塵も見せる事が無いからだ。
一般人相手ならともかく、バルティオ相手に毛ほども気取らせないというのは──それは気配を隠すとかそういう次元の技ではない。
まるで彼女が空気か何かになってしまったかのような──闇に溶けてしまったかのような──そんな有り様である。
そこに居るのかどうかすら覚束無い、どこに在るのかどうかすら疑わしい。
有り体に言えば──
人間業ではなかった。
或いはそれこそがバルティオが意に反するかのように目を離せない理由なのだろうか──
「只の下らない感傷、なら簡単で良いんだがな」
そんな訳が無い事ぐらいは自覚している。
目を離せないその理由は──
「ハア………」
彼としては珍しく嘆息する。
出てきた結論に自分自身呆れ果てたからである。
「何というか──救われない話だ」
そう呟いた後、屋根裏へと続く梯子を登る、朝食はとる必要が無いようにも見えたが、しかし出せばもの凄い勢いで掻き込むので作った方が良いのだろう。
屋根裏部屋へと上がり、「朝食だぞ」と声を掛ける。
しかし返答は無かった。
「………………」
黙ったまま布団をめくると、クレアレッドの姿は無く──一枚の紙が残されていた。
その紙には読む方が軽く自信を喪失するほどに丁寧な字で、
『ご迷惑をおかけしました』
とだけ書かれていた。
「ふむ」
そうバルティオは呟き──手に取った手紙を離した。
その手紙は床に落ちる僅かな間にみるみるうちに風化していき──
そして手紙が床に落ちる事無く消え去ったその時には、既にバルティオの姿はそこには無かった。
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こうやって逃げるのはもう何度目になるのだろうか。
思えば「目醒めた」あの夜からずっと──こうして逃げ続けているように思う。
卑怯だ、とは思わない。
ただ惨めだとは思った。
死にたくなる程そう思った。
「それでも死にたくないんだけどね………」
そんな風に呟いた私は今どんな顔をしているのだろうか。
涙は流れていない。
それでも多分、泣いているのだろう。
哭いているのだろう。
「キヒ──」
変わらず──笑みがこぼれる。
「キヒヒ──キヒ!キヒヒヒヒヒヒヒヒ!」
それが悲鳴でしかないことは、流石にもう気付いていたのだった。
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「──よう」
声が、聞こえた。
在って無いような、意識が戻った。
この上なく冷めた、目が醒めた。
視界は言うまでもなく、赤かった。
見飽きた、色だった。
聞き慣れない、声だった。
「奇遇だな」
闇色の、髪。
風色の、瞳。
「久しく全力疾走をしたぞ──片っ端から風を『読んで』な。まったく、二百年ぶりの本気をお前のような子供に使わされるとは思わなかったよ」
グチャグチャとした音に混じって聞こえてくる鈴を転がすような声。
ん?
あれ?
なんだこのおと?
なんだこのいろ?
「とりあえず──それを置いたらどうかと思うが」
それ? どれ?
あ、これか。
「…………あ」
腕、だった。
グチャグチャに。
骨が見えてる。
白い。
赤い。
「………あーあ」
やっちゃった。
殺っちゃった。
喰っちゃった。
バレちゃった。
自分の下にある「者」が何かは──考えるまでもなかった。
というよりも──考えたくなかったが。
いつ意識が飛んだか覚えてないけど──確か小屋を出て三日位で意識が薄れて来たんだっけか。
我慢は身体に良くないという事だろうか──
とりあえず、眼下の名も知らぬ誰かの冥福を祈っておく。
「……………で、どうするんだ?」
「………どうするって」
私は笑った。
笑えた自信は、無いけれど。
「どうしようもないでしょう、これは」
ポイっと腕を捨てる。
ここはまだ闇樹海のようだ──どこに居るのか、どれだけ時間が経ったかは全く見当もつかないが。
「え、何?殺してくれないんですか?」
「…………………」
もう──それしかないと思うのだが。
「どうもこうもないですよ、いいんです、もうとっとと殺っちゃって下さいよ、終わらしちゃって下さいよ、もう流石にうんざりしたんで」
そう、もういい。
あなたのような人にこんな姿を見られてまで、生きたくない。
死にたくないけど。
もう生きたくもない。
「………………」
「頼みます、お願いしますから。私はこんななんですよ、生きてちゃいけないんです──死んだ方がいいんです」
死にたくない。
終わりたくない。
怖い。怖い。怖い。怖い。
いやだいやだいやだいやだ。
「私なんか只の害悪なんですよ、生きていたって仕方ないんですよ、死んだ方がいいんです」
苦しい苦しい苦しい苦しい。
生きたい生きたい生きたい生きたい。
「ほら、さっさと殺っちゃって下さい、別に怖くもありませんから──」
「クレアレッド」
と、呼ばれた。
名前を、呼ばれた。
「たとえ、お前が生まれた事が間違いだったとしても──生きている事が罪悪だったとしても──お前が死んでいい理由にはならないだろう」
「っ……………!」
「俺はお前を殺さないよ」
………いつの間にか。
彼は目の前にいた。
無表情。
完全に、無表情。
何の感情も、読み取れない。
「──ッッッざっけんな!!」
叫んだ。
怒鳴った。
「殺せよ!殺してくれよ!死んだ方がいいんだよ生きてても仕方ないんだよ!良いだろ別に!?私一人死んでもどーって事無いだろ!?私が死ぬことで誰に迷惑かけんだよ!?」
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
生きたい生きたい生きたい生きたい。
「何でだよ何でだよ!何様だよあんた!?私の事何も知らないだろ!?迷惑なんだよほっといてくれよこっちみんなこっちみんなどっか行けどっか行け!ウザいんだよ私なんか見てて面白いのかよお!」
全部、吐き出した。
ああ、全部、ぶちまけた。
もういい、わかったからもうほっといてよ。
頼むから。
私を見ないでよ。
「………クレアレッド」
変わらず。
彼は私の名前を呼ぶ。
私の、名前を。
「まあ、お前の言うことは解らんでもない──いや、解りはしないか、言ってる事無茶苦茶だからな」
「…………………」
「殺せと言ったらどっか行けと言うし──まあ支離滅裂も良いところだな、完全に置いてけぼりだよ、何が言いたいのかサッパリ解らん」
そう言うと、力強く言い直した。
「お前は何を言いたいんだ?」
「………………………」
「………それじゃ、俺の言いたい事を言うぞ、一つずつな」
そうして、彼は私を見る。
真っ直ぐに。
貫くように。
「嘘、吐くなよ」
「…………………」
「勘違い、するなよ」
「………………う」
「認めろよ」
「う、ううううう……」
やめてよ。
勘弁してよ。
出来るわけないよ。
私なんかに私なんかに──
「一つ目」
彼は言う。
目を逸らさずに。
「嘘吐くなよ──お前一体何を見てるんだ?何を聞いてるんだ?何を──感じてるんだ?」
「………う、ううう」
「お前は──何を思ってるんだよ」
「ううう、うう、う……」
「俺にはサッパリ解らんぞ──お前今何で泣いてるんだ?教えてくれよ」
「うううううううう!」
耳を塞ぐ。
頭を振る。
「二つ目」
続ける。
止めない。
「勘違いするなよ──生きてても仕方ないとか死んだ方がいいとかちゃんちゃら可笑しいぞ。馬鹿馬鹿しさここに極まれりといった感じだな」
耳を塞ぐ。
頭を振る。
「三つ目」
さらに──距離が縮まる。
目と鼻の先。
彼の瞳には、何も映っていない。
私の瞳には、何が映っているのだろう。
「認めろよ──嘘吐かずに、勘違いせずに、誤魔化さずに、目を逸らさずに………逃げ出さずに」
「い──いやだいやだいやだ──」
「──クレアレッド」
名前を呼ぶ。
無表情。
強い、瞳。
「甘えるな、お前には何も無いんだ」
ふ、と。
身体が崩れ落ちる。
仰向けに、倒れた。
何も無い。
私には。
「嘘吐くな勘違いするな──認めろ、他人にまで生きる義務や死ぬ義理を押し付けるな。生きる意味も死ぬ価値も、無い。お前になんか、何も無い」
何も無い。
彼は念を押すように言う。
自分に言い聞かせるように言う。
「いちいちこの世に意味や価値を求めるな、何も知らなくても何も解らなくても何も変えられなくても何も壊せなくても何も生み出せなくても──みんな訳の解らんままでも、生きているんだから」
意味も解らず。
雲を掴むか如く。
ただただ闇雲に。
ひたすら有耶無耶に。
まるで死んでいるかのように。
生きている。
生きていく。
「お前は、何でも無い。何でも無いんだ。お前は単なるどこにでもいる──
他人を怖がってるだけの、ただのガキだよ。
余り自分を高尚に観るな、そういうのは正直、不愉快だ」
そこまで言って、ようやく──彼は腰を下ろした。
視界の外、もう、見えない。
とは言っても──その視界ももう見えなかった。
真っ赤に──ではなく。
悔しいぐらいに透明に滲んで、見えなかった。
「………バルティオさん」
「なんだ」
「苦しいです」
「ふむ」
「悲しいです」
「ふむ」
「……寂しいです」
「ふむ」
彼はそこまで聞くと。
明後日の方を向いたまま。
私の頭に手を置き。
小さな声で、呟いた。
「だったら、傍に居てやるさ」
こうして。
私達は、二人になった。
ふたり。
御覧頂き、ありがとうございます。
取り敢えず、今回でクレアレッドのいじけは終了します。
次回からは彼女の本来の姿を見せられると思いますので、まだ読んで下さる方がもしいたら、どうか楽しみにしていて下さい。