前向きに善処するよ
自らの胸で震えている真紀に、寧人は動けなかった。
抱き寄せることはできない。それは自分が見えない返り血でどす黒く染まっていること、そしてこれから起こる戦いの結末を考えれば当然のことだ。
抱きしめてしまいたくなる衝動を抑え、だが何も言うこともできず。
降り始めた小雨に濡れていくまま、ただ黙っていた。
「……死ぬつもりなんですね」
とても長く感じられる数秒が過ぎ、真紀は濡れた蒼石のような瞳で悪の王の心を見通す言葉を告げた。
その透明な声は、これまで幾度となく陰謀によって敵を屠り続けた魂の壁を越えていく。
寧人はもう、さきほどまで演じていた『悪』で居続けることは出来なかった。
「……ごめん」
皮肉にも、悪の王による偽りを初めて見抜いた者は英雄でも正義でもない、だが、彼にとってただ一人の女性だった。
「ダメです……そんなの、許さない……許さないんだから……! 言ってください! いつもみたいに、俺は必ず勝つって……! ちゃんと無事に帰ってくるって…!」
小さな拳が寧人の胸を何度も叩く。非力な女性に叩かれているはずなのに、それは痛烈に胸に響く。
冷たい雨が降っている世界のなかで、自分の胸のなかで泣く真紀だけが温かかった。
「ごめん」
まるで馬鹿みたいだ。ただ朴訥に同じ言葉を言うしかなかった。
真紀はしばらくの間、そのまま泣いた。しゃくりあげるような彼女の涙と嗚咽は、まるで彼女の思いが水分や声となって漏れているように思えた。
どのくらいの時が過ぎただろう。
真紀は、少しだけ寧人から離れた。
彼女は、もう泣いてはいなかった。何かを決意したかのように前を向く彼女の表情は、今までみたことがないほど、綺麗だった。
透明感のある顔立ちはそのままに、静かで、どこか凛とした佇まいにみえる。
「寧人くんは言ってくれたじゃないですか、一緒に世界を変えようって……。私は、貴方に夢を見ました。そして、寄り添って歩いていきたいと思いました。ずっと、ずっとです」
せつせつと語る彼女から視線を逸らせない。それは、彼女の思いの強さによるものなのだろうか。
たしかに、寧人は真紀にそう告げたことがある。
彼女が自分の秘密を告白してくれたあの夜、寧人は初めて思えたのだ。
俺は一人ってわけじゃない、と。
だから、ここまでやってこれた。それはエビルシルエットの力を得ることができたという意味だけではない。
少しだけ間をおいて、一度深く呼吸した真紀は、穏やかな笑顔を浮かべた。
「だから、私は寧人くんと運命を共にします。犯してきた罪も、叶えたい理想も信念も。全部、全部一緒に背負いたいです。もし、あなたが戻ってこないなら、私も一緒です」
雨が、上がっていた。
雲間から少しだけ射す光が、暖かな表情の真紀を照らしていた。
微笑みながら言った言葉、それがどれほど重いことなのかわからない真紀ではない。同じ夢を見て、ともに歩く。罪も信念も、業も勝利も敗北も、そして死すらも。
「……真紀さん……」
悪の王は答えられなかった。まるで慈愛の女神を思わせる彼女の笑顔が、断固たる決意によってなるものだということがわかったからだ。
運命をともにするという彼女の思いを退けることは出来そうにもなかった。
なら、俺はどうすればいい?
同時に、自分の中にあった冷たく凍り付いていた何かが溶けていき、重くのしかかる何かがほんの少しだけ軽くなっていくのを感じる。
ああ、そうか。
寧人は思った。
俺は、疲れていたんだ。そして多分、心のどこかで死にたがっていた。
信念のための戦いを捨てるつもりはない。目指す世界のために、この戦いは完遂させてみせる。絶対にだ。
多くの者の意志に火をつけ、そして炎と業を背負い駆け抜けてきた。それに後悔はない。だが、この肩はその重みでつぶれてしまいそうだった。
だから最後の戦いで命を散らし、楽になりたかったんだ。変身出来るのはあと一、二回。それを使い果たしてしまいたかったんだ。
「世界を変えるために戦ってきた人は、叶えた世界を生きなきゃ、嘘です」
真紀の言葉にまたしても気づかされる。
いつからだろう? 俺はそのビジョンを捨てていた。本当は、そうしたかったはずなのに。叶えた世界をこの目でみたかったはずなのに。
彼女の聡明さと深い想いは、いつも俺に力をくれる。
死んでもいいと思うことと、死にたいと思うことは違う。
命を懸けることと、命を捨てることは違う。
俺は。
黙り込んでいた寧人に通信の音声が入った。
〈ネイト、ガーディアン部隊とロックスたちが上陸を開始しました。数分後には迎撃に入ります。あなたはすぐに移動を〉
前線指揮を任せているベナンテの声。
「……了解した」
寧人は真紀の横を通り、最上階である首領室へ通じるエレベーターへと歩みはじめ、そして足を止めた。先ほどの雨で濡れた髪をかきあげて、少しだけ笑って見せる。きっと、情けない笑顔だけど構わない。
「真紀さん、俺は、もう嘘はつかない。だから、生きて帰るって約束は、やっぱりできない」
この戦いは容易いものではなく、やはり寧人は命よりも勝利を優先する。死ねば勝てるというチャンスがあれば、迷いなく実行するだろう。
「寧人くん……」
胸の前で手を組む真紀は、まるで祈っているようも見えた。
「でも、なるべく死なないようにするよ。最後の一瞬まで、考え続ける。勝って、そして生きるために。……そうだな。前向きに善処するよ。絶対に」
情けない。とても部下には聞かせられないセリフだ。
でも本当の思いだ。これが、小森寧人という男だ。
前向きに善処するなんて、まるでどこかのダメな政治家みたいだけど、本気だ。「絶対」は絶対だ。最大まで、限界まで善処する。
真紀は、そんな寧人をみて、少しだけ驚いたように表情をみせたあと、ふふ、と小さく嬉しそうに笑った。
「寧人くんらしいですね。でも、言ったことは必ずやってくれるって、私、知ってますから」
そう言ってくれた彼女の笑顔は、やっぱり、寧人が好きなもので。
ああよかった。俺は、この人と出会えてよかった。寧人はそんな思いとともに、最後に真紀の目を見て、ゆっくりと伝える。
「この戦いが終わって、まだ俺が生きていたら。さっき言えなかった言葉を、君に言うよ」
「はい。じゃあ、頑張ってくださいね。……信じてます!」
真紀の優しく、でも心の奥のほうにまで響いてくる声が、力をくれる。
「行ってくる」
マントを翻し、再び真紀に背中を見せ、エレベーターへ向かう。
もう、振り向くことはない。次に彼女と会うのは、すべてが終わり、そして生きていたときだけだ。
優しい時間は終わった。でもその時間がくれたものがある。それを黒く硬い鋼のような魂のなかに宿す。
鋭い瞳で、世界を睨む。
エレベーターに乗り、通路を通る。
もう迷いはない。嘆きもない。代わりに体中を満たすのは、勝ちたいという意志。
前を向くその意志は、破滅をはらんでいた決意や、貫き通してきた信念と混ざり合い、輝き燃える。
悪の王として。ただの小森寧人として。
信じられる仲間たちと共に、信じてくれる人と共に。
カツカツとブーツの音を響かせて、首領室へ向かう。
たとえ、正義を敵にしても、世界を乱したとしても。それでも進むために。
「ネイト様。こちらへ」
「ああ」
首領室にはすでに連絡用のメタリカ構成員が数人待機しており、王の座へと寧人を導く。
「アンスラックス部隊近くまで、すでに敵は迫っています。もう間もなく、開戦かと」
深々と玉座に腰掛け、モニタを確認しながら、あらゆる報告を受ける。
このメタリカの要塞付近には、迎撃隊をそなえてある。ベナンテが統率し、魔獣を操るシャーマンたちで構成されたその部隊はロックスたちと言えどもそう容易く突破できるものではない。
「要塞内各セクション迎撃用意完了。対人排除システム作動」
そして要塞内の下層階にはサンタァナや改造人間を中心とした防衛人員を配置、クリムゾンのテクノロジーによる無人兵器も万全の状態だ。
「ガードナー様、新名様、ジャイルズ様はすでに持ち場についております」
さきほど別れた幹部たちもまた、最後の戦いにその身を懸ける覚悟を見せてくれた。
悪とされる者たちのすべてが、自分と共にある。
それぞれの思いを叶えるために、世界との戦いに勝つために。
そして自分はその様々な意志を束ね、率いる。
「島内全域に通信を」
寧人が腰掛けたまま部下に指示を飛ばす。すると即座に島内各所に設置してあるホログラム装置が作動し、その姿と音声が決戦の島のあちらこちらに表示される仕組みとなっている。
システムが正常に作動したのを確認し、寧人は告げる。
「よく来たな。正義の勇者ロックスの諸君!! 我が名はネイト、メタリカの首領にして悪の王!!」
黒い威厳と気迫を全開にする。島内にいる悪を鼓舞するために。正義に見せつけるために。
「……俺はこの要塞最上階でお前らを待つ」
寧人がいる首領室はメタリカ要塞の最上階だ。そこへ至る道は、あらゆる防衛装置と人員を突破しなければたどり着くことはできない。侵入者にはたとえロックスといえども地獄を見せる備えをしてある。
そして、寧人は首領室を出ない。臆したからではない
「戦略兵器による全世界無差別攻撃は三時間後に行う。……俺を止めたければ、ここまで上がってこい……! 誇り高き我が部下たちを倒してな……!!」
野戦での殲滅戦は行わない。戦いが終わったあとに生き残っているメタリカが少ないようでは戦いの意味がないからだ。
全員首領を倒しに来ればいい。時間的猶予を与えなければ他に選択肢はないはずだ。
だが、そう簡単にここまでたどり着けると思うな。
お前らは強い。だが、俺たちだって強い。
敵の要塞を攻めるのは愚策とされている。まして万全の用意と覚悟を持って待ち受ける相手ならなおさらだ。
だが、首領が要塞最上階から動かない以上、お前らはここを攻めるしかない。
焦って挑むがいい。そこに隙は出来る。そして俺には味方の誰にも明かさず最後にただ一つだけ残している切り札もある。
確実にロックスの大半を倒すことができる。だが、それでも俺の前にたどり着く者が現れるかもしれない。
それは間違いなく多くの人間にとっては世界最後の希望といえる存在だろう。
そのときは、この俺自らが直々に叩き潰し、その様を世界中に知らしめる。
希望の象徴だった英雄たちが悪の力の前に全滅。その事実をもって全世界の人間の心を折る。もう二度と、刃向う者が現れないように。メタリカが世界を支配するために。
寧人は玉座から立ち上がり、帝王のマントを靡かせる。
そして手をかざし、吼える。魂の奥底にある熱のすべてを言葉に乗せるように、歩んできた道の果てにつかんだ結論を込めるように。
憧れていた正義達にむけて、ともに世界に挑む悪党たちにむけて。
「……これが、最後の戦いだ。正義と、悪のな……!!」
それは、歴史を動かす開戦の言葉となる。
今回かなり迷いました。更新遅くてすいません。
次話「この道を進むなら相手は俺だ」
もうこっから先8割くらいは誰かが誰かと戦ってます。
悪の組織二巻が、ゆるやかに発売中です。そちらもよろしくですー。