そりゃもちろん。
「おい重田」
今、こいつはなんと言ったのだ。おい重田、そう言ったのか? 弱っちくて、口答え一つ出来ないクズ野郎のこいつが? 俺を? 元力士でメタリカの先輩である俺を呼び捨てに?
「聞こえないのかよ重田」
「…おまえ……!?」
見れば寧人の表情は、ぞっとするほど冷たかった。その瞳には闇が宿っているように見える。黒く、深い。これは、なにか恐ろしいものだ。そう感じてしまう。圧倒的に力で劣っているコイツが? 何故?
「…お前の妹さぁ、世田谷に住んでるんだな。夜19時にはバドミントン部の練習を終えて、学校から帰宅。実に模範的な女子高生だよな。でも帰り道は1人で夜歩くんだぜ。危ないよなぁ」
何を言っている。こいつは何を言っている。早く絞め落とさなければ。こいつは危険だ。
そう感じる。
「家は3丁目、部屋は二階の西向け。お前は親と縁を切ってるみたいだけど、妹は大事にしてるみたいだな。クリスマスプレゼントまでしてるなんていいやつだよお前は」
淡々と告げてくる後輩。おかしい。こいつはおかしい。
「お前が初日に教えてくれたけど。うちのロッカー、色々入ってるのな。申請書だせば爆薬とか銃まで持ち出せるとかすげぇよな」
怖かった。この弱い男が怖かった。重田は忘れていた。人が恐怖を抱くのは『強さ』だけじゃない。もっと根本的なもの、『悪意』だ。それには強さなんて関係ない。それが向けられていることそのものが怖い。
重田は学生時代から知られた不良だった。そんな経験をもつ重田にはよくわかる。こいつは『不良』なんかじゃない。『悪』だ。
「まだわかんねぇのか? この試合、相手を殺すのはダメだよなぁ。だからお前は俺を殺せない。で、俺は負けたくないんだよ」
「な、なにが言いたい…!?」
「お前が俺を倒しちゃったら、あとで俺。お前の妹に何するか、ちょっとわかんねぇわ」
ぞくり。冷酷に言い放つ寧人の声に対する自身の反応は、そうとしか言えなかった。
「…! ま、て…」
「嫌だ。今からお前を殴る。お前は殴られて倒れろ」
「な…!?」
「避けてもいいぜ。そしたら俺はすみやかに降参する。そしてそのあと」
「やめろ!!」
判断がつかない。だが少なくともハッタリには感じなかった。多分、この男は、本当にやる。それを止めようとすればまた別の方法を取ってくる。だから、止めるためにはこの男を殺すしかない。たかが職場内の模擬戦で? 冗談だろ。
「…!!」
重田という男のプライドは、これほどまでに苛烈な悪意を向けられて折れずにいられるほど、強固なものではなかった。
ゆるやかに放たれた寧人のパンチが鈍い音をたてて重田につきささり、重田はそのまま不自然に倒れ、試合は終わった。
「勝者、小森!」
主任が勝敗を決する声をあげる。良かった。上手くいったらしい。
正直どうなるかと思っていた。あーよかった。
「ふーっ…良かったー…へ…へへ」
寧人はひとまずの勝利に安堵のため息をついた。
不馴れな言動を意識的に行ったせいか、どっと疲れが出る。そしてそもそも身体中が痛い。
だが、勝ったのだ。緩やかなパンチ一発で。
敗者よりもズタボロな勝者。それでも、寧人は満足感を感じていた。…が。
「きたねぇぞ! お前!!」
重田は試合が終わってから意義申し立てをしてきた。
妹の命を人質にしやがった。こんな勝負は無効だ、そう主張している。
?? だって。あれ? ダメなの? なんで?
「え? 重田さん? なんで怒ってるんですか? だって重田さんが俺に勝たせてくれたんだから、俺もちろん妹さんには何もしませんよ!」
うん。意外と話がわかる人でよかった。そう思っているのに
「そういうことじゃねぇよ!! 汚ぇハッタリかましやがって!! こっちだって試合中にあんなこと言われたら嘘でも集中できねぇだろうが!!」
そういって食ってかかってくる重田。やばい殴られそうだ。そしたら今度こそ死ぬ。
どうすればいいんだろう。そもそもこの人は根本的に誤解している。
「よさないか重田!! 卑怯に見えるハッタリだって策略の一つだ!! メタリカらしく戦えといっただろうが!! 悪どいことも戦法のウチだ!!」
暴れる重田を主任が抑えている。この間にとりあえず逃げよう。一応勝ったんだし。まあいいだろう。
寧人がその場を離れると、間中がついてきて話しかけた
「やったな! まさか、お前があんなこと言うなんて驚いたぜ! よっしゃ! 今日は祝勝会だ!」
やや手荒ながら、祝福してくれる間中。しばらくロウを労ってくれたあと、ふと、思い出したように間中は聞いてきた。
「…なあ寧人。もし…重田がお前の言うことを無視して、お前を倒してたら…どうするつもりだったんだ?」
え? 間中さんまで何を言ってるんだろう。
「? そりゃ勿論妹さんに危害を加えましたよ」
だから俺は最初からそう言ってるのに。みんなおかしいな。
もちろんそんなことは俺だってしたくない。だから重田が折れてくれて本当に良かった。だって下手したらホントにやらなきゃいけなかったから。
寧人は気づいていなかった。自身のもつ特殊な才能が、芽生え始めていたことに。そしてその才能は、一般社会ではけして評価されることはない、真っ黒なものであることに。