こんなにも
空港に到着した寧人は、手荷物を受け取り諸々の手続きをすませると到着ロビーへ移動した。
周囲を見渡してみる。空港は混雑していたが、ツルギがいればすぐにわかるはずだ。190センチ近い長身にくわえ、あの常人ならざる雰囲気。こういうときは便利だ。
「……あれ?」
ツルギがいない。おかしいな。寧人は時間を確認してみた。間違いなくツルギに伝えていた到着時間だ。あの忠義に厚い男が遅刻してくるなど考えられない。
寧人は今回、帰国の日時をツルギにしか伝えていなかった。本社からは聞かれもしたが、ごたごたしているのではっきり決められません。近日中です。と答えていた。
それは何故かというと、渡米のときみたいにメタリカの人間が大勢出てきて出迎えられたら困ると思ったからだ。
ツルギとは早めに打ち合わせしないといけないこともあるので、今回は彼が迎えにきてくれるはずだったのだが……
まさか、ツルギの身になにかあったのか?
不安がよぎる。彼はメタリカでもトップクラスにはいる猛者だが、その分危険も多いはずだ。
寧人は携帯電話を取り出し、ツルギにコールした。幸いなことに本人はいたって普通な声で出た。
『ああ、ボス。到着しましたか。おかえりなさい』
ひとまずはホッとしつつ、寧人は尋ねる。
「ありがとう。お前、今どこにいるんだ? ロビーにいないのか?」
だが、ツルギの答えは意外だった。
「その件ですがね、ちょっと事情があって、俺は行けなくなっちまいました」
「なにかあったのか? 危険な状況なのか?」
ツルギが寧人との約束を違えるなど、尋常ならざる事態だ。寧人は表情を険しくした。
「いや……。そうですね。二日酔い、ってやつです。ああ、心配しないでください。ちゃんと、アンタの迎えは代わりを頼んでいますから。じゃあ、俺はこれで」
そういうとツルギは一方的に通話を切った。
二日酔い? たしかツルギは日本酒を一升あけても平気な男だったはずだ。そもそもとてもそんな声には聞こえなかった。
「……?」
意味がわからなくて、しばし寧人は携帯電話をみつめたまま立ち尽くす。そこに
ちょんちょん。と誰かが肩に触れてきた。なので、寧人はとりあえず振り返った。
「……あれ? 真紀さん?」
そこには、同期入社で今は開発室所属である真紀がいた。
「さっきからすぐそばにいたのに、全然気づかないんですね。ダメじゃないですかー!」
真紀はそういうと、ちょっとふざけているようにむくれて見せた。今日は土曜日でオフなのか真紀は私服だ。淡い桜色のワンピースにショートブーツ。華奢な体格も、穏やかな顔立ちも、ニューヨークで見慣れた派手目な女性たちとは違う感じで、なんだか寧人の目には新鮮に映った。
「あー、いや。うん。そうだね。油断してた。暗殺者じゃなくて良かったよ」
「そういうことじゃなくてですね。……んー。もういいです」
言葉とは裏腹に真紀は笑顔だった。なんだか不意打ちで、懐かしくて。寧人もつられて笑った。
「あ、そうだ! おかえりなさい。寧人くん」
真紀の言葉は温かくて、そして清らかだった。最初に出会ったときと同じように。
「うん。……ただいま。ごめん、ツルギにお願いされたんだよね? 休みなのに。アイツもわざわざ真紀さんに頼まなくても……」
「ううん。いいんです! 暇でしたし。それに……なんでもないです」
真紀はぶんぶんと手を振って、妙に顔を赤くした。年下の女の子の考えていることは、悪魔の策士と呼ばれる寧人にもよくわからなかった。とくにこの人はさっぱりわからない。
「? なら。いいんだけど……」
「あ、ごめんなさい。荷物もあるのに立ち話しちゃって。車で来てるんです。こっちです」
なにかを誤魔化すように、真紀は寧人の手を一瞬だけとって、人ごみから離れた。すこしだけ驚いた。
揺れる髪が綺麗で、なんだかいい匂いがした。
入社してからそれなりのつきあいをもって5年がたっていて、自分と彼女が今後、同僚以上の関係になることなどありえないことはわかっているのだが、寧人はやっぱり、すこしだけ緊張してしまうしドキドキしてしまう。そして、そんな自分をバカみたいだと笑うところまででワンセットだ。
空港の駐車場に到着して、真紀の車に乗せてもらう。寧人は車にはくわしくないが、丸っこくて小さい、すこし変わったデザインの車だった。
「ごめん。車まで出してもらって。助かるよ」
「いえいえ! じゃあ、いきましょうか」
考えてみれば、女の子の運転する車の助手席に座るのは初めてだった。二十歳までの人生は、あの父親のやったことと、その後母親がされたことのせいで散々だったし、メタリカに入ってからはそんな暇はなかった。いや、暇があっても、そんなことは出来なかっただろうけど。
車は空港から離れ、都内に向かう。寧人は今日はホテルに宿泊の予定だった。本来はツルギと打ち合わせをする予定だったが、彼がいないのならば仕事は明日からで十分だ。と、いうかそうするしかない。
車内は真紀の趣味らしい女性外国人アーティストの曲が流れている。寧人には誰のなんと言う曲なのかわからなかったが、その旋律はとても耳に心地よかった。
さらに進む車。
寧人は真紀をみてみた。彼女は運転しているので、目があうことがなくて、気が楽だった。もう20代前半のはずの彼女は、出会ったときよりも綺麗になってみえた。
「ん? ど、どうしたんですか? 寧人くん」
気づかれた。寧人はあわてて目をそらす。
「なんでもないです。あ、新東京タワー完成したんですね。おお。ほんとにスカイツリーより高い。すごいですね」
「どうして敬語なんですかー?」
「なんでもないです」
「ふふ、変なの。あ、そういえばですね。あのおでん屋さん、ついにラーメンまではじめたんですよ!」
「へー。そうなんだ。美味しい?」
「すっごく!」
そんな会話をしたりした。大抵は他愛もない会話だったが、少なくとも寧人は楽しいと感じた。
楽しい? 俺が? まるでいっちょまえに普通の人みたいなことをいうじゃないか?
そしてそんな風に思う。
「真紀さんはこの半年、どうだった?」
寧人はふと話題を振ってみた。彼女も彼女で、新型改造人間、つまり寧人がプロトタイプとなったシルエット・シリーズの開発などでかなり忙しかったようだった。
「大変だったね。すごいね」
「そんなことないですよ。自分で選んだことですから」
そう答える真紀の表情は真摯だった。控えめで穏やかな彼女だけど、そこは凛とした表情だった。
「……そっか」
彼女がメタリカに入った理由を寧人は知っている。そんな彼女と一緒に戦うと誓った。だけど。
「あ、そこのホテルじゃないですよね? すいません。夜になっちゃいましたね」
ホテルの敷地に入っていく二人の車。寧人はすこし考えた。
寧人は真紀が迎えに来てくれたことに感謝していた。
長距離の飛行機移動で疲れた状態で電車に乗らずにすんだことも勿論だが、それ以上に精神的な部分で、た。
寧人はすぐにでも次の仕事、つまりツルギの報告をきき、M会議に備えるつもりでいたし、米国での一件もあって、かなり気分がピリピリしていた。そんな自分が、ほんのすこしだけ、色々なことを忘れられた気がした。
もちろん、それは錯覚で、寧人はあくまでも目指す場所は決まっていて、進む道から離れることはない。それは分かっている。でもそんな錯覚を与えてくれた彼女に感謝していた。だから考えていた。お礼がしたかった。
もちろん、自分がこれまで歩いてきた道、これから歩く道を考えれば、今後も彼女とこれ以上親しくなるつもりはない。でもそれとこれとは別のことだ
うん、不自然じゃないよな? っていうか、むしろこの状況ならこういわないと失礼だよな。恋人同士だからだとか、狙っているとかそういうわけじゃなくて。同期入社の同僚として普通だよな? お礼がしたいんだよ俺は。だから気持ちわるくはないよな?
寧人はびくびくしながら口を開いた。
「……送ってくれてありがとう。お礼に晩飯食わない? お、俺もこれからだし、このホテル、結構旨いって、新名が言ってたよ」
「……えっ?」
意外そうなニュアンスで響く真紀のソプラノな声と一瞬の沈黙。
精神的タフさに関してはだいぶ鍛えられているはずの寧人だが、この沈黙はつらいものがあった。
「ホントにいいんですか!? じゃあ、いきます!」
真紀の弾んだ声に、寧人は心からホッとした。
※※
真紀が寧人と一緒に入ったホテルのレストランは、控えめにいっても、かなりハイクラスのものだった。
美しいホール、品のあるテーブルクロス、きらきらしたグラス。メニューの文字まで高級そうで、真紀はすこし驚いた。
「……寧人くん、ここ、なんかすごいですよ……」
「う、うん。ちょっと予想よりやばかった」
こういう場に慣れていない二人なので、食事はぎこちなくスタートした。
「食前酒はいかがなさいますか?」
ウェイターの男性が二人のテーブルにきて注文を聞いてきた。真紀は注文をどうしたらいいかよくわからなくて、あたふたしたのだが、意外にも寧人が先に答えた。
「俺はギブソンをください」
寧人がそんなお酒を頼むとは思ってもいなかった。まるで最初から決めていたかのような即答だった。洋酒なのだろうか?
あ、あれ? おかしいな。寧人くんが芋焼酎とビール以外のものを頼むの始めてみたよ。
「かしこまりました。こちらのお客様は?」
「は、はい。えーっと、あの……。なにか、おすすめ、とかありませんか?」
「そうですね。ワインでしたら……」
説明が続く。
ウエイターさんはウエイターさんではなく、ソムリエさんだったようだった。
あれ? そもそも私って、今日車だった! 真紀は久しぶりにあった寧人と食事をするという状況や、慣れていないお店の雰囲気に完全に舞い上がってわけがわからなくなっていた。
「真紀さん、飲むの?」
寧人も真紀が車できていることを気にしているらしい。心配そうな表情だった。
ああ、私ってバカみたいだ。なんて、すこしだけ真紀はシュン、とした。
「あ、いや、その、わたし……」
こうした場でソムリエさんに、やっぱりウーロン茶ください、とか言っていいものなのだろうか?
ああ、学生のときは勉強ばっかりしてたからよくわからない。……はぁ、ダメだなぁ。わたし。
真紀がそんな風に思っていると、またも寧人が意外なことを言ってきた。
「明日って朝から予定あるの?」
? どういう意味だろう? 真紀にはよくわからなかったので正直に答えた。
「いえ、別に」
「じゃあ、泊まっていけば。せっかくだからワインも飲んで」
「え!?」
一瞬、真紀の時間が止まった。
泊まっていけば? ここの、ホテルに!? え? え? え? それって……え!?
寧人くん、どうしたの? そう、思わずにはいられなかった。
「あの、それは、その……。いいん、ですか?」
「? いいよ。あ、いや真紀さんがよければだけど」
寧人はこともなげな表情だった。これまでシャイだと思っていた彼とは思えない言動だった。
真紀の心拍数があがる。まだお酒を飲んでいないのに顔が熱い。泊まっていけ、というのはつまり、そういうことなのだろうか。
どうしよう。真紀は混乱する頭で考えた。ぐるぐると色々な考えが浮かぶ。
寧人のことを自分がどう思っているか、ということくらい真紀は気づいている。彼が米国にいる間、しょっちゅう彼のことを考えていたし、今日だって胸をはずませながら迎えにいったし。食事だってとても嬉しいし楽しい。
だけど、これは急展開すぎる。レストランの雰囲気も初のことだったが、真紀はそういうことについても経験はない。MIT時代に好意を寄せてくれた人はいたが、結局なにもなかった。
「……お客様?」
二人のやりとりを聞いていたウェイターが、笑いをこらえているような表情で真紀にふたたび問いかけてきた。もう限界だった。
「は、はい。じゃあ、その、ワインをいただきます!」
「かしこまりました。では、ピノ・ノワールの……」
「それをお願いします!」
「……ぷっ、失礼いたしました。では、お持ちいたします」
今、ソムリエさんが笑ったような……。ということくらいは気づいた真紀だったが、状況的にそれを気にしてる場合ではなかった。
もちろん、彼と、そうなることを今まで考えたこともないわけではない。でも……。
「真紀さん?」
「ひゃい!」
寧人が不思議そうにこちらをみていた。色々考えすぎて、黙り込んでしまっていた自分に気づいた。なにか話さなくては。
「あ、ギ、ギブソンってどういうお酒なんですか? オシャレですね!」
「あー、うん。なんかタマネギが入ってるんだよ。けっこう美味しいよ」
「へ、へー。そうなんですか」
「ムカつくほどにイケメンなある男に教えてもらったんだよ」
二人の会話の途中、ソムリエがやってきて真紀のワインにたいしてデキャンタージュを行い、テイスティングを、などといわれ、一口口をつける。
ワインは美味しかった。あまり詳しくない真紀だったが、その香りが素晴らしいことは分かった。おかげで、すこし落ち着ついた。
寧人くんは、しばらく離れているたびにどんどん変わる。この変化もその一つなのだろうか。自分をこんな風に誘うなんて……。
そこで思い至ったことがある。
彼はアメリカに行っていた。アメリカといえば、開放的な国だ。
もしかしたらかの国で、女の子に慣れるようななにかがあったのだろうか? そういえばアニスちゃんも一緒に行っていたし
彼にかぎってそんなことはない、とも思うのだが、一度気にしだすととても気になる。食事は進んでいくが、真紀は関係のないおしゃべりをしつつも、それが頭から離れなかった。
食事が終わる段になり、最後のコーヒーを飲む間のちょっとしたタイミングで真紀は聞いてみた。さりげなく、という体で、だ。
「そ、そういえば、寧人くん、アメリカはどうだったんですか? 新名さんとか、あ、アニスちゃんとかと、仲良くしてました?」
「……」
真紀は緊張して答えを待ったが、すこし間があったので、寧人の顔をみてみた。
「……あ」
今まで、みたことのない表情だった。いや、表情は本当はすこししか変わっていない。彼は、そういう感情を隠すのがとても上手いのだ。でも真紀にはわかった。その奥にある感情が。
どこか悲しそうな。とても辛そうな。そんな表情だった。
「……寧人、くん…」
隠しきれていないその表情が、あまりにも辛そうにみえて。
真紀はそれまで自分が気にしていたことなど、全部忘れてしまった。ただ、彼に触れたくなった。
おもわず、手をのばし、彼の手にふれそうになった。
でも、その瞬間、寧人は手をテーブルの下に引っ込め、そして笑った。
「うん、色々あったよ。そうだな。アニスたちも元気そうだったよ」
一瞬沈黙した寧人だが、口を開いたときにはもういつもの顔にもどっていた。なんでもないような、ごく普通の会話に戻っていた。
「そう、ですか……」
だから、真紀はそれ以上寧人に何も聞くことが出来なかった。本当は話してほしい。でも、きっと彼は話してくれないことはわかっている。
考えてみれば当然のことだ。彼の行動理念と能力、そしてクリムゾンをおとしたという結果。それが意味すること。真紀には具体的にはわからないが、彼がそうしたのならば、その裏にはきっと、とても大きな何かがあったはずなのだ。
どうしてそれを慮ることができなかったのか。
真紀は自己嫌悪した。
「あ、遅くなっちゃったね。ごめん。ちょっと待ってて」
寧人はウェイターを呼び、カードキーを受け取った。
「はい。これ真紀さんの部屋、50階だってさ。会計は済ませてあるから。朝起きたらそのまま出ていいよ。ちなみに俺は45階の部屋だから、何かあれば連絡して」
「はい。……ありがとうございます」
ああ、そうか。そうだよなぁ。と思い、真紀はすこし恥かしくなった。
彼は、そんなこと最初から考えてもいなかった。考えてみれば、それが彼らしい。
コーヒーを飲み終え、二人はエレベーターで別れた。
一人になった真紀は部屋で夜景をみつつ思いをめぐらせた。
最初は、彼のことを優しそうで気弱な男の子だと思った。でもすぐに彼がもっている普通の人と違うものに気づいた。
『それ』は本来、嫌悪すべき要素なのかもしれないことは分かっていた。でも真紀はそんな彼が、二つの顔をもつ彼のことが気になりだした。真紀が明かした過去を受け止めて、ともに戦うといってくれた彼。
彼は『それ』をどんどん開花させていって、上へ上へと止まらず昇り続けている。
会うたびに彼は変わっていく。けして折れず、曲げず、立ち止まらずに。
そんな彼を魅力的に思う自分がいる。
そして、今日改めて気づかされた。どんどん変わっていく彼はそのたびごとに、壁を厚くしていく。最初からうっすらとはあった壁。寧人と自分の間にあるそれは、今では厚すぎて、彼に触れることが難しい。
でも、それと同じくらい真紀には分かっていることがある。彼は、高く高く上っていき、近づこうとする自分を寄せ付けない壁をもつ彼は。その壁のなかで、傷つき、震えることもある。でも彼は、抱きしめられることなど望んでいない。
真紀は夜景とともに窓ガラスに映る自分の瞳から、涙がこぼれたのに気づいた。
そして実感した。
ああ、私は。あの人が。高く駆け上がっていく強い心を持っている彼のことが、いまにも壊れてしまいそうな彼のことが。
切ないほどに。泣いてしまうほどに。
こんなにも、好きだということに。