第十三話 鍵のない部屋
きてくれてありがとうねー。
八ヶ月目に入った頃、僕はほぼルミナの家で生活していた。
ほぼ、というのは、週に一度か二度だけ自分の家に顔を出していたからだ。顔を出す、という言い方が正確かどうか分からないが、そんな感じだった。泊まるのではなく、少し寄って、シエルと話して、また戻る。それが「帰る」になっていた。
自分の家に帰る、ではなく、ルミナの家に戻る。
いつからそうなったのか、気づかなかった。
ルミナの家には、小さなルールが少しずつ増えていた。
最初は気づかなかった。一個一個が小さすぎて、ルールだとも思っていなかった。ただ、ルミナがそうしてほしいと言うから、そうしていた。
たとえば、外出する時はルミナに声をかける。
最初は「どこ行くの」と聞かれるだけだった。答えると、「じゃあ一緒に行く」か「早く帰ってきて」になった。一人で出かけることが、少しずつ減っていった。
たとえば、スマートフォンをルミナの見えるところに置く。
これはルミナが言ったわけではなかった。ある日、メッセージの通知音が鳴った時に、ルミナが「誰から?」と聞いた。シエルからだった、と言うと、ルミナが少し黙った。それから「見せて」と言った。見せると、ルミナが画面を見て、「ふうん」と言った。それだけだった。でもその日から、スマートフォンをポケットにしまわなくなった。自然に、そうなった。
たとえば、シエルへの返信を短くする。
これも、ルミナが言ったわけではなかった。ただ、シエルにメッセージを打っている時に、ルミナが隣から画面を覗き込んでくることが増えた。覗き込まれると、長い文章を打ちにくかった。だから短くなった。
どれも、強制ではなかった。
強制ではなかったから、おかしいとは思わなかった。
ある昼休み、久しぶりにクラスメイトの女子に話しかけられた。
以前、みんなで遊ばないかと誘ってくれた子だ。最近あまり話していなかった。
「アイル、最近どう? なんか、ルミナとずっと一緒にいるよね」
「うん」
「仲いいね。付き合ってるの?」
少し止まった。答えていいのかどうか、考えた。ルミナに言っていいかどうか、聞いたことがなかった。
「……まあ」
「そっかー。なんか、最近アイル変わったよね」
「変わった?」
「なんか、前と雰囲気違う。なんだろ、なんか……」女子が少し首を傾げた。「なんか、遠い感じがする」
遠い感じ。
その言葉が、胸の中で少し引っかかった。
「そう?」
「うん、なんか。前はもっと、こう、アイルって感じだったんだけど」女子が笑った。「うまく言えないんだけど。元気ならいいんだけどね」
「元気だよ」と答えた。
「ならよかった」女子が笑って、自分の席に戻っていった。
僕は少し、その言葉を考えた。
アイルって感じ。前はそういう感じだったのに、今は違う、とその子は言った。何が違うのか、具体的には言わなかった。言えなかったのかもしれない。
僕も、分からなかった。
昼休みが終わる前に、ルミナが戻ってきた。さっきの女子と話していたのを見ていたらしく、「何話してたの?」と聞いた。
「最近どうってこと」
「ふうん」ルミナが少し笑った。「何か言われた?」
「変わったって」
「そうかな」ルミナが僕を見た。「私はアイルがすごく良くなったと思うけど」
「良くなった?」
「うん。前よりずっとアイルらしくなった気がする」
アイルらしい。
さっきの女子が言った「アイルって感じじゃなくなった」と、真逆のことを言っていた。
どちらが正しいのか、僕には判断できなかった。
その夜、ルミナの部屋で横になっていた時に、珍しくシエルから電話がかかってきた。
メッセージはよく来たが、電話は久しぶりだった。ルミナが隣にいたから、少し迷ったが、廊下に出て取った。
「シエル?」
「夜遅くにすみません」シエルの声が聞こえた。「少し、話せますか」
「うん、どうしたの」
「……アイルさん、今、大丈夫ですか」
「大丈夫だけど、何かあった?」
「いえ」シエルが少し間を置いた。「ただ、声を聞きたくなっただけです」
声を聞きたくなった。
シエルがそんなことを言うのは、初めてだった。いつも遠回しで、言いたいことをなかなか言わないシエルが、そう言った。
「……なんかあったの?」と僕は聞いた。
「ないです。ただ」シエルが静かに言った。「アイルさんの声を、最近聞いていなかったので」
「ごめん」
「謝らなくていいです。……元気そうで、よかったです」
「シエルは?」
「僕は」シエルが少し止まった。「普通です」
「本当に?」
「……はい」
普通、という言葉が、少し重く聞こえた。
「今週末、帰るよ」と僕は言った。
「そうですか」
「シエルの夕飯、食べに」
電話の向こうで、シエルが少し黙った。
「……待っています」シエルが静かに言った。「おやすみなさい、アイルさん」
「おやすみ」
電話が切れた。
廊下に立ったまま、しばらくスマートフォンを見ていた。
待っています、とシエルが言った。
その言葉が、静かに、ずっと耳に残っていた。
部屋に戻ると、ルミナが起きていた。
「誰と話してたの」
「シエル」
ルミナが少し黙った。
「電話してきたの、あっちから?」
「うん」
「……何の話」
「元気かどうか、確かめたかったって」
ルミナがまた黙った。今度は少し長かった。暗い部屋の中で、ルミナの顔がよく見えなかった。
「シエルって、アイルのこと好きなんじゃない」
唐突だった。
「どういう意味」
「そのまんまの意味」ルミナが静かに言った。「声を聞きたくて電話してくるって、好きじゃないとしないじゃん」
僕は少し考えた。シエルが好き、という意味を、どう受け取ればいいか分からなかった。長い付き合いで、ずっとそばにいて、心配してくれる。それが、好き、なのかどうか。
「……家族みたいなものだから」
「家族は電話してきて声聞きたいって言わないよ」
「シエルは、そういう感じで言ったわけじゃ」
「アイルは気づいてないだけ」ルミナが言った。声が少し低かった。「あの人、アイルのことが好きだよ」
静かだった。
僕は何も言えなかった。否定する言葉も、肯定する言葉も、出てこなかった。
「……それが、どうかした?」と僕はゆっくり聞いた。
「どうかした、じゃなくて」ルミナが少し息を吐いた。「なんか、嫌だな、と思って」
「嫌?」
「うん。アイルが、私以外の誰かに必要とされるのが」
私以外の誰かに必要とされるのが嫌。
その言葉を、僕はゆっくり処理した。
おかしい、とは思わなかった。
好きな人に必要とされたいと思うのは、当たり前のことなのかもしれない、と思ったから。
「……シエルとは、そういう関係じゃないよ」と僕は言った。
「本当に?」
「本当に」
ルミナが少し黙ってから、「……そっか」と言った。「ごめん、変なこと言って」
「変じゃない」
「変だよ」ルミナが苦笑いした。「でも、アイルには正直に言いたくて」
「うん」
「……シエルとの電話、これからは私がいる時はしないでほしい」
静かに、言った。
怒っているわけではなかった。責めているわけでもなかった。ただ、お願いするような声だった。
僕は少し間を置いた。
おかしい、とは思わなかった。
ルミナが不安になるなら、そうすればいい、と思った。
「……分かった」
ルミナがほっとしたように息を吐いた。「ありがとう」と小さく言った。
僕は横になった。天井を見た。
待っています、というシエルの声が、また耳に浮かんだ。
今週末、帰ると言った。シエルが待っていると言った。
帰れるといいな、と思いながら、目を閉じた。
帰れるといいな。
自分の家に帰ることを、そんな風に思うようになっていたことに、その時は気づかなかった。
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