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第十一話 家の匂い

きてくれてありがとうねー。

ルミナに「半分住む感じで」と言われてから、一週間ほど経った。

僕はまだ、答えを出していなかった。

出せなかった、の方が正確かもしれない。ルミナは急かさなかった。「焦らなくていい」と言った通り、その話題を再び持ち出すことはなかった。でも、毎朝学校で会う時の目が、少し期待しているような色をしていた。

僕はその目を見るたびに、少し何かが動いた。

答えを出さなければ、という感覚ではなかった。ただ、ルミナが待っている、という感覚が、どこかにあった。

その週の水曜日、珍しく家に早く帰った日があった。

ルミナが体調を崩して、学校を早退したからだった。放課後に会えないのは久しぶりで、なんとなく手持ち無沙汰だった。まっすぐ家に向かって、玄関を開けると、懐かしい匂いがした。

懐かしい、というのが正確かどうか分からない。毎日帰っていた頃には、当たり前すぎて気づかなかった匂い。木と、少しの埃と、シエルが淹れるお茶の匂いが混ざったような、そういう匂い。

「おかえりなさい」

リビングからシエルの声がした。今日は早いですね、とは言わなかった。ただ、おかえり、だけだった。

「ただいま」

リビングに入ると、シエルがキッチンに立っていた。何かを切っている音がした。

「夕飯、食べますか」

「食べる」

「珍しい」

少し棘のある言い方だった。シエルがそういう言い方をするのは珍しかった。でも責める感じではなかった。ただ、事実を言っただけのような。

「……最近、帰ってなかったから」

「そうですね」

「ごめん」

シエルが少し手を止めた。

「謝らなくていいです」シエルが静かに言った。「アイルさんが決めてることですから」

決めてること。

その言葉が、少し引っかかった。決めている、という自覚が、僕にはあまりなかった。ただ、流れの中でそうなっていた。でもシエルからすると、僕が決めていることに見えるのかもしれない。

「……シエルは、どう思ってる」

「何を、ですか」

「僕がルミナの家にいることが多いこと」

シエルがまた手を止めた。今度はさっきより長く。

「……正直に言っていいですか」

「言ってほしい」

シエルが包丁を置いた。こちらを向いた。

「心配しています」

「何が」

「色々、です」シエルが言葉を選ぶように言った。「アイルさんの帰りが遅くなったこと。泊まることが増えたこと。一人称が変わったこと。服が変わったこと。……全部、少しずつです。一個一個は、大したことじゃないかもしれない」

「うん」

「でも、全部合わさると」シエルが少し目を細めた。「アイルさんが、どこかに引っ張られているように見える」

引っ張られている。

その言葉を、僕は頭の中で転がした。引っ張られている、という感覚は、自分にはなかった。ただ、いつの間にかそうなっていた。流れに乗っていただけで、誰かに引っ張られた感じはしなかった。

「引っ張られてるとは思わないけど」

「そうですか」シエルが視線を落とした。「ならいいです」

「ならいいですって、納得してる?」

「……してないです」シエルが正直に言った。「でも、アイルさんが大丈夫だと言うなら、僕には何も言えない」

「言えないじゃなくて、言っていい」

「……言っても、届かない気がして」

その言葉が、静かに胸に落ちた。

届かない。シエルが言いたいことを言っても、僕に届かない気がする、とシエルは思っている。

「届くかどうかは、言ってみないと分からないじゃない」

シエルが少し目を見開いた。また、驚いたような顔だった。

「……そうですね」シエルが静かに言った。「そうかもしれないです」

「じゃあ、言って」

シエルが少し間を置いた。

「……今日は、言えないです」シエルがゆっくり言った。「まだ、整理できていないので。でも、いつか」

「いつか」

「言います。ちゃんと」

約束みたいだった。シエルが約束をするのは珍しかった。

「分かった」と僕は言った。「待ってる」

シエルがまた少し止まった。それから、包丁を持ち直した。

「夕飯、もう少しで出来ます」

「うん」

夕飯は、野菜炒めだった。

シエルの料理は上手くはないが、まずくもない。いつも同じくらいの味がする。それが、なんとなく安心した。

二人でテーブルを挟んで食べた。会話は少なかった。でも、静かで、悪くなかった。

ルミナの家での夕飯とは、少し違う静けさだった。ルミナの家は賑やかだった。ルミナの母が話しかけてきて、ルミナが笑って、僕も笑った。それも悪くなかった。

でも、シエルと二人で食べる夕飯の静けさも、好きだった。

好きだった、と気づいたのは、この夜が初めてだった。

食後、リビングでしばらく過ごした。

シエルが本を読んでいた。ページが、少しだけ進んでいた。珍しかった。

「シエル、今日は本読めてるね」

「そうですか」シエルが少し目を細めた。「今日は、落ち着いているので」

「いつもは落ち着いてないの」

「……まあ」

窓の外は暗くなっていた。今日はここに泊まる。ルミナの家ではなく、自分の家に。当たり前のことのはずなのに、少し新鮮な感じがした。

「シエル」

「なんですか」

「明日も、夕飯作ってくれる?」

シエルが本から顔を上げた。

「……作りますよ。毎日作れますよ」

少し、責めているような言い方だった。でも目は責めていなかった。どちらかというと、嬉しそうな目をしていた。

「ありがとう」

「どういたしまして」

シエルがまた本に目を落とした。今度もページが進んでいた。

僕はソファに横になって、天井を見た。

ルミナから、夜にメッセージが来た。『体調少し良くなった。明日会えるね』と。

良かった、と思って返信した。

スマートフォンを置いてから、この家の匂いをまた感じた。木と、埃と、シエルのお茶の匂い。

帰ってきた、という感じがした。

ただ、それと同時に、ルミナが「半分住む感じで」と言ったことを思い出した。

二つの場所があって、どちらも、僕の場所だった。

でも、どちらかを選ぶことになるとしたら。

そこまで考えて、やめた。

今夜は、ここにいる。それだけでよかった。

眠る前、自分の部屋で天井を見ていると、シエルが「おやすみなさい」と言って部屋を出た。

ドアが閉まる音がした。

静かだった。

ルミナの家で眠る時とは、違う静けさだった。自分の部屋の静けさ。慣れた天井。慣れた匂い。

眠れるかどうか、少し心配だった。最近、自分の部屋で眠れない夜が続いていたから。

でもその夜は、あっという間に眠れた。

夢も見なかった。

ただ、朝になっていた。

面白かった人は続きも見てね〜!

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