50秒間の恋人
「一緒に全国行こうね」
無邪気な笑顔で君が言った言葉が今でも俺の耳に残っている。
今から遡ること1年。高校2年の夏、俺は親友を亡くした。その親友は水泳部の女子だ。彼女は小学生の頃から全国大会に何度も出場した実力者だった。俺はそんな彼女に憧れ、ひたすら泳いできた。彼女とは中学1年の頃からずっと一緒にいる。中学も同じで、同じ高校に進学した。俺にとって彼女と一緒に過ごす日々は当たり前だったが、彼女が交通事故に遭い、その日々の本当の価値を知った。
俺は今年の夏、100m自由形で人生初の全国大会出場となる夏季ジュニアオリンピックの出場を目指している。標準記録の50秒10まであと0.7秒だ。しかし、ずっと不調が続いており、ベストタイムが出ていない。JOへ出場する最後のチャンスとなる大会がもう明日に迫っている。
「本当に切れるのかな…」焦燥感に駆られる俺の耳元で声が囁いた。
「大丈夫。絶対できるよ。」
それはどこか懐かしい、聞き覚えのある優しい声だった。しかし、辺りを見回しても誰もいない。まさか、そんな訳ないよな。勉強してても集中できないし、いつもより早いが、明日に備えて寝るとしよう。数Ⅲの参考書を閉じて部屋の明かりを消した。
「おやすみ。」そんな声が聞こえた気がした。きっと母親の声だろう。最近寝不足気味だったよな。
夢を見ている。親友と二人並んで雨の降る暗い夜道をひたすら歩いている。時間が経つと雨は止み、夜が明けた。
目を覚ました。午前5時30分。起きると隣には「おはよう」と言ってにこりと微笑む彼女がいた。俺はこれが現実かどうかわからなかった。両親は寝ているので、朝食は自分で用意した。彼女の分も用意しようとしたが、大丈夫だと言われた。
電車に乗って試合会場に向かう。彼女と2人で改札を通る。あれ?あいつ今、お金とか切符とか持ってたっけ?少し不思議に思いながら電車を待つ。電車に乗りながら考える。このプールへ何度足を運んだのだろうか。しかし今年の夏で水泳は引退。このプールで泳ぐのも最後だろう。少し感慨深い。電車の中で彼女とは何を話したのかは覚えていない。
会場でいつも通りウォーミングアップをしてレースに備える。時間になって召集場へ向かう。彼女はプールサイドまで一緒に来るみたいだ。しかし、男子しかいないはずのこの場所で誰も彼女の存在に気づかない。
自分の組のレースが始まる直前に俺は彼女に
「JOを切ったら俺と恋人になって欲しい。」
と伝えた。
「喜んで。」
彼女はそう告げた。彼女は笑顔で「ファイト!」と言ってくれた。そういう無邪気な笑顔が好きだった。でも、思いを伝える前に君はーーー。
スタート台に立ち、プールを見渡し、深呼吸。2回手を叩き、2回胸板を叩く。いつものルーティンだ。静まり返る。
Take your marks…
スタートの合図がなり響いた。俺の全てを賭けた50秒間のレースが始まった。思い切りスタート台を蹴り、水に飛び込んだ瞬間、余計な考えやさっきまでの緊張も全て消えていた。ドルフィンキックはいつも通り12m。大きなストロークで焦らずに。25mのターンをする。いつも通りドルフィンキックは4回。50mのターンをする。少し水が重く感じる。このままじゃいつもと変わらないタイムしか出ない。JO切れないかもしれない。一瞬頭をよぎった不安を振り払う。不安なときも彼女はいつも俺のそばにいてくれた。いつも俺に寄り添ってくれた。海の見える駅のベンチで、暗くなるまで他愛もない話をしたことだってあった。 俺はそんな日々が好きだったんだ。75mのターンをする。ラストスパートだ!ドルフィンキックをいつもより1回多く。いつもなら呼吸してしまう浮き上がり後の1かき目。今回は我慢だ。全身が張り裂けるくらいにきつい。あのときの声がよみがえってくる。初めて彼女と話したとき、「一緒に全国行こうね」と言われた。
そうだ。約束したんだ。
俺が憧れていたのは、俺が今まで水泳に燃やした熱量は全てーーー
俺は全国に行きたい。
その一心で必死に腕を回してキックを打った。そして思い切りタッチ板にゴールタッチをした。水面から顔を上げ、ゴーグルを外し、電光掲示板を見る。
49.98
という数字が光っている。ついにJOを切り、50秒を切った。18年弱の人生で1番嬉しかった。これまで水泳に打ち込んできた日々の全てがまるで走馬灯のようによみがえり、思わず涙が込み上げてきた。
プールから上がると、さっきまでそこにいたはずの彼女の姿は無かった。
「おめでとう。頑張ったね。」
どこか懐かしくて優しい声が聞こえた気がした。




