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過労死したので、異世界では定時退勤します ~魂籍番号が見える私、偽聖女の不正を暴いたら神殿で正規雇用されました~

作者: マイコ
掲載日:2026/01/19

「セシリア・フォン・ヴァイスガルテン。貴様との婚約を、ここに破棄する」


金髪碧眼の王子様が、満場の貴族たちの前で高らかに宣言した。


……え、今なんて?


私はぼんやりと目を瞬かせた。意識が覚醒してから、体感でおよそ三十秒。状況把握が全く追いついていない。


(待って。待ってください。私、確か残業中に倒れて——Loss of Life? いや人生ロストした記憶があるんですけど)


きらびやかなシャンデリア。豪奢なドレスを纏った令嬢たち。そして私を指差して糾弾する、絵に描いたような王子様。


記憶が、二重に存在している。


佐藤美咲、三十二歳。市役所マイナンバー担当課、過労死。


セシリア・フォン・ヴァイスガルテン、十八歳。伯爵令嬢、婚約破棄真っ最中。


(異世界転生……? いや、そんなことより)


「聖女ミレーヌに酷い嫌がらせをしたこと、もはや言い逃れはできまい!」


王子の隣で、蜂蜜色の巻き毛の少女がしくしくと泣いている。翠緑の瞳に涙を溜め、控えめに王子の袖を掴む姿は、なるほど『守ってあげたい系』の極致だ。


私は彼女を見上げた。


——瞬間、視界に『それ』が浮かんだ。


【魂籍番号:4721-8834-5591】

【状態:重複エラー 別魂籍との競合を検出】

【警告:不正な番号使用の可能性】


赤い警告文字が、聖女の頭上で点滅している。


(……は?)


私は無意識に目を細めた。前世の癖だ。マイナンバーの照合で不審な点を見つけた時、いつもこうしていた。


見間違いかと思い、王子の方を見る。


【魂籍番号:1001-0001-0003】

【状態:正常】

【属性:王族・第一継承権保持者】


……王子は正常。番号も綺麗に整列している。


周囲の貴族たちにも、それぞれ12桁の番号が浮かんでいる。全員、青い正常表示。


聖女だけが、赤い。


「セシリア! 聞いているのか!」


王子の怒声が響く。私は彼女の番号をもう一度確認した。


重複エラー。別の魂と番号が被っている。つまり——


「——あの」


私は、ごく事務的な声で口を開いた。


「その方の番号、別の魂と被ってますよ」


場が、凍りついた。


「……何?」


王子の顔から表情が消える。聖女の泣き顔が、一瞬だけ強張った。


「魂籍番号4721-8834-5591。現在、重複エラーが発生しています」


私は淡々と続けた。前世で何千回と繰り返した、窓口対応の声だ。


「届出上の名義と、実際の魂が一致していません。——身元詐称の疑いがあります」


「な、何を言って……!」


聖女が声を上げる。だが私は彼女ではなく、王子を見た。


「殿下。婚約破棄の届出は、正規の書類をお持ちですか?」


「は……?」


「口頭での宣言には法的効力がありません。まずは書類の確認をさせていただきたいのですが」


王子が目を見開く。聖女の顔が、一瞬だけ据わった。


その時——


「おお、これは……!」


老いた声が、静まり返った広間に響いた。


白髪の老人が、杖をつきながら人混みを掻き分けてくる。神官服を纏った彼の頭上には、


【魂籍番号:0001-0000-0007】

【状態:正常】

【属性:神殿大神官・魂籍管理権限保持者】


ゼロが多い。明らかに特別な番号だ。


「『魂籍の目』……まさか、この時代に現れるとは」


老人は私の顔を覗き込み、皺だらけの顔で笑った。


「お嬢さん。あなたには、人の魂番号が見えておられるのですな?」


私は頷いた。


「……ええ。全員分」


老人——大神官テオドールは、深く息を吐いた。


「百年ぶりじゃ。いや、百五十年か。失われた神託能力の継承者が現れるとは」


「神託能力……?」


「『魂籍の目』。全ての魂に刻まれた神の記録を読む力。そして——」


大神官は、聖女を振り返った。


「不正を、見抜く力じゃ」


聖女の顔が、蒼白になった。


(……なるほど)


私は内心で溜息をついた。


(異世界転生して、特殊能力持ち。婚約破棄の現場で、偽物を暴く展開)


完全に、『なろう系』のテンプレートだ。


(帰りたい)


心からそう思った。が、同時に——前世の血が騒ぐのも感じていた。


不正申告。届出と実態の乖離。身元詐称。


それらを見逃すと、後で自分の仕事が増えるのだ。


「大神官様」


私は、諦めに似た声で言った。


「この件、調査が必要かと思います。——届出の照合を、させていただけますか?」


大神官が、満足げに笑った。


「もちろんじゃ。いや、素晴らしい。久方ぶりに、仕事のできる者が現れた」


(仕事……)


私は遠い目をした。


(過労死したのに、また仕事か……)


だが、文句を言う暇はなかった。


「お待ちください!」


聖女が、涙声で叫ぶ。


「私は本物の聖女です! この女の言葉を信じるのですか!?」


私は彼女を見た。——赤い警告表示は、まだ点滅している。


「信じる信じないの問題ではありません」


私は、窓口で何度も言った台詞を口にした。


「届出と実態が違う場合は、確認が必要です。それだけのことですよ」


聖女の瞳が、一瞬だけ憎悪に染まった。


——だがすぐに、涙で覆い隠される。


「殿下……! 私を、信じてくださいますわよね……?」


王子が、困惑した顔で私と聖女を交互に見る。


(……その目、母親に助けを求める子供みたいですね)


私は内心で呟いた。だが、口には出さない。


「では、大神官様。書類の確認をお願いしてもよろしいですか」


「うむ。神殿の記録庫に、全ての魂籍台帳がある。——おお、そうじゃ」


大神官は、にっこりと笑った。


「お嬢さん。君を『魂籍管理官』に任命しよう。神殿付きの正規職じゃ」


「……は?」


「給与は神殿規定に準ずる。福利厚生も完備しておる。——それと」


大神官は、私の肩をぽんと叩いた。


「定時退勤を推奨しておるよ、うちは」


——その瞬間、私の心は決まった。


「謹んでお受けいたします」


即答だった。


定時退勤。なんと甘美な響きだろう。


「お、お待ちください殿下! セシリアを連れて行かせるおつもりですか!?」


聖女が縋りつく。王子は、まだ呆然としている。


私は二人に向かって、完璧な社交辞令を述べた。


「殿下。婚約破棄の件は、正式な書類が届き次第対応いたします。届出は窓口までお持ちください」


振り返る。


きらびやかな舞踏会場。凍りついた貴族たち。そして——私の頭上にも、きっと番号が浮かんでいるのだろう。


(まあ、いい)


私は歩き出した。


(とりあえず、定時で帰れる職場を確保した。それが最優先だ)


——後ろで、聖女の番号がちかちかと点滅しているのが、視界の端に映っていた。



◇ 第二章 神殿の石像と菓子の交渉


神殿に着いて三日目。


私は積み上がった羊皮紙の山を前に、深く溜息をついた。


「……五百年分、未整理?」


「いやあ、前任者が三百年前に引退してのう。それ以来、誰も手をつけておらなんだ」


大神官テオドールが、申し訳なさそうに——いや、全然申し訳なさそうじゃない顔で言う。


(この古狸……!)


私は心の中で叫んだ。定時退勤推奨とか言っておいて、この書類量。詐欺だ。完全に詐欺だ。


「お嬢さん、お茶をどうぞ」


「……ありがとうございます」


差し出されたカップを受け取る。いい香りだ。——が、今はそれどころではない。


「大神官様。確認ですが」


私は羊皮紙の山を指差した。


「これを整理すれば、王国全体の魂籍台帳が完成する。そういう認識でよろしいですか」


「うむ。そして台帳が完成すれば、不正な番号の使用者も一目瞭然じゃ」


「……あの聖女の件も」


「もちろん。おそらく、彼女だけではないじゃろうがね」


大神官の目が、一瞬だけ鋭くなる。


——この老人は、何かを知っている。


私は確信した。が、今は追及しない。まずは書類だ。書類を片付けなければ、何も始まらない。


「分かりました。着手します」


「おお、頼もしい。——ところで」


大神官が、にっこりと笑った。嫌な予感がする。


「護衛をつけさせてもらうよ。魂籍管理官は、狙われやすい立場じゃからね」


「護衛……?」


「入りなさい」


扉が開く。


——そして私は、見上げた。


長身。漆黒の鎧。銀灰色の髪。無表情な、彫刻のような顔。


【魂籍番号:0001-0001-0002】

【状態:正常】

【属性:神殿騎士団長・聖剣継承者】


「ヴェルナー・クロイツじゃ。神殿騎士団長でね」


紹介された青年は、微動だにしない。瞬きすらしていないのでは、と疑うレベルだ。


「……よろしくお願いします」


私が頭を下げると、彼はようやく口を開いた。


「……ああ」


それだけ。


(……コミュニケーション能力、大丈夫?)


内心で突っ込む。が、番号を見る限り、彼は正常だ。むしろ、かなり高位の存在らしい。


「ヴェルナーは口数が少なくてね。『神殿の石像』と呼ばれておる」


「……余計」


ヴェルナーが、小さく呟いた。どうやら不本意らしい。


「まあまあ。セシリアお嬢さんの護衛、しっかり頼んだよ」


大神官がぱたぱたと手を振って退出していく。残されたのは、私と、無口な騎士と、五百年分の書類の山。


「……」


「……」


沈黙が降りる。


(気まずい……!)


私は咳払いをした。


「あの、ヴェルナー様。私はこれから書類整理を——」


「ヴェルナーでいい」


「え?」


「……敬称は、不要」


淡々とした声。表情は変わらない。だが、何となく——居心地悪そうに見えた。


「分かりました。では、ヴェルナー」


呼び捨てにすると、彼の肩がわずかに揺れた。……反応が分かりにくい人だ。


「私は書類整理をします。危険なことはしませんので、そちらで休んでいてください」


「……任務だ」


「は?」


「傍にいることが、任務だ」


言って、彼は壁際に立った。直立不動。本当に石像みたいだ。


(……まあ、いいか)


私は諦めて、書類の山に向き合った。



三時間後。


「——ここの番号、転記ミスですね。修正が必要です」


私は羊皮紙に赤インクで印をつけ、脇に避けた。整理済みの山が、少しずつ高くなっていく。


「この家系は断絶。こっちは統合。これは……あ、届出漏れ」


淡々と作業を進める。前世の記憶が、驚くほど役に立っていた。


戸籍、住民票、マイナンバー。形式は違えど、本質は同じだ。誰が、いつ、どこで生まれ、誰と繋がり、どんな属性を持つか。それを記録し、管理する。


「……」


ふと、視線を感じた。


顔を上げると、ヴェルナーがじっと私を見ていた。


「何か?」


「……いや」


彼は目を逸らす。だが、すぐにまた視線が戻ってくる。


(……何?)


不審に思いつつも、作業を続けた。



さらに二時間後。


「——終わった」


私は羽ペンを置き、伸びをした。腰が痛い。目も疲れた。だが、達成感がある。


「五百年分のうち、直近百年分は完了です。残りは明日以降で」


「……」


ヴェルナーが、何か言いたげに口を開いた。が、すぐに閉じる。


「どうかしましたか?」


「……いや。その」


彼は珍しく、言葉を探しているようだった。


「……三日で、百年分」


「ええ。まだ序盤ですが」


「……すごい」


ぼそり、と呟かれた。


私は目を瞬かせた。——今、褒められた?


「いえ、これくらいは普通ですよ。前の職場では——」


言いかけて、止まる。『前世では』とは言えない。


「……慣れてますので」


「……そうか」


ヴェルナーが頷く。その深い紫の瞳が、わずかに柔らかくなった——ように見えた。


(……気のせいかな)


私は立ち上がり、窓の外を見た。日が傾いている。


「今日はここまでにします。——そうだ」


振り返る。


「大神官様に報酬の交渉をしたいのですが、どこにいらっしゃるか分かりますか?」


「……報酬?」


「ええ。お菓子を要求しようと思って」


「……菓子」


ヴェルナーが、きょとんとした顔をした。


無表情の鉄仮面が崩れた瞬間、意外と幼い顔立ちが覗く。——少し、可愛いと思ってしまった。


(……いや、何を考えているんだ私は)


首を振り、思考を追い払う。


「甘いものが好きなんです。定時退勤と、週に一度の菓子。それが私の最低条件です」


「……」


ヴェルナーが、何か言いたげに口を開く。また閉じる。そしてようやく、


「……俺も」


「え?」


「……俺も、甘い物は、嫌いではない」


(……えっと)


私は首を傾げた。


(これ、『一緒に食べたい』ってこと……?)


「じゃあ、今度一緒に——」


「セシリアお嬢様ーーー!!」


扉が勢いよく開いた。


ふわふわの亜麻色の巻き毛。琥珀色の瞳。満面の笑み。


「ルシア……?」


妹だ。私の妹、ルシア・フォン・ヴァイスガルテンが、勢いよく駆け込んできた。


「お姉様! お姉様がお仕事を始めたと聞いて!」


「ちょっと、走ると危ない——」


「お姉様のお仕事を応援しに来ましたの!」


彼女は私に抱きつき、それからヴェルナーを見上げた。


「あら」


きょとん、と目を丸くする。そして、


「——お姉様にお似合いですわ!」


「は?」


「お姉様! この殿方、とてもよろしいのではなくて!?」


「いや、待って、彼は護衛で——」


「護衛ですって!? 常に傍にいるということですわね!? 素敵!」


ルシアが目を輝かせる。ヴェルナーが、微妙に後退した。


「あの、ルシア」


「お姉様の事務処理速度は王国一ですのよ?」


妹は、何故かヴェルナーに向かって胸を張った。


「三日で百年分の書類を整理なさったんですの! すごいと思いません?」


「……すごいと、思う」


ヴェルナーが、真顔で頷いた。


「でしょう!? お姉様は最高なんですの!」


(……何この状況)


私は頭を抱えた。


シスコンの妹と、無口な騎士。異世界転生と、魂番号。偽聖女と、陰謀の予感。


——私はただ、定時で帰りたいだけなのに。


「ところでお姉様」


ルシアが、急に真顔になった。


「あの偽聖女、動き始めましたわよ」


「……何?」


「お姉様の悪い噂を流し始めていますの。『魂籍の目など嘘だ』『セシリアは詐欺師だ』って」


ヴェルナーの気配が、一瞬で変わった。


殺気——とまでは言わないが、明確な警戒の色が浮かぶ。


「……そうですか」


私は溜息をついた。


(やっぱり、そう来るよね)


不正を暴かれそうになった人間が取る行動は、いつの世界でも同じだ。


隠蔽。攻撃。印象操作。


「……証拠を集めます」


私は、羊皮紙の山を見つめた。


「彼女の魂籍番号が不正である証拠。そして——」


視線を上げる。


「彼女に番号を奪われた、本当の持ち主を探します」


沈黙が落ちた。


ヴェルナーが、静かに頷く。ルシアが、拳を握りしめる。


「……手伝いますの、お姉様」


「……俺も」


二人の言葉に、私は小さく笑った。


(……まあ、仕方ないか)


定時退勤の夢は、少し遠のいたかもしれない。


でも——不正を見逃すと、後で自分の仕事が増える。


それは、前世から変わらない真理だった。


「では、残業確定ですね」


私は、新しい羊皮紙を手に取った。


「——届出と実態の照合、開始します」



◇ 第三章 本物の聖女と修正申告


一週間後。神殿の一室。


「——以上が、魂籍番号4721-8834-5591の照合結果です」


私は報告書を大神官に手渡した。厚さ三センチ。証拠書類、時系列整理、関係者一覧。全て網羅してある。


「ほう」


テオドール大神官が、ページをめくる。皺だらけの顔に、感心の色が浮かんだ。


「これは見事じゃ。……して、結論は?」


「偽聖女ミレーヌ・シャルロットの魂籍番号は、十五年前に改竄されています」


私は淡々と続けた。


「本来の保持者は別に存在します。孤児院出身の少女——オリヴィア・メルセン」


大神官の目が、すっと細くなった。


「場所は?」


「王都郊外の修道院です。現在も、そこで働いているようですが……」


私は言葉を切った。


「本人には、聖女である自覚がありません。魂籍が奪われた時、幼すぎたのでしょう」


「ふむ……」


大神官は顎に手を当て、考え込んだ。


「会いに行く必要があるのう」


「そのつもりです。——本日中に」


「相変わらず仕事が早い」


大神官が笑う。その時、背後で気配が動いた。


「……俺も行く」


ヴェルナーだ。壁際に立っていたはずの彼が、いつの間にか私の隣にいた。


「護衛、だから」


「……分かりました」


私は溜息混じりに頷いた。この一週間、彼はずっと傍にいた。仕事中も、食事中も、休憩中も。


正直、最初は窮屈だった。が——慣れてしまった自分がいる。


(……まあ、いい。仕事を優先しよう)


余計な思考を振り払い、私は立ち上がった。



修道院は、王都の喧騒から離れた静かな場所にあった。


古びた石造りの建物。手入れされた菜園。質素だが、清潔な空気が漂っている。


「セシリア様でいらっしゃいますか」


出迎えた修道女が、私を見て頭を下げた。


「オリヴィアを呼んで参ります。少々お待ちください」


待つこと数分。


「……あの、お呼びでしょうか」


おずおずと現れたのは、地味な灰色の修道服を纏った少女だった。


くすんだ茶髪の三つ編み。そばかすの浮いた素朴な顔。自信なさげに伏せられた目。


だが——私には見えた。


【魂籍番号:4721-8834-5591(本来の保持者)】

【状態:剥奪状態 運命属性の大部分が欠損】

【警告:聖女因子、強制的に休眠中】


彼女の頭上で、番号が——純白に、輝いていた。


「オリヴィア・メルセンさんですね」


私は事務的に確認した。少女がびくりと肩を揺らす。


「は、はい……あの、私、何か……」


「あなたが本物の聖女です」


単刀直入に告げた。


少女の目が、点になった。


「……え?」


「魂籍番号4721-8834-5591。聖女因子を持つ唯一の番号です。現在、別人に不正使用されていますが——本来の保持者はあなたです」


「……は、はぁ」


少女は困惑した顔で、私とヴェルナーを交互に見た。


「あの……何かの、間違いでは……」


「間違いではありません。届出上、あなたが聖女です」


「届出って……」


「神が定めた魂の記録です。——ここに、書類があります」


私は鞄から羊皮紙を取り出した。魂籍台帳の写し。赤インクで、彼女の番号が丸で囲んである。


「読めますか?」


「は、はい……えっと……」


少女は羊皮紙を覗き込み、そして——目を見開いた。


「……私の、名前が……」


「そうです。あなたの魂籍番号と、属性が記録されています。——『聖女因子保持者』と」


少女は呆然と羊皮紙を見つめていた。その瞳に、じわりと涙が滲む。


「でも……私、何も、特別なことなんて……」


「自覚がないのは当然です。三歳の時に番号を奪われています。聖女としての力は、封じられていました」


「奪われ……?」


「はい。——あなたの番号を使っているのが、偽聖女ミレーヌ・シャルロットです」


少女の顔が、蒼白になった。


「……あの方が……?」


そして、信じられない言葉が飛び出した。


「でも、あの方も何か事情が……」


(……は?)


私は思わず二度見した。


(自分の運命を奪った相手を、庇う……?)


「あの、オリヴィアさん」


「はい……?」


「怒らないんですか?」


「え……」


少女は首を傾げた。心底、意味が分からないという顔だ。


「だって……私、聖女じゃなくても、幸せでしたから……」


修道院を見回す。質素な建物。働く修道女たち。穏やかな日差し。


「ここで暮らせて、ご飯も食べられて、皆さん優しくて……それで、十分だと思って……」


(……この子、本気で言ってる)


私は頭痛を感じた。聖人か。聖人なのか、この子は。


「オリヴィア」


不意に、ヴェルナーが口を開いた。


少女がびくりとする。彼の低い声は、確かに威圧感がある。


「……お前の番号を取り戻す」


「え……」


「奪われたものは、返してもらう。——それが、正しい」


ぶっきらぼうな言葉。だが、その声には——不思議な温かさがあった。


少女は目を瞬かせ、そして——小さく、微笑んだ。


「……ありがとう、ございます」


私は二人を見つめた。


(……この騎士、意外とコミュニケーション取れるじゃない)


少し、意外だった。


「では、オリヴィアさん」


私は咳払いをして、話を戻した。


「神殿で正式な手続きを行います。——修正申告、してください」


「しゅ、修正申告……?」


「あなたの魂籍を、正しい状態に戻す手続きです。届出と実態が違いますからね」


少女は困惑した顔で、私を見た。


「あの……よく分からないんですけど……」


「大丈夫です。書類は私が作ります」


私は鞄から、新しい羊皮紙を取り出した。


「あなたは、ここにサインするだけでいいですよ」



翌日。神殿の大広間。


「——以上をもって、魂籍番号4721-8834-5591の正式な保持者を、オリヴィア・メルセンと認定します」


大神官の宣言が響いた。


広間には、神殿の高位神官たちが集まっていた。そして——


「お待ちください!」


甲高い声が響いた。


ミレーヌ・シャルロット。偽聖女が、王子を伴って乗り込んできた。


「これは何の茶番ですか!? 私が聖女です! この女は詐欺師です!」


「ミレーヌ様」


私は淡々と応じた。


「あなたの魂籍番号は、十五年前に改竄されています。証拠書類はこちらに」


分厚いファイルを掲げる。偽聖女の顔が引きつった。


「で、でたらめです! 殿下、この女を——」


「待て、ミレーヌ」


王子が、珍しく自分で声を上げた。


「その……証拠というのは、本当なのか?」


「本当です、殿下」


私は頷いた。


「改竄の実行日時、関与した神官の名前、そして——改竄を指示した人物の名前も、記録されています」


場が、凍りついた。


「……誰だ」


王子の声が、かすれていた。


「エレオノーラ王妃殿下」


私は事務的に告げた。


「王妃様が、十五年前にこの改竄を指示されています」


沈黙が落ちた。


王子の顔から、血の気が引いていく。偽聖女が、目を泳がせる。


「……嘘だ」


「嘘ではありません。証拠書類をご確認ください」


私はファイルを差し出した。


「届出と実態が違う場合は、修正が必要です。——殿下も、ご確認いただけますか?」


王子は、震える手でファイルを受け取った。


ページをめくる。その目が、どんどん大きくなっていく。


「……これは……」


「王国全体の魂籍台帳の照合結果です。——王妃殿下の関与が疑われる不正は、これだけではありません」


私は告げた。


「詳細は、後日改めてご報告いたします。——本日は、聖女の認定のみ行わせていただきます」


大神官が頷く。


「では、改めて宣言しよう。——本物の聖女は、オリヴィア・メルセンである」


広間に光が満ちた。


オリヴィアの頭上で、魂籍番号が——金色に輝き始めた。


「……あ」


少女が、自分の手を見つめる。淡い光が、彼女を包んでいた。


「これが……私の……」


「あなたの力です。——ようやく、本来の持ち主に戻りました」


私は小さく息をついた。


一つ、仕事が片付いた。


——だが、これはまだ序章に過ぎない。


偽聖女の向こうに、王妃がいる。そしてその向こうに——王国全体を蝕む、巨大な不正がある。


(……残業、確定だな)


私は、心の中で溜息をついた。


隣で、ヴェルナーが静かに立っている。その存在が、不思議と心強かった。


「……次は、王妃ですね」


「……ああ」


短い返事。だが、その声には——確かな決意が込められていた。


私は振り返り、広間を見渡した。


動揺する貴族たち。蒼白な王子。怒りに震える偽聖女。


そして——静かに微笑む、大神官。


物語は、まだ始まったばかりだ。



◇ 第四章 王配の運命と番いの真実


聖女認定から三日後。


私は神殿の書庫で、ある羊皮紙を見つめていた。


【魂籍番号:2744-0912-7783】

【保持者:セシリア・フォン・ヴァイスガルテン】

【本来の属性:王配因子保持者】

【現状態:属性剥奪状態 運命線の大幅な欠損を検出】


私の、番号だった。


「……王配」


呟いて、頭を抱えた。


王配。つまり、王の伴侶となる運命。本来の私は——王子の婚約者ではなく、王となるべき者の番いだった。


(いや待って。それって)


嫌な予感がする。


記録を遡る。いつ、私の属性が剥奪されたのか。誰が、それを行ったのか。


答えは——十五年前。


「……また、あの年」


オリヴィアの番号が奪われたのと、同じ年。


「改竄を行った神官は……」


名前を確認して、息を呑んだ。


同一人物だった。


「——セシリア」


背後から声がかかり、私は振り返った。


ヴェルナーが、珍しく眉を寄せて立っていた。


「……顔色が悪い」


「そうですか?」


「ああ。——何を見ている」


彼は私の隣に立ち、羊皮紙を覗き込んだ。


そして——動きを止めた。


「……これは」


「私の魂籍台帳です」


淡々と説明する。


「本来、私は『王配因子』を持っていたようです。——十五年前に剥奪されるまでは」


「……王配」


ヴェルナーの声が、かすかに震えた。


「つまり……」


「誰かの番いだった、ということですね。——王になるべき誰かの」


沈黙が落ちた。


重い沈黙だ。私は何となく、彼の顔を見られなかった。


「……確認する」


不意に、ヴェルナーが呟いた。


「何をですか?」


「俺の番号を」


私は目を瞬かせた。


「それは……」


「見てくれ」


真っ直ぐな瞳。逃げ場のない視線。


私は——ゆっくりと、彼の頭上を見上げた。


【魂籍番号:0001-0001-0002】

【保持者:ヴェルナー・クロイツ】

【属性:聖剣継承者 神殿騎士団長 次代の神王候補】

【番い登録:2744-0912-7783(セシリア・フォン・ヴァイスガルテン)】

【状態:番い属性、長期休眠中 覚醒条件——対象者との再会】


声が、出なかった。


「……セシリア?」


「あなたは」


ようやく、言葉を絞り出す。


「神王候補……?」


「ああ。大神官の後継者候補だ。——だが、それは今、重要じゃない」


ヴェルナーが、一歩近づいた。


「俺の、番いは」


「……私、です」


告げた瞬間、彼の目が——見開かれた。


「……やはり」


「え?」


「分かっていた。——魂が、お前を求めていた」


低い声。だが、どこか——必死さが滲んでいた。


「出会った時から、おかしかった。心臓がうるさい。傍にいると落ち着く。離れると、胸が痛い」


「……」


「病気かと思った。——違った」


彼は、私の手を取った。


「お前が、俺の番いだった」


温かい手のひら。大きくて、無骨で、でも——優しい。


「……十五年前に、引き離されたんですね」


私は呟いた。


「私の属性が剥奪されたのは、三歳の時。あなたと出会う前に——運命ごと、奪われていた」


「誰に」


「偽聖女、ミレーヌ・シャルロット」


ヴェルナーの目が、氷のように冷たくなった。


「……あいつが」


「ええ。——彼女は、私の『王配因子』も奪っています。聖女因子だけではなかった」


記録が示していた。偽聖女は、オリヴィアの聖女因子と、私の王配因子。二つを同時に奪い、自分のものにしていた。


「だから、彼女は王子の婚約者になれた。本来、私が持つべき運命を——横取りして」


「……許さない」


ヴェルナーの声が、低く響いた。


「お前から奪ったもの、全て取り戻す」


「ヴェルナー」


「俺は——」


彼は、私の手を強く握った。


「お前を守る。今度こそ」


真っ直ぐな瞳。嘘のない声。


私は——困ってしまった。


(……こういう時、どういう顔をすればいいんだ)


前世で恋愛経験など皆無だ。仕事しかしてこなかった。過労死するほどに。


「あの……」


「何だ」


「その……ありがとう、ございます」


我ながら、味気ない返事だと思った。


だがヴェルナーは——微かに、笑った。


「……お前らしい」


「え?」


「事務的なところが——好ましい」


(今、好ましいって言った……?)


心臓が、跳ねた。


(いやいや、落ち着け。仕事中だ。プライベートは後)


深呼吸して、思考を切り替える。


「……ヴェルナー」


「何だ」


「王妃の調査を進めます。——協力してもらえますか」


彼は頷いた。


「当然だ」


「では——」


私は、羊皮紙の山を見つめた。


「残業、覚悟してください」


「……ああ」


短い返事。だが、その声は——どこか嬉しそうだった。



その夜。


私は神殿の一室で、一人きりだった。


——いや、一人ではない。


「お姉様ーー!」


「うるさいルシア」


妹が、勢いよく部屋に入ってきた。


「聞きましたわ! 騎士団長様と番いだったんですって!?」


「……誰から聞いた」


「大神官様から!」


(あの古狸……!)


私は頭を抱えた。情報漏洩にも程がある。


「お姉様! おめでとうございます!」


「いや、まだ何も——」


「結婚式はいつですの!? 私、お姉様の花嫁姿、ずっと見たかったんですの!」


「だから、まだ——」


「騎士団長様、とても素敵な方ですわよね! 無口で、強くて、お姉様一筋で!」


「一筋って……」


「だって、お姉様を見る目が真剣でしたもの! あれは恋する目ですわ!」


ルシアが、目を輝かせる。


私は溜息をついた。


「……仕事が、終わってから考える」


「もう! お姉様は仕事ばかり!」


「当然だ。不正は見逃せない」


「でも、恋愛も大事ですわ!」


妹の言葉に、私は黙った。


恋愛——か。


前世では、考えたこともなかった。仕事に追われ、休日は寝て過ごし、気づいたら三十二歳で過労死。


今世は——違う。


番いがいる。運命の相手がいる。それも、あんなに真っ直ぐな人が。


(……考えるの、後にしよう)


私は首を振った。


「ルシア。王妃の調査を手伝ってくれ」


「はい?」


「社交界の噂を集めてほしい。王妃派閥の動向を」


妹は、一瞬きょとんとして——そして、にっこり笑った。


「お任せくださいませ、お姉様!」


拳を握りしめる妹。頼もしいのか、不安なのか。


「それと」


「はい?」


「騎士団長様を、よろしくお願いしますわね?」


「……帰っていいぞ」


「えー!」


追い出す私と、抵抗する妹。


——その夜、私は久しぶりに、少しだけ笑っていた。



◇ 第五章 帳簿の刃と崩れる王冠


一ヶ月後。王城、謁見の間。


私は、国王の前に立っていた。


「——以上が、魂籍不正に関する調査報告書です」


手渡したファイルは、厚さ十センチ。証拠書類、関係者一覧、時系列整理、改竄の手法、そして——関与者の実名リスト。


「全件、証拠書類を添付しております」


国王——白髪の老人は、重々しく頷いた。


「……見事だ、セシリア・フォン・ヴァイスガルテン」


「恐れ入ります」


「しかし——」


国王の目が、ファイルの一点に留まった。


「この名前は、間違いないのか」


「はい。エレオノーラ王妃殿下。——不正の中枢は、王妃様です」


謁見の間に、重い沈黙が落ちた。


居並ぶ貴族たちが、息を呑む。大臣たちが、互いに視線を交わす。


「……嘘です!」


甲高い声が響いた。


王子エドワルドが、青ざめた顔で立ち上がる。


「母上が、そのようなことを——」


「殿下」


私は淡々と遮った。


「二百三十七ページをご覧ください。王妃殿下の直筆署名がございます」


王子の手が、震えながらページをめくる。


「……これは」


「魂籍改竄の指示書です。十五年前から、計四十七件の改竄を指示されています」


「よ、四十七件……!?」


「はい。偽聖女ミレーヌ・シャルロットへの聖女因子移転。私への王配因子剥奪。他にも——」


私はファイルを掲げた。


「王妃派閥の貴族に有利な運命を配分する、組織的な不正が行われていました」


「……そんな」


王子が、へたり込んだ。


その時——扉が開いた。


「何の騒ぎですか」


涼やかな声。プラチナブロンドの髪を高く結い上げた女性が、優雅に歩み入る。


エレオノーラ王妃。黒幕本人の登場だ。


「セシリア・フォン・ヴァイスガルテン」


王妃は私を見下ろした。完璧な笑顔。だが——目が、笑っていない。


「まだ、その茶番を続けているのですか」


「茶番ではありません。事実の報告です」


「『魂籍の目』などという作り話で、私を陥れようとは。——愚かな令嬢ですこと」


「作り話ではありません」


私は、王妃の頭上を見上げた。


【魂籍番号:1002-4421-8837】

【本来の属性:貴族令嬢(王妃因子なし)】

【現状態:王妃因子を不正取得 四十二年前に改竄】

【警告:複数の運命線を人為的に接続中 崩壊リスク高】


赤い警告が、点滅していた。


「王妃殿下。あなたの魂籍番号も、改竄されています」


場が、凍りついた。


「……何ですって?」


王妃の笑顔が、初めて崩れた。


「四十二年前。あなたは、本来の王妃因子保持者から——属性を奪っています」


「黙りなさい」


「元の保持者は、現在、王都郊外の療養院におられます。記憶を失い、自分が誰かも分からない状態で」


「黙りなさい!」


王妃が声を荒げた。完璧な仮面が、剥がれていく。


「そんなことは——そんなことは、誰にも証明できないはず——!」


「できます。——これが、証拠書類です」


私は、ファイルの最後のページを開いた。


「四十二年前の改竄記録。実行者の名前。そして——」


ページをめくる。


「王妃殿下自身が書かれた、改竄依頼の手紙。神殿の書庫に、保管されていました」


王妃の顔から、血の気が引いた。


「……そんな、ものが……」


「大神官様」


私は振り返った。テオドール大神官が、杖をついて進み出る。


「儂が、保管しておった」


老人は、穏やかに微笑んだ。


「四十二年前、儂はまだ若い神官でね。改竄に協力させられたのじゃよ」


「あなた……!」


「その時から、証拠を集めておった。——いつか、この日が来ると信じてね」


王妃が、一歩後退した。


「嘘……嘘よ……私は——」


「エレオノーラ」


国王の声が響いた。


低く、重い声。だがどこか——悲しげだった。


「証拠は揃っている。——申し開きは、あるか」


王妃は、唇を噛みしめた。


「……私は、間違っていない」


やがて、彼女は顔を上げた。憎悪に満ちた目で、私を睨む。


「運命など、力ある者が書き換えるもの。弱者に運命を与えても、無駄にするだけ」


「それは——」


「私は、この王国を守ってきた。愚かな王に代わって、決断を下してきた。運命を正しく配分してきた」


「正しく?」


私は首を傾げた。


「届出を改竄することが、正しいのですか?」


「黙りなさい! 事務員風情が——!」


「事務員で結構です」


私は、淡々と言った。


「私は、届出と実態の整合性を確認する。——それが、仕事ですので」


王妃が、絶句した。


「届出は、正確に出しましょう。——それが、秩序というものです」


沈黙が落ちた。


長い、長い沈黙の後——国王が口を開いた。


「エレオノーラ王妃を、反逆罪で拘束せよ」


「陛下——!」


「そして——」


国王の視線が、王子に移った。


「エドワルド王子を、王位継承権から除外する」


「父上……!」


王子が、膝から崩れ落ちた。


「俺は……俺は、何も知らなかった……」


「知らなかったでは済まぬ」


国王の声は、冷たかった。


「お前は、母に操られ、何一つ自分で決めなかった。——それが、お前の罪だ」


王子の目から、涙が溢れた。


私は——それを、静かに見つめていた。


(……哀れな人だ)


彼は、悪人ではなかったのかもしれない。ただ、弱かっただけ。自分で考え、決断することを——怖がっていただけ。


(でも、それは言い訳にならない)


弱さは罪ではない。だが、弱さを言い訳にすることは——罪だ。


「セシリア・フォン・ヴァイスガルテン」


国王の声が、私に向けられた。


「見事であった。——褒美を取らせよう」


「ありがとうございます」


私は頭を下げた。


「では——定時退勤の保証と、週に一度の菓子の支給をお願いします」


場が、再び凍りついた。


「……それだけか」


「はい。それだけで十分です」


国王が、呆気に取られた顔をした。


「……面白い娘だ」


隣で、ヴェルナーが小さく笑った気がした。



その夜。神殿の中庭。


私は、ベンチに座って空を見上げていた。


「……終わった」


呟いて、深く息を吐く。


王妃は拘束された。偽聖女も、魂籍番号剥奪の刑が決まった。王子は廃嫡。王国の不正は、白日の下に晒された。


私の仕事は——とりあえず、一段落だ。


「……セシリア」


声がして、振り返った。


ヴェルナーが、月明かりの中に立っていた。


「……一人で、何をしている」


「月を見ていました」


「そうか」


彼は、私の隣に座った。ベンチが、わずかに軋んだ。


「……疲れたか」


「少し」


「そうか」


沈黙が落ちた。だが——不思議と、居心地が良かった。


「……ヴェルナー」


「何だ」


「あなたと、番いだと分かって——」


言葉を切る。どう言えばいいのか、分からなかった。


「……正直、実感がありません」


「そうか」


「でも——」


私は、彼を見上げた。


「傍にいてくれて、助かりました」


「……そうか」


彼の声が、少し震えた。


「……俺も」


「え?」


「お前の傍にいて——」


彼は、ゆっくりと手を伸ばした。


私の手に、彼の手が重なる。


「——よかった」


月明かりの下、彼の目が——柔らかく輝いていた。


「……ヴェルナー」


「何だ」


「その……」


何を言えばいいのか、分からなかった。ただ、心臓がうるさい。顔が熱い。


(これが、恋……?)


分からない。分からないけど——悪くない。


「あの」


私は、覚悟を決めて口を開いた。


「定時退勤と、菓子と——」


「ああ」


「あなたがいれば、それで」


——言いかけて、止まった。


(何を言ってるんだ私は)


顔が、さらに熱くなる。


ヴェルナーが——笑った。


見たことのない、柔らかな笑顔だった。


「……俺もだ」


「え?」


「お前がいれば——それでいい」


彼の手が、私の手を強く握った。


月明かりが、二人を照らしている。


「……セシリア」


「何ですか」


「——結婚してくれ」


唐突だった。不器用だった。前置きも、飾りもなかった。


でも——


「……はい」


私は、頷いていた。


「喜んで」


彼の目が、大きく見開かれた。


「……本当か」


「嘘をつく理由がありません」


「……そうか」


彼は、私の手を両手で包んだ。


「……ありがとう」


その声は、震えていた。


(……この人、本当に不器用だな)


私は、小さく笑った。


「こちらこそ」


月が、静かに輝いていた。



◇ 第六章 届出は正確に、幸せは確実に


三ヶ月後。神殿の魂籍管理室。


「——次の方、どうぞ」


私の呼びかけに、扉が開いた。


「あの……魂籍の確認を、お願いしたいのですが」


入ってきたのは、若い女性だった。不安げな目で、私を見つめている。


「どのような確認でしょうか」


「実は……私の婚約者が、本当に運命の相手なのか、知りたくて」


「分かりました」


私は羽ペンを取り、記録帳を開いた。


「お二人のお名前と、魂籍番号をお聞かせください」



相談を終え、女性を見送った後——私は伸びをした。


「……今日も、相談者が多かったな」


王国の不正が明らかになって以来、魂籍管理室には毎日行列ができていた。自分の運命を確認したい者。不正を告発したい者。様々な人々が訪れる。


「セシリア」


声がして、振り返った。


ヴェルナーが、茶器を持って立っていた。


「休憩を」


「……ありがとう」


カップを受け取る。温かい紅茶と——焼き菓子。


「これ、どうしたんですか?」


「……オリヴィアが焼いた」


「オリヴィアさんが?」


「……俺が焼くと、焦げる」


(そういえば、厨房を焦土にしたことがあるって……)


私は苦笑した。


「オリヴィアさんに、お礼を言っておいてください」


「ああ」


彼は、私の隣に座った。もはや定位置だ。


「……今日の、相談者は」


「婚約の確認が多かったです。——王妃の一件で、皆さん不安なんでしょうね」


「そうか」


「でも、ほとんどは問題なしでした。届出通りの、正当な縁です」


ヴェルナーが、小さく頷いた。


「……良いことだ」


「ええ」


私は、窓の外を見た。


神殿の中庭では、本物の聖女——オリヴィアが、子供たちに囲まれて笑っていた。


彼女は、正式に聖女として認められた後も、派手な活動はしていない。ただ、困っている人の話を聞き、優しく寄り添う。それだけだ。


でも——それが、本当の聖女なのかもしれない。


「お姉様ーー!」


聞き慣れた声がして、扉が開いた。


「ルシア……ノックしなさい」


「だって、お姉様! 大変ですの!」


妹が、息を切らせて駆け込んでくる。


「何が大変なんですか」


「結婚式の招待状が、返信期限を過ぎてますの!」


「……は?」


私は目を瞬かせた。


そういえば——来月、結婚式だった。


「セシリア」


ヴェルナーが、少し咎めるような目で私を見た。


「……自分の式の準備を、忘れていたのか」


「いえ、忘れてはいないんですが……仕事が……」


「お姉様!」


ルシアが、両手を腰に当てた。


「定時退勤を推奨する神殿で、お姉様だけが残業していたら意味がありませんわ!」


「いや、でも……」


「今日は、もう終わりですの! 私が招待状の返信を整理しますから、お姉様は休んでください!」


「ルシア……」


「騎士団長様も、そう思いますわよね!?」


ヴェルナーが、深く頷いた。


「……同意する」


二人に見つめられ、私は観念した。


「……分かりました」


立ち上がり、窓を閉める。


「では、今日はここまでにします」


「よくできましたわ、お姉様!」


ルシアが、にっこり笑った。



神殿の廊下を歩きながら、私は空を見上げた。


夕焼けが、美しい。


「……セシリア」


ヴェルナーが、私の隣を歩いている。


「何ですか」


「……幸せか」


唐突な質問だった。


私は、少し考えた。


前世では、仕事に追われ、休む間もなく、最後は過労死。幸せとは程遠い人生だった。


今は——


定時退勤ができる。甘いものが食べられる。妹がいる。仲間がいる。


そして——隣に、この人がいる。


「……幸せです」


私は、素直に答えた。


「届出通りに、確実に」


ヴェルナーが、小さく笑った。


「……お前らしい」


「褒めてます?」


「ああ」


彼の手が、私の手を取った。


「……俺も、幸せだ」


不器用な言葉。でも——嬉しかった。


「ヴェルナー」


「何だ」


「来月の式、緊張しますか?」


「……少し」


「私もです」


二人で、夕焼けを見上げた。


「でも——」


私は、彼の手を握り返した。


「届出は、正確に出しましょう」


「……ああ」


「幸せも、確実に」


彼が、私を見た。深い紫の瞳が、夕焼けに染まっている。


「——約束する」


静かな声。だが、どこまでも真っ直ぐな声だった。



エピローグ。


結婚式の翌日。


私は——神殿の魂籍管理室に、座っていた。


「お姉様! 新婚初日から出勤ですの!?」


ルシアが、目を丸くしている。


「仕方ないでしょう。相談者が待ってるんですから」


「でも——」


「ルシア」


ヴェルナーが、穏やかに妹を止めた。


「……これが、セシリアだ」


「騎士団長様まで——!」


「俺も、傍にいる。——問題ない」


彼は、私の隣に座った。いつもの定位置。


ルシアが、呆れたように溜息をついた。


「……お似合いですわ、二人とも」


扉が開き、今日最初の相談者が入ってきた。


「あの、魂籍の確認を——」


「どうぞ、お座りください」


私は、羽ペンを取った。


「何でもお聞きください。——届出は、正確に出しましょうね」


微笑みながら、そう言った。


窓の外では、太陽が昇っている。


新しい一日が、始まっていた。


——セシリア・フォン・ヴァイスガルテン改め、セシリア・クロイツの魂籍管理室には、今日も相談者が列をなすのだった。


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