第五章:囮となった一粟(いちぞく)
魔都場家の平屋の地下に設けられた秘密のドックは、土壁とコンクリートに囲まれた、薄暗い空間だった。
その中央には、ヤミが修理と改良を施した、脱出に使用した超光速宇宙船「アサギリ」が静かに鎮座している。
ウォルター、こと陽登は、既にハウメアの護衛官時代の黒い制服のような戦闘服に身を包んでいた。
傍らには、穏やかな顔で永い眠りについた亜璃水の亡骸が横たえられている。
「ヤミ、シーナ。頼む」
ウォルターは、力のない声で言った。
彼の心は、最愛の妻を失った悲しみと、迫りくる敵への怒り、そして子どもたちを守らねばならないという使命感で引き裂かれていた。
「アリスの亡骸を、この船に乗せる。彼女の体内に残された追跡装置が、ヴァルハラの追手の唯一の目標だ。俺が船を操縦し、囮となって太陽系の外へ向かう。追手が俺に集中している間に、お前たちは子どもたちを連れて、別のルートで地球から脱出してくれ!」
ウォルターの計画は、理にかなっていた。追跡装置の信号が最も強い「アサギリとアリステリア」を囮にし、海路と日和という「血統」を逃がす。
それが、彼に残された、最後の護衛官としての職務のように思っていた。
ヤミは、その横で、青白い光を放つ制御パネルをいじりながら、苦々しく頷いたが……
「ウォルター、お前の覚悟は受け取った。だが、その計画はあまりに非効率だ。『アサギリ』は俺の船だ、操縦は俺に任せろ。お前は子どもたちと……」
「ダメだ、ヤミ!」
ウォルターはヤミの言葉を遮った。
「お前は、この宇宙で唯一、次元跳躍の技術を実現化できる男だ。お前がいなければ、子どもたちを安全な場所へ逃がすことなどできない。俺は、ただの護衛官だ。戦闘なら得意だが、この状況では、お前の方が海路と日和にとって、遥かに重要な存在だ」
ヤミは何も言い返せなかった。陽登の言っていることは正しかった。
すると、これまで静かに聞いていたシーナが、二人の間に割って入った。
「ウォルター様、ヤミ様。その計画は、お二人とも降りてください!」
侍女のシーナは、普段の控えめな姿とは違い、強く、はっきりとした口調で断言した。
「囮は、私がやります!」
「シーナ、何を言っているんだ!?」
ウォルターが驚愕の声を上げた。
「殿下は、私にとって、この世で最も大切な方でした。そして、その殿下が生んだ海路様と日和様も、何よりも生涯をかけて愛したウォルター様も、私がお守りしなければならない存在です!」
シーナの目は、決意の光を帯びていた。
「私は、この船の基本操作は学んでいます。そして、何よりも……ヴァルハラ軍、彼らが本当に追っているのは、『アサギリ』に搭載された追跡装置の信号ですが、その船を操縦しているハウメアの首席護衛官である、ウォルター様です!」
彼女は、ウォルターの腕にある、かつてのハウメア軍の識別ブレスレットを指さした。
「ウォルター様。あなたが乗れば、ヴァルハラは全力であなたを捕獲しようとします。彼らは王女を奪った『裏切り者の護衛官』を、生きたまま捕らえて、見せしめにしたいはずです。それではヴァルハラの思惑通りとなります。」
ウォルターは息を飲んだ。シーナの言う通りだった。
ヴァルハラが最も欲しているのは、アリステリアではなく、アリステリアを誘拐し、自らの権威を傷つけた「ウォルター・ハルト・マトゥザック」の命だ。
「撃墜されれば、追跡装置の信号は失われます。ヴァルハラは、殿下と護衛官の回収は不可能と判断し、この太陽系を一時的に去る。ですので、その識別ブレスレットはこちらへ…」
シーナは、亜璃水の亡骸の前に跪き、祈りをささげ、小さな声で呟いた。
「アリステリア殿下。私は、すぐに殿下の元に参ります...」
この時、シーナはヴァルハラの手に落ちる位なら自爆する覚悟をしていた。
そして、彼女はウォルターに向き直った。
「ウォルター様、ヤミ様、そして何よりも海路様と日和様は、まだ生きる使命があります。私は、ただの一粟です。この命を、未来ある一族のために使わせてください!」
その言葉には、亜璃水が語った滄海の一粟の哲学が、深く響いていた。
巨大な世界に対する、この小さな一族の、最期の抵抗。
ウォルターは、その覚悟の重さに、言葉を失った。ヤミもまた、顔を歪ませていた。
「シーナ……」
「船の制御、戦闘の回避、全てヤミ様に教えてもらいました。さあ、ウォルター様。時間がありません。海路様と日和様を連れて、あちらの奥の小型脱出艇で、すぐに出発してください」
ウォルターは、もう押し問答をする時間は残されていないことを理解していた。ヴァルハラの偵察機が、既に地球の大気圏に突入している、というヤミの緊急警告が、彼の耳に響いていた。
「……分かった。シーナ。感謝する。この恩は、決して忘れない…」
ウォルターは、シーナの肩に強く手を置き、深く頷いた。
シーナは、ウォルターからアリステリアの亡骸を優しく受け取り、「アサギリ」のコックピットへ乗り込んだ。
「ヤミ。すぐに小型脱出艇を起動させてくれ。子どもたちを連れて、この星を離れる。目標は、この太陽系から最も遠い、ヤミの隠し持っている『別の次元の座標』だ」
「了解だ!ウォルター」
ヤミは「アサギリ」の制御パネルから離れ、秘密の扉の奥へと走った。
ウォルターは、眠っている海路と日和を抱き上げ、シーナに最後の別れを告げた。
「必ず、生きて…生き延びてくれ…」
シーナは、コックピットの中で、涙一つ見せずに、毅然とした態度で彼らを見送った。
──数分後。
ヤミが用意していた小型の脱出艇が、魔都場家の地下から、土煙を上げながら音もなく飛び出した。
その小さな影が、夜空に紛れていくのを、シーナは静かに見届けた。
そして、彼女はアリステリアの亡骸を横に、メインエンジンを起動させた。「アサギリ」の船体が青白い光に包まれる。
「さようなら、海路様。日和様。ヤミ様。そして、ウォルター様……」
シーナは、最後の力を込めて操縦桿を握り、船を地上へ向かって急上昇させた。
巨大な追跡信号を放ちながら、光速で地球の大気圏を突き破る「アサギリ」の姿は、すぐにヴァルハラ軍の主力艦隊の目に入った。
「目標を確認!」
「あの時のハウメアの光速宇宙船だ! 撃墜せよ!」
ゼノン王太子の命令が響き渡る。
無数の砲火が、「アサギリ」目掛けて放たれた。
シーナは、アリステリアの亡骸を守るように、静かに目を閉じた。
その瞬間、たった一粒の粟が、広大な滄海に散り、未来の一族を、遥か彼方へと解き放ったのであった。
逃避行の途中、小型艇の中で、ウォルターは、抱きしめた日和のサファイアの瞳を見つめた。
その小さな瞳の中には、亡き妻の面影と共に、これから彼らが背負う、途方もない運命の影が、既に宿っているように見えた。
彼らの逃亡の旅は、再び、始まったのだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
次回は、火曜日の20:00頃に更新します。
よろしくお願いいたします。




