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ソウカイノイチゾク  作者: 神代 チイ


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第二章:地上の滄海

日本の、とある地方都市。


築年数の古い平屋の木造住宅が並ぶ、静かな一角に、魔都場まとば家はあった。


玄関には、「魔都場」と彫られた質素な木札が掛かっている。


かつてのハウメアの第一王女、アリステリア・プリンセス・ハウメアは、この地で魔都場まとば 亜璃水ありすとして、主席護衛官だったウォルター・ハルト・マトゥザックは、魔都場まとば 陽登はるととして、静かに暮らしていた。


ハウメアを脱出して、丸五年が経過した。

その間に、二人の愛の結晶は、一人の活発な男の子として育っていた。


名を魔都場まとば 海路かいじという。


五歳になった海路は、陽登譲りのしっかりとした体つきと、亜璃水譲りの透き通るような白銀の髪を持っていた。

その髪は、周囲からは「珍しい子だ」と好奇の目で見られることもあったが、彼の瞳の色は、日本人と変わらない深い黒で、辛うじて周囲の目を逸らしていた。


「母ちゃん! あそこのアリを踏んづけてもいいか?」


海路は、庭先のコンクリートの割れ目から出てきた小さなアリの行列を、面白そうに覗き込みながら、亜璃水に尋ねた。

亜璃水ことアリステリアは、縁側で洗濯物を畳みながら、ふっくらと膨らんだお腹を優しく撫でていた。


「ダメよ、海路。小さな命だって、一生懸命生きているんだから。それに、踏んだら、お腹の子が泣いちゃうわよ」


亜璃水は微笑んだ。

彼女は今、二人目の子を妊娠していた。

もうすぐ生まれてくる子のために、彼女は日和ひよりという名前を決めていた。

性別はまだ不明だが、なぜかその名が、彼女の心に強く響いていた。


陽登ことウォルターは、近くの小さな工場で、溶接の仕事を見つけていた。屈強な体躯は、力仕事には最適だったが、ハウメアの高度な軍事訓練を受けた彼にとっては、あまりにも単調であったが、心は常に張り詰めていた。

その日、陽登は帰宅すると、玄関先で海路に抱きつかれた。


「父ちゃん、おかえり! 今日、母ちゃんと、お団子を作ったんだよ!」


「ああ、海路。ただいま」


陽登は、息子の頭を優しく撫でた。

異星の血を引く息子が、この星の言葉で、当たり前の幸せを口にしている。

その光景が、彼の胸を締め付けた。

これが、彼が全てを捨てて手に入れた、唯一無二の幸福だったからだ。


夕食時。質素だが温かい日本の食卓で、亜璃水が、陽登に改めて相談を持ち掛けた。


「陽登。お腹の子の名前、もう決めたの。日和ひよりにしようと思うの」


「日和、か……」


陽登は、焼き魚を箸で突つきながら、少し考え込んだ。


「良い名前だ。この星で、穏やかな日々を過ごしてほしいという、お前の願いが込められている。魔都場 日和……うん、良い」


「ありがとう」


亜璃水は満足そうに微笑んだ。


この五年間、二人はヤミが持たせた少額の金属結晶を、この星の貨幣に換金し、細々と生活してきた。

ヤミと侍女のシーナは、彼らを日本まで送り届けた後、再び宇宙の彼方へ消えていった。

そして、二人の消息は、今も分かっていない。


陽登の心には、常に一つの不安が渦巻いていた。


「亜璃水。海路の髪の色が、近頃、周囲から注目を集め始めている。日和が生まれたら、さらに目立つことになるかもしれん」


彼の心配は、もっともだった。ハウメア王族特有の白銀の髪は、この星ではあまりにも異彩を放つ。


「分かっているわ。だから、私は彼らに、この星の人間として、心穏やかに生きていってほしいの。あの星の血は、彼らの枷になってはいけない」


亜璃水の瞳には、強い決意が宿っていた。

しかし、その決意の裏には、故郷ハウメアに対する、ある種の諦念と虚無感が漂っていた。


「私の存在など、ハウメアという広大な滄海そうかいに浮かぶ、たった一粟いちぞくでしかなかった。一国の王女ですら、婚姻という名の政治の道具。愛は、そのシステムの異物でしかなかった」


彼女は、静かに語った。


「だから、私はこの地で、家族として一族として生きる。この小さな一族こそが、私にとっての全て。あの星の血統や、王族の使命など、もうどうでもいいことなのよ」


陽登は、彼女の言葉を聞き、箸を置いた。


「…亜璃水の気持ちは理解している。だが、もしもの時のために、準備だけは怠らない」


陽登はそう言って、自宅の地下に密かに設けた、ヤミが残した連絡装置と、ハウメアから持ち出した護衛官用装備を保管している秘密の部屋を思い描いた。


彼らがどんなにこの地で「日本人」として溶け込もうとも、彼らの本質は、遥か彼方の星の人間であり、その過去は、いつの日か、この穏やかな日常を打ち砕く嵐になるかもしれない。

彼は、その日を恐れていた。

その夜、亜璃水は寝床で、陽登にそっと身を寄せた。


「陽登。私、夢を見たわ。ハウメアの、凍てついた海の上を、私たちが小さな船で漂っている夢…」


「夢だろ…」


陽登は、亜璃水の肩を抱き寄せ、優しく囁いた。


「今はもう、凍てついた海ではない。ここは、太陽が暖かく、季節が巡る、安全な場所だ。私たちが、私たち自身の手で掴み取った場所だ」


「ええ……そうね」


亜璃水は、陽登の腕の中で、すっかり安心したように目を閉じた。


¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨


その瞬間、遠い宇宙の彼方、惑星ヴァルハラの軍事要塞では、あの時の婚約者、ゼノン王太子が、依然として、アリステリア・プリンセス・ハウメアの行方を執拗に捜索させていた。


そして、彼の捜索の手が、いよいよ銀河の辺境、太陽系へと伸び始めていることを、彼らはまだ知る由もなかった。


彼らの平穏な日々は、小さな命の誕生を前にして、すでに大きな波音を立て始めていた。

最後まで読んでくださりありがとうございました。


次回は、日曜日の21:00頃に更新します。

よろしくお願いいたします。

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