第5話:魔王様、ちょっと話しません?
私は、山の中にいた。
砦を離れて三日。王国の追手から逃れながら、人目を避けて森を越え、谷を越え、行き当たりばったりで進んできた。
地図? そんなの、あるわけない。そもそも、こっちは現代日本から連れてこられた高校生である。魔物の生息域とか、知ってるはずもない。
(……けど、不思議と、迷ってる気はしない)
時々、小さな魔物に出くわした。スライムとか、牙の生えたイノシシみたいなやつとか。でも、彼らは私に襲いかかるどころか、むしろ距離を取って見つめてくる。
まるで、何かを“感じ取っている”ように。
(魔物って、もっと獰猛なものかと思ってたんだけどな)
そんな感想を抱きながら、小さな川辺で腰を下ろしていた時のことだった。
――バサッ。
木々の上が揺れ、空気が変わる。
直感的に察した。来た。今までの魔物とは違う“本物”が。
姿を見せたのは、漆黒のマントを羽織った魔族だった。人の形をしているが、空気が違う。見ただけで背筋が緊張するほどの、威圧感。
それでも私は、座ったままその姿を見上げた。
「……どちら様?」
「……お前が、“ぶん殴る聖女”か」
声は低く、静かだった。けれど、その一言だけで空気がピリつく。
彼女は、女性だった。長い黒髪に赤い瞳。背は私と変わらないくらいなのに、その存在感は何倍にも感じられた。
「名乗れ。私は、魔王ラグナ=ネビュラ」
(……マジで魔王来たんですけど!?)
私の心が裏返るように叫んだが、口には出さなかった。
なぜなら――彼女は、こちらを敵意のない目で見ていたからだ。
***
「なるほど。王国に召喚され、使い潰され、怒りで力が覚醒し……王をぶん殴って逃げてきたと」
「正確には、神官をぶん殴って逃げてきた、だけどね」
「それはそれで愉快だ」
ラグナは、くくっと小さく笑った。
魔王と言えば、人類滅亡! 焦土作戦! 世界征服! みたいなノリかと思っていたけれど――
目の前の彼女は、どこか穏やかで、理知的だった。
「お前が何者か、ずっと気になっていた。魔物たちが“敵”として認識していなかったからな」
「うん、私もそれは不思議だった……あれ、どういうこと?」
「お前の“癒しの力”には、魔族への敵意がない。だから、野生の個体も本能的にお前を“害”と見なさない……つまり、聖女の本来の力は、本来、種族を問わず癒すものだ」
「……なるほど。ってことは、王国が勝手に“魔族の敵”に仕立てただけか」
「そうだ。まったく、愚かしい話だ」
ラグナは、静かに言った。
「我々魔族は、人間に抗うために戦っている。だがそれは、生存のためだ。王国は“神”を盾に、魔族の領土を奪い、資源を搾取し続けている」
「……」
言葉に詰まる。
私が“聖女”として使われていた時と、重なるものがあった。
「だったら、あんたたちの方が……よっぽど、人間らしいかもね」
「……お前は、面白い女だな」
ラグナはそう言って立ち上がった。
「聖女よ……この世界の正義が何か、自分の目で確かめたければ――私の城へ来るといい」
「……招待してくれるの?」
「異例ではあるが、敵ではないと判断した。だから“客人”として扱おう」
そう言って、彼女は背を向ける。
けれど、最後に一言だけ――振り返らずに言った。
「ただし。そこで本当に敵だと判断したなら……私は、お前を殺す」
***
私は、炎のように揺れるラグナのマントを見つめていた。
この世界で、王国でも、神殿でもない第三の道。
私の力が、“誰かの命令”じゃなく、“自分の意志”で使える場所。
……そんなものが、あるなら。
「行ってみる価値、あるかもね」
私は立ち上がった。
旅は、まだ始まったばかりだ。