第3話:聖女なめんじゃねぇ!!
戦場は、血と煙と火の匂いに満ちていた。
空は鈍色に濁り、地平の彼方まで黒煙が立ちのぼる。崩れかけた砦の外では、魔物の咆哮と人の叫びが交差し、あたり一帯に、絶望が染みついていた。
「ま、待ってください! こんなところ、私が来る場所じゃ――!」
「黙ってついて来なさい、聖女!」
怒鳴ったのは、あの神官マールだった。
「回復要員がいないと兵が減るだけなんですよ。あなたの都合なんて知りません!」
そのまま馬の上から私を引きずるように前線へ連れていく。
――すべては、今朝のこと。
眠る間もなく呼び出された私は、「癒しが足りないから、前線に出ろ」とだけ命じられた。拒否しようとした瞬間、マールは言い放った。
「貴女には拒否権などありません。聖女とは“役目”であり、意思を持つものではないのですから」
ああ、そうだった。
私には意思なんて、初めから認められていなかったんだ。
***
「来たか、聖女!」
砦の門の近くでは、何人もの兵士が倒れていた。
腕がもげかけた者。毒に苦しむ者。血まみれで呻く者。
私は、反射的に手をかざした。淡い光が走り、ひとり、またひとりと癒していく。
けれど、すぐに体の限界が来た。魔力も体力も、残りわずか。
「っ……はあ、はあ……」
「何やってんだよ、次! 早く!」
「お前しかいねぇんだよ、回復要員は!」
怒号が飛び交う。心臓が潰されそうに痛い。
誰も、私を見ていない。
誰も、私を“聖女”として扱っていない。
(なんで……なんで私ばっかり……!)
そのときだった。
ドゴォォォン――!!
地面が揺れた。
砦の外壁を、何かが突き破って現れる。
「っ、あれは……ッ! 地獄角獣だ!!」
誰かが絶叫した。
体高三メートル。漆黒の毛並みに巨大な角をもつ、伝説級の魔物。
その巨体が地響きを立てて突進してくる。
「逃げろ!! こいつは手に負えねぇ!!」
兵士たちが散り散りに逃げ出す。けれど――
私はその場から動けなかった。
「ど、どいてください……私も、逃げ――!」
「うるさい!! あなたは残りなさい!」
マールが叫びながら、私の背中を――
押した。
私はそのまま地面に叩きつけられる。
「っが……!」
息が止まった。視界が白く霞む。
「少しは時間稼ぎなさい!! どうせ聖女なんだから、死なないでしょう!?」
ピシッ、と。
心に、音が走った。
それは、心のどこかにあった“最後の糸”が――
――プツン、と、切れた音だった。
***
「…………は?」
私は、ゆっくりと顔を上げる。
目の前には、私を突き飛ばして逃げるマールの背中。砦の外へ逃げる兵士たち。突進してくる魔獣。
私は、それを。
すべてを――俯瞰した。
立ち上がる。体はボロボロなのに、不思議と力が湧いてきた。
「なにが……“聖女”だよ」
足元の地面が、わずかに震えた。
「癒しの力があるから? 役に立つから? だったら道具でいいのかよ」
次の瞬間。
「ふっざけんなああああああああああああああッ!!!!」
叫びと同時に、私は拳を突き出した。
「聖女なめんじゃねぇ!!!!」
ドゴォォォォンッ!!!
空気が爆ぜた。
拳が、魔獣の角に直撃した。
角が砕け、頭蓋が歪み、巨体が後方へ何十メートルも吹き飛ばされた。
着地する間もなく、魔獣は地面に叩きつけられ、絶命した。
静寂。
誰もが目を疑った。
ただの少女が、魔獣を。
拳一つで――殺したのだ。
「“聖女”ってのはなあ……!」
私は、振り返る。
そこには、顔面蒼白で立ち尽くす兵士たちがいた。
「癒すためにいるんじゃない。守るためにいるんだよ!」
拳を握り直し、私は言った。
「この力を、踏み台にしたやつから叩き潰す――それが、私の“聖女”だッ!!」
***
この日、アストレア王国に一つの異名が誕生した。
《ぶん殴る聖女》――すべてを癒し、そして殴る者。
その名が、後に各国を震え上がらせるとは、まだ誰も知らなかった。




