第2話:聖女様、心が限界です
午前四時。空はまだ、夜の底に沈んでいた。
神殿の裏手にある井戸の冷水で、私は黙って手を洗っていた。火傷の痕に冷たさがしみる。でも、痛いなんて感じていられるほど、余裕はなかった。
昨夜、眠れたのは三時間ほど。
五十本の回復薬を作り終えたときには、もう朝の鐘が鳴り始めていた。
「……今日も、“お仕事”か」
口をついて出た言葉に、自分で苦笑する。
ここに来て、今日で七日目。
最初の三日は混乱していた。異世界だの、聖女だの、目の前の現実に翻弄されるばかりで――
でも、四日目からは違った。
私はただの、“聖女型労働者”だった。
癒して、作って、掃除して、呼び出されて。疲れたと訴えれば「聖女様なのだから当然」と笑われ、「じゃあ魔王と戦えますか?」と皮肉を飛ばされる。
回復魔法を使えるという、それだけの理由で、私は王国の“リソース”になった。
(……でも、黙ってたのは、私だ)
誰かを責めたら、全てが壊れてしまいそうで。
我慢していれば、いつか報われると信じて――
そんな思いは、今日、壊れかけていた。
***
昼下がりの中庭は、春の陽気が差し込んでいて。
少しでも心を落ち着けたくて、花壇の手入れをしていた。
そんな私に、通りすがりの兵士たちが声をかけてきた。
いや、“引っかけた”と言った方が正しい。
「なあ、そこの。茶、まだか?」
「おい、聖女って呼べよ。勝手にウロウロしてんじゃねーぞ」
「なに、疲れてんの? 癒しの力、使いすぎちゃった?」
冗談交じりの言葉。けれど、そのどれもが私の神経を削った。
無視しようと、顔を背ける。けれど、彼らはしつこかった。
「ってか、癒しの力があるってだけで、ずいぶん偉そうだよな?」
「マジでそれ。ポーション代用品が調子に乗るなって」
「お前らさあ……」
我慢できず、私は立ち上がる。
兵士たちを睨みつけながら、唇を噛みしめた。
「私が……どれだけ朝から晩まで、無理して働いてるか……知ってて言ってるの?」
「は? “働いてる”? “やってあげてる”つもり?」
「うわ、自覚ねーんだ」
彼らの笑い声が、耳にこびりつく。
「召喚されただけで、偉そうにすんなっての。誰に選ばれたかなんて、わかんねーしな」
「せめて黙って治してろよ。王様に逆らえると思うなよ?」
言葉の刃が、胸に突き刺さる。
(ああ――そうか)
ここでは、私は“人間”じゃない。
癒せるかどうか。それだけ。
尊厳も、自由も、気持ちすらも、ここでは“不要な情報”。
彼らにとって、私は“便利な道具”だった。
***
その晩、部屋に戻った私は、窓辺に置かれた小さな花瓶を見つめた。
淡い紫の花が一輪、そっと揺れている。
誰かが置いてくれたのかもしれない。あるいは、最初から飾ってあったのかもしれない。
私は、ゆっくりと手を伸ばし――
ぎゅっと、その茎を握りしめた。
バキッ。
小さな音がして、花の茎が折れた。
「……ごめん」
無意識に、謝っていた。
壊した花に。誰にもぶつけられなかった想いに。
心の中で澱のように溜まっていくのは、自分の声だった。
『あたしが悪いの?』
『聖女って、こんなもんなの?』
『助けるって、こんなに苦しいことなの?』
答えは返ってこない。
花瓶の中の花を癒しながら、私はその場で崩れ落ちて泣いた。
***
数日後。
神殿の廊下を歩いていた私の耳に、怒鳴り声が響いた。
「早く治してくださいよ!!」
振り返ると、神官マールが肩を押してくる。その勢いで、私は背中から床に倒れた。
「っ……!」
手首を打ちつける痛みが走る。けれど、マールは倒れた兵士を指差して言った。
「この人が死んだら貴女の責任ですからね? 聖女なんでしょ? ほら、癒しなさいよ!」
視界がにじんでいた。力が入らない。魔力も、もう残っていない。
でも、マールは私を叱責し続けた。
「今治せば助かるでしょ? なにしてるんですか? あなたにしかできないんですよ!」
「……」
頭では、わかっていた。
でも。
「……私だって、人間だよ」
かすれた声が漏れた。
マールは聞いていなかった。むしろ、聞こうとすらしなかった。
「言い訳は結構。さっさと使いなさい、ヒールを! それしか取り柄がないんですから!」
その言葉に、胸の奥で、なにかが音を立てた。
バキッ、と。
折れたのは心か。信頼か。希望か。
冷たく、鋭く、深く――ひびが入った。
怒りじゃない。悲しみでもない。
もっと、深くて、黒い感情。
……名前もない、感情が。
胸の奥で、静かに、静かに、膨らみはじめていた。