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第8話




格納区画に朝の光が差し込むころ、想太は既に《レイ=カスタ》の前に立っていた。

ヴァネッサが点検札を巻き取りながら、淡々と口を開く。


「今日から本格訓練だ。ただし、最初は“浮かせる”だけだ。

いいか? この艇の浮遊バランスは、魔導炉と重力圧調整板で保たれてる。まずはそこを自分で感じろ」


「……了解」


想太は深く息を吸い、操縦席に乗り込む。


シートは、彼の体格に合わせて微調整されていた。

手元には複数のレバー、ダイヤル、指型魔導入力パネル。

視界には浮遊高度表示板、方位指針、魔導圧反応ゲージ、浮力分散リングの同期表示。

全てが馴染みのない表示系で構成されていたが――直感は、不思議と馴染み始めていた。


「基本操作、復唱」


ヴァネッサの声がインカムから届く。


「主操縦桿、右手。姿勢制御リング、左レバー。

昇降力調整は下部スライド軸、浮力炉の反応弁は左下。魔導制御系は五段階リンクモード」


「復唱完了」


「よし。じゃあ、“浮かせろ”。

燃焼炉は最小出力、魔導圧制御リングを時計回りに三分の一回転。

浮遊圧は3.8気圧以下。目標高度、甲板から1.5メートル」


想太は、慎重に操作を開始した。

右手でレバーを押し込み、左手で魔導圧調整リングを滑らせる。

炉が応答し、機体の下部からほのかに青白い揚力膜が広がった。


「反応……来た」


機体が、ほんのわずかに“ふわり”と浮いた。


足元の甲板が、ゆっくりと遠ざかる感覚。

機体全体が、空気の層に“抱き上げられている”ようだった。


しかし、次の瞬間。


――ギィ。


機体が小さく揺れ、右へと傾きかける。


「バランス、崩れてるぞ。浮力分散リングの第2層が遅れてる。調整しろ」


「了解ッ」


想太は即座に左レバーを切り返し、リングの分散圧を微調整する。

ノイズのような震えが走り、次第に傾斜が戻る。


魔導炉の音が一定になり、機体は再び安定した浮遊状態に収まった。



「……よし。止まれ」


ヴァネッサの声に応じ、想太は魔導圧を徐々に緩めていく。

反応炉が弱まり、機体は滑るように甲板へと着地した。


着地はわずかに尻もち気味だったが、破綻はなかった。


「……まあ、初回にしては上出来だ」


甲板に降り立ったヴァネッサが、機体の下に屈んで様子を見ながら言う。


「浮かせるってのは、飛ぶってことの“前提”だ。

飛ぶってのは、ただ空に上がることじゃない。

空に抗わず、空に寄り添うってことだ」


想太は操縦席の中で、まだ震える指を見つめていた。


怖さではない。

それは、かつて死に向かって飛んだ時とは明らかに違う――

生きようとする手の震えだった。


「ヴァネッサ……もう少し、やってもいいか?」


「……勝手にしろ。ただし、無茶はすんなよ?」


そう言って彼女は背を向ける。

その背中を見送りながら、想太は静かに燃焼炉の再点火を始めた。


今日のこの“わずかな浮遊”は、彼にとっての第一歩。


零戦とは操作の勝手が違う分、慎重に感覚を掴んでいかなければならない。


お互いそのことは理解していた。


できるだけ正確な操作感を掴むには“時間”が必要だ。


操縦桿を握りしめながら、想太は零戦に乗り始めていた頃のことを頭の片隅に思い出していた。



朝の光がまだ薄い時間帯、《レイ=カスタ》は再び甲板の中央に静かに据えられていた。

昨日の浮遊訓練から一夜。想太は、眠りの中でも“空にいる感覚”を反芻していた。


「今日は旋回と高度維持だ」


ヴァネッサの声は相変わらず淡々としていたが、その瞳にはわずかな期待が宿っていた。


「定点旋回には三点調整。

主推進制御、姿勢安定リング、補助揚力板の三点を“同時”に操作しなきゃならねぇ。

高度を保ちながら旋回するのは、飛行で最も基礎にして、最も難しい動作だ」


想太は操縦席に収まり、スイッチ類を確認していく。


「推進力、初期圧。制御環、解放段階へ。揚力板、同調範囲内……よし」


燃焼炉が静かに唸りを上げ、《レイ=カスタ》が浮き上がる。


地上との距離は2.1メートル。

機体は昨日よりも軽やかに空を掴み、ほとんど“跳ねるように”浮いた。


「じゃあ、旋回に入れ」


ヴァネッサの声と同時に、想太は右手で推進制御をほんのわずかに斜め前方へ傾け、左手で姿勢安定リングを反時計回りに調整。

機体がゆっくりと、時計回りの弧を描き始めた。


最初の半周。想太は息を止めていた。

機体の傾き、風の抜け方、重心の流れ――そのすべてが「ズレる予感」に支配される。


が、次第にその“揺らぎ”が、心の中の沈黙と同調し始める。


(……感じるんだ。風じゃない、“空気の重さ”を)


彼の手の動きは徐々に滑らかさを増していった。

反応が、遅れるのではなく先回りしてくるような錯覚。


気がつけば、旋回はほぼ一周を描き、初期座標へと戻っていた。


「高度、維持できてるぞ。そのまま反転してもう一周」


今度は反対回り。左旋回。


想太はすぐには操作しなかった。

一瞬だけ、空の中に“間”を作る――まるで呼吸を合わせるように。


その「間」をきっかけに、彼の指先は自然に滑り出した。


《レイ=カスタ》の機体が応えた。


今度はより滑らかに、静かな軌跡を描いて旋回する。


――旋回しながら、高度が揺らがない。


想太は悟った。

これは操縦ではない。“制御”ではない。

空に、自分のリズムを委ねるということ。



二周目の終わり、着地。


機体がふわりと降り、金属製の甲板がかすかに音を立てる。


静かだった。

風も、魔導音も、今はほとんど耳に入らなかった。


代わりに、彼の胸の内には、“空と自分が繋がっていた”感覚が残っていた。


「……ふむ。まあなかなかだな。悪くない」


ヴァネッサが呟くように言った。


「でもな、忘れるな。“飛ぶ”ってのは、上手く操ることじゃない。

空と“黙って会話する”ってことだ」


想太は、微かに笑った。


「……なんかわかる気がする」


彼は今、かつての空よりも静かな“風の言葉”を、胸で聞いていた。




***



「乗れ。今日は“乱流”を見せてやる」


昼過ぎ、格納区画の整備バルコニーで、ヴァネッサがそう言ったとき――

想太は、ただならぬ空気を感じ取っていた。


彼女の後ろには、見慣れない飛空艇があった。


それは《レイ=カスタ》よりもやや細身で、鋭利な船体。

双推進の短距離型フレーム。翼幅は小さく、魔導炉は後部に一本だけ突き出している。


機体の名前は《クロス・ヴェイル》。


「スピード特化型。荷は積めないが、コイツを使えばどんな船だって置き去りにできる。

今回は訓練じゃねぇ。空を“感じる”んだ。見て学べ。風がどう荒れるか、体がどう揺れるか」


長靴の底が金属床を小気味よく叩く。

機体脇のラッチを無造作に外すと、彼女はそのままひと蹴りで操縦席へと飛び乗った。

操縦席に乗り込みながら、後部の簡易座席を叩いた。


「文句言わず、しがみついとけ。

落ちたら、地平なんて見えずに雲の下まで真っ逆さまだ」


想太がシートベルトを締め終えると、すでに魔導炉は唸りを上げ始めていた。

浮力板が開き、艇が浮上する。


「これより《第七風梢航路:緩和指定外》へ向かう。訓練フライト許可を要請――って、やめだな。どうせ許可なんて出ない」


「おい、それマズいんじゃ……」


「心配すんな。私の空賊登録は“傍観飛行特権”つきだ。

要は、“見つかった時に口が立てばOK”ってやつだな」


そう言いながら、彼女は機体を加速させた。


空気が裂ける音が響き、次の瞬間、景色が流れ出す。



離陸角は推定35度。機体は甲板を離れた瞬間から右斜め上方へ跳ね上がり、最初の三秒で既に通常訓練機の倍の高度を取っていた。


「加速入れる」


ヴァネッサの声とともに、腰の横にあるフットスロットルを踏み込む。

魔導炉の脈動が変わり、尾翼に連動した風圧整流フィンが開いた。


風が、変わる。重い。


想太の背中に圧が押し寄せ、視界の端が流れ始めた。

《レヴァン・ノード》の甲板が、あっという間に豆粒になる。


「速度、風速換算で百三十五。気圧帯に入る前に回避ルートに移行」


彼女は操縦桿を軽く右へ、わずかに捻るように動かした。

すると機体は、まるで風の鱗に触れるような滑らかさで右旋回へ移る。旋回と加速を“同時”に行っている。


(……すげぇ…)


想太は後部座席で息を呑んだ。


そこにあるのは制御でも制圧でもない。


――空との共存だ。



ヴァネッサの背中は一切揺れなかった。


風が逆巻くたび、重力が揺らぐたび、彼女はほんの指先の操作だけで機体を“保ち”、風を“選んで”いた。


彼女の体が、まるで空に溶け込んでいるように自然だった。



《クロス・ヴェイル》は空を切り裂くようにして高度を上げ続けた。


ヴァネッサの背中は微動だにせず、

手元の操縦桿とレバーは一切の無駄を排して動く――だがその動きは“計算”というより“直感”に近かった。


「まもなく“風場境界層”。ここから先は、風が流れてない。……暴れてる」


想太が身を乗り出そうとしたその瞬間、視界の先に“何か”が渦巻いているのが見えた。


空が歪んでいた。


白と青が入り混じる雲の層が、ちょうどそこだけ、渦のようにれている。


それはまるで、空そのものが“煮え立って”いるかのようだった。


「入るぞ」


ヴァネッサはスロットルを絞り、尾翼をわずかに右へ振った。


すると、機体があっさりと斜め下へと滑り込む。



《クロス・ヴェイル》は、浮遊圏層の高層“風場乱流域”へ突入していた。


ここでは気流が不安定で、重力波が交錯している。

天候も晴れているとは限らず、雲の裂け目と風圧の谷間が交互に襲いかかる空。


ヴァネッサは舵を細かく操作しながら、時折指先で姿勢制御リングをはじいた。


「この空は、魔導制御じゃ捌けない。

目で読むな。空気の“肌触り”で飛べ」


その言葉の通り、彼女は明らかに感覚で飛んでいた。


風が変わる前に機体を傾け、乱流の波の先に浮遊を繋ぐ。


想太は背中越しに、風と対話しているような操縦を感じていた。


(これが、“生きるための飛び方”か)



突如、前方に渦のような空域が現れた。


「“乱層干渉域”だ。ここが境界だぞ」


空気が跳ねる。風圧が甲板を軋ませる。

機体が一瞬浮き、重く沈み――そのまま下へ引き込まれそうになる。


「落ちるな。風を踏め」


ヴァネッサが機体を滑らせるように旋回させる。

推進器の出力を絶妙に抜き、角度で風を切って浮遊力を再確保。


「うッ……!」


想太の背中に、上下左右から同時に引っ張るような力が襲いかかる。


推進器が唸り、浮力板が軋みを上げる。

通常の空とは違う――**“ねじれた圧力の海”**が、そこには広がっていた。


「しっかり捕まっとけよ……!」


ヴァネッサの声が、爆音の中に埋もれるように聞こえた。


機体が浮いたかと思えば、突然下へ叩きつけられ、旋回のきっかけを掴もうとすれば、風が逆回転して頭上から巻き込んでくる。


彼女は一切焦らず、操縦桿を持ち替えることもなく、ただ“角度”だけで機体を持ち上げていた。


「力で抗うな、流れに乗れ。

空を制すんじゃない――空に“預ける”んだ」


想太は、その言葉の意味をようやく理解し始める。


ヴァネッサの操縦は、まるで風と“対話”しているようだった。


追い風の中に身を傾け、揚力の層を感じ取る。


下降気流を迎える前に、先に重心を滑らせることで機体が落ちる“きっかけ”を逃す。


それは理論でも反射でもない。

――彼女自身が“風の一部”になっていた。



10秒。いや、30秒以上だったかもしれない。


その空間にいた時間は、永遠にも一瞬にも思えた。


「……抜けるぞ」


最後の一言とともに、ヴァネッサが左手で姿勢制御をわずかに開いた。


同時に、魔導炉の推進圧が一段階上がり、

《クロス・ヴェイル》は空を破るようにして乱流の中を突き進む。


弾丸のような機影が、雲の狭間を突く。



数秒後、乱流域を抜けた《クロス・ヴェイル》は、雲上の静穏層へと戻ってきた。


機体が減速し、空は再び静かさを取り戻す。


後席でしばらく無言だった想太が、ようやく口を開いた。


「……飛ぶって、こんな感覚だったんだな……」


「なんだそりゃ。ついこの前まで乗ってたじゃねーか」


そう言ってヴァネッサはふっと笑った。


「まあ、ようは慣れだ。この空に慣れること。風を知ること。そっからなんじゃねーか?」


「…ああ、そうだな」


想太の目は明らかに変わっていた。


風はただの気流じゃない。

生きることそのもののように、先が見えず、形のないもの。


胸の奥で何かが“騒いで”いた。


まるで、彼の中で何かが揺れ、止まっていたものが動き出したように。



《クロス・ヴェイル》は静かに、母艦レヴァン・ノードの空域へ戻りつつあった。


再び見えてきた艦体の輪郭は、訓練前よりもわずかに大きく、重く感じた。

それはきっと、想太の胸の内に新たな空気が流れ込んでいたからだ。


格納区に帰艦した後、ヴァネッサは何も言わずに整備パネルのチェックへと向かった。

彼女の動きに疲れの色はない。むしろ、風と一体化した直後のような自然さがあった。


想太は無言で後部座席を降りた。

そして、そのままふらりと、《レイ=カスタ》の元へと足を向けていた。



機体は格納区の奥に静かに佇んでいた。

あの飛空艇――少女の姿で現れた“レイ”が宿る、唯一無二の相棒候補。


想太はゆっくりと、彼女の機体を撫でるように歩く。

黒鉄と青白いラインが施されたその外装は、今も微かに熱を帯びていた。


機体の横に立ち止まり、そっと手を添える。

冷たい金属の感触の向こうに、確かに“何かが眠っている”気がした。


「……なあ」


誰に語るでもなく、呟く。


「お前は……この空を、どう思ってる?」


自分でも、なぜそんなことを訊ねたのか分からなかった。


ただ、あの乱流の中で感じた“空の力”を、

誰かと共有したかったのかもしれない。



ヴァネッサの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


――“空に抗うな。流れに乗れ。空を制すんじゃない。空に“預ける”んだ。”


そして、レイ=カスタの言葉も。


――“風の声が、聞こえるんだろ?”


だが、その問いかけにすぐ答えることはできなかった。


想太の胸には、いまだ整理のつかない“感情”が渦巻いていた。


あの風の中、自分は確かに何かを感じた。


けれど――それが“飛びたい”という気持ちだったのか。

それとも、あの空から“逃げたい”という恐怖だったのか。


その境界が、自分でもわからなかった。



「……俺は、なんで生きてるんだろうな」


それは、ここに来てから何度も頭に浮かんだ問いだった。


あの空で、命を終えるはずだった。


任務として、覚悟として、心の準備はしていた。


なのに、まだここにいる。


別の世界に。別の空に。


ただ、生き延びてしまっただけ。


――それなのに、また空を飛ぶ?


その疑問が、想太の心を締めつけていた。



「飛びたい……のか?」


自分自身への問いに、答えは出なかった。


けれど、彼は《レイ=カスタ》の機体に触れながら、その沈黙の中に、何かを探そうとしていた。


風のざわめき。

空の匂い。

浮遊することの重み。


「……なあ、もう一回だけ聞く」


想太はそっと目を閉じる。


「……お前は、俺に、飛んでほしいのか?」


返事はなかった。だが、風が吹いた。


ほんのわずかに、整備棟の空気が揺れた気がした。


そしてその揺れは、

彼の内に眠っていた“もうひとつの想い”を、静かに呼び起こす。


――“飛びたい”という気持ちは、まだ無い。

だけど、“もう一度空を知りたい”という気持ちは、確かにある。


その狭間で揺れながら、想太は、

もう一度《レイ=カスタ》のコックピットを見上げた。


それは、まだ開かれていない――

だが、確かに彼を待っている扉だった。







魔導炉冷却枠の点検は、想太の仕事の中でも特に神経を使う工程だった。

鋳鉄と魔導合金の継ぎ目に微細なヒビが入っていないかを確かめる作業は、視線と指先の集中力を一切切らせない。


――カン。


足元で小さな工具が転がる音がした。


「す、すみません! あのっ、落としちゃって……!」


慌てて身をかがめたのは、あの整備見習い――アッシュだった。


金髪の寝ぐせをいまだうまく直せないまま、オーバーサイズの工具袋を腰にぶらさげている。


「工具、大丈夫だったか?」


「あ、ソウタさん!大丈夫大丈夫! ありがとうッ」


「どういたしまして。それにしてもやけに慌ててんなぁ」


「…えへへ」


「一緒に自販機行こうぜ?どうせこの後休憩だろ?」


そう言うと、アッシュの顔がふわっと明るくなった。



二人はしばらく並んで作業を続けた。

整備棟の奥、風の通りにくいその場所は静かで、時折響く炉の脈動音だけが時間の流れを刻んでいた。


ふと、アッシュが顔を上げる。


「……あ、そういえば!」


「ん?」


「来週の模擬空戦、見に行くんですか? 想太さん」


「……模擬空戦?」


工具の手が止まる。


「あれ……聞いてなかったんですか?」


アッシュがごそごそと作業ベルトの横から折りたたまれた資料を取り出す。


「ほら、これ。“レヴァン船団・第十二期 中隊代表演習”! 年に一回のやつで……えっと、各中隊から1機ずつ、代表が出て空戦形式の演習をやるんです」


想太は受け取った紙面をじっと見つめた。

そこには簡略図と演習日、参加予定の中隊名、演習空域などが記されている。


「――12中隊、全部出るんだな」


「はいっ。めったにないんですよ、これ。しかも今回は、外部の偵察観察士も来るみたいで……上の人たち、本気みたいです」


「……ってことは、“見せ場”でもあるのか」


「そうそう! 普段じゃ見られない動きとか、“技術の見せ合い”みたいになるんですよ。僕、去年のやつも観に行ったんですけど、もう……!」


アッシュは両手を大きく広げて、空を飛ぶような仕草をした。


「旋回とか、軌道とか、もう芸術っていうか……。ほんと、空の上で“絵を描く”みたいだったんです」


想太は、資料から視線を上げ、整備棟の天井を見上げた。


その先にある空。


そこでは、十二の影が――

いや、“それぞれの空”が交差する舞台が、一週間後に待っている。


「……見に行けるかな」


「えっ? 行きますよね?」


「……わからない」


「……えっと……じゃ、じゃあ、もし行けたら一緒に行きませんか?

ぼく、演習見るとき“解説モード”入っちゃうんで、けっこう役に立つと思います!」


想太はふっと笑った。


「……ありがとな。考えとく」



演習まで、あと7日。


だが想太の中では、

すでに心のどこかに、風の気配が吹き始めていた。



母艦レヴァン・ノードの整備区画では、静かに――だが確実に、その準備が進みつつあった。


飛空艇の浮力膜の調整。推進管の微修正。照準器の再校正。


魔導炉の脈動がわずかに増幅され、いつもの喧騒よりも少しだけ“張り詰めた気配”が漂っていた。



想太はその日、作業の後で自然と格納庫の奥へ足を運んでいた。


《レイ=カスタ》は、いつもの場所に静かに佇んでいた。


見るたびに、この艇には“何か”が宿っていると感じる。

ただの機械ではなく、意思が、記憶が、そして――風の名残が、ここにはある。


想太はゆっくりと機体の外壁に手を当てた。


目を閉じれば、かつての感覚が蘇る。


霞ヶ浦。赤とんぼの操縦席。

教官の怒声。風の音。

――そして、あの日の零戦。


鉄の骨が悲鳴をあげるような旋回。

命令と使命の間で裂けそうだった心。


(あのとき……俺は、何を見ていた?)


飛ぶことは、死に向かうことだった。

だが、いま目の前の空は――生きる場所だ。


その違いに、まだ自分は馴染めていない。


「おい、また来てんのか。お前、《レイ=カスタ》の付き人かよ」


背後から響いた声に、想太は振り返った。


そこに立っていたのは――カイル・レンフリート。

第五煙環中隊の正規飛行士にして、現場で“若きホープ”と呼ばれる存在だった。


年齢は想太よりわずかに一つ上だが、既に多くの実戦訓練を経験しており、隊内では「次期副長候補」とも噂されている。


だがその態度に驕りはない。

むしろ、誰よりも真面目に“空と向き合っている”男だった。


「……付き人ってわけじゃないさ。ただ、ここに来ると落ち着くんだ」


「ふーん……ま、悪くない考えだな。あの艇、目つきしてるよな。生き物みたいな」


「……そう、思うか?」


「思うさ。ああいうのに“乗るか乗らねえか”で、俺たちの生き方はだいぶ変わる」


カイルは肩を竦めながら、すっと視線を《レイ=カスタ》に向ける。


「お前、今日訓練する予定は?」


想太は答えに詰まった。


「まだ……決めてない」


「怖いか?」


その一言に、想太はわずかに顔を上げた。


カイルはあくまで穏やかに、だが真っすぐに言った。


「怖くて当然だ。空は命を奪う場所だ。でも――同時に、命が生きる場所でもある」


彼の声には、戦ってきた者の体温があった。


「演習、俺が出る。うちの小隊代表としてな」


カイルがそう言って、やや誇らしげに鼻を鳴らす。


「ま、当然っちゃ当然だけどな。他の連中じゃ、あの空は保てねえよ」


「……自信あるんだな」


想太が半ば呆れたように返すと、カイルは腕を組んでにやりと笑った。


「あるさ。飛空艇は腕がすべて。

それと……感覚。空と対話できるかどうかだ。俺にはそれがある。お前には?」


挑発のような口ぶりだったが、そこに悪意はない。

むしろ、“飛び手”としての誇りと探りを混ぜた、純粋な興味だった。


「……まだわからない」


想太が正直にそう答えると、カイルは少しだけ目を細めて彼を見た。


「ま、焦んな。空は逃げねえ。……ただし、“速い奴”が先に取るだけだ」


「お前が、速いってわけか?」


「当たり前だ。俺がいなかったら、この隊今頃笑い物にされてたぜ?」


その言葉に、想太はふと笑ってしまった。


「……言うなあ」


「おう、遠慮なく言うさ。飛空艇乗りはな、空の上じゃ“言葉”より“姿勢”で語るんだよ。

お前が本気になったら、そのときは俺の背中、追ってみろよ。逃げ切れる自信はあるぜ?」


「……ああ。そうなったら、その背中、すぐに抜いてやるよ」


口に出してみて、自分でも驚いた。

だが、その言葉に嘘はなかった。


カイルは一瞬、目を丸くし――次の瞬間、満足げに笑った。


「おもしれぇ。…ま、まずは乗れるとっからだな。せいぜい頑張れ」



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