第7話
二人はレヴァン・ノードの甲板の上で、互いの存在を確かめ合うように言葉を交わしていた。
想太は彼女が《レイ・カスタ》であることをいまだ信じられずにいたが、二人の間に流れる時間は穏やかで、わずかな膨らみを帯びたように円やかだった。
彼女の言葉を追いかけるように想太は尋ねた。
それは以前から気になっていたことで、度々耳にしている言葉でもあった。
「“空の裂け目”って……なんなんだ?」
その問いにレイは立ち止まり、しばし空を見上げた。
雲の切れ間から差し込む星光が、彼女の髪を淡く照らす。
青銀にきらめくそれは、風の化身であるかのように儚く、どこか芯の強さを帯びていた。
「――お前が落ちてきた場所。あれは、“天穿の痕域”と呼ばれてる」
「天穿……?」
「うん。“天を穿つ”って意味。かつてこの世界が地上と繋がっていた頃――すべてを引き裂いた災厄、“グラヴィア・インシデント”が起きた」
「……それは、戦争か? 災害か?」
レイは静かに首を横に振る。
「戦いでも、災害でもない。“終焉に近い、始まり”だった。すべてが変わったのは、その時だよ」
彼女の声には、ただの知識ではない、感情がこもっていた。
想太はさらに言葉を重ねた。
「じゃあ、その……“グラヴィア・インシデント”って、いったい何が起きたんだ?」
レイはしばし沈黙したまま、遠くを見る。
その光彩はほんの少し――懐かしい色を帯びていた。
そして、ぽつりと呟くように語り始めた。
「地が割れ、空が膨らんだ。世界の重力の軸が、ある日突然、ひっくり返ったの」
「……ひっくり返った…って??」
「魔力の飽和と、大気圧の歪み。それに、人工魔導炉の連鎖暴走。全部が一度に重なって……結果、空に“逃げなきゃならない”世界になった。
それが、今の“浮遊圏”の始まり」
想太は息を呑んだ。
それは歴史ではなく、神話に近い話だった。
「空に浮かぶ都市たちは、もともと浮いていたんじゃない。
地上から“押し上げられた”んだ」
「…地上から…。ヴァネッサも言ってたけど、大陸は昔“雲の下”にあったって…」
「“信じられない”って顔だね」
「当たり前だろ。大体なんだよ…。浮遊大陸って…」
「お前がそう思うのも無理ないかもね。かつての地上は、もう雲の下にはない。あるのはただ嵐の下に揺れる海だけ。“失われた地平”だけだよ」
「かつての「地上」が、今は空に…?」
「そういうこと」
「……じゃあ、この空は、地上の“残骸”なんだな」
「言い方はキツいけど、そうかもね。
でも、だからこそ――空に立つ意味がある」
レイの目が、ほんの少しだけ強く光った。
「……まだ、知りたい?」
「……ああ。教えてくれ」
レイは小さく頷き、次の言葉を選ぶように口を開いた。
「じゃあ次は――なぜ、空の都市が崩れずに存在できているか。その“支柱”の話をしようか」
聞き慣れない言葉たちを必死に追いかけながら、想太は耳を傾ける。
夜の空は静かで、星たちはまるで耳を澄ませるようにまたたいていた。
「この世界が“浮かんでいる”のは偶然じゃない。
ちゃんと理由があって、そして、その理由を支えているものがあるの」
「それが……“空の支柱”ってやつか?」
「そう。正式名称は《グラヴィ=アクシス》。
通称“軸柱”。この浮遊圏の重力バランスを保つために構築された、巨大な魔導構造体よ」
「構造体……じゃあ、自然物じゃないのか?」
「違う。あれは人間たちが、世界が壊れた後に作った“再定義の柱”。
重力、浮力、時間、空間。それぞれの揺らぎを一定の波形に保つように調整された、魔導炉の集合体」
想太は言葉を失っていた。
「世界の重力が崩壊した後、それぞれの浮遊島を“落ちないように”繋ぎ止める必要があった。
そのために、空間に張り巡らされた《重力織界》と、それを制御する“柱”が必要だったの」
「じゃあ……この空は“人工的に維持されてる”ってこと…?」
「そう。だから私たちは、ただ飛んでるだけじゃない。
“飛び続けられるように”、この空のルールを守りながら生きてる」
その言葉は、レイの小さな体から出ているとは思えないほど、強く響いていた。
「さっき言った《グラヴィ=アクシス》――“空の支柱”は、この世界の浮遊圏を保つ重力調整装置でもあり、空の柱の名残でもある」
想太は、傍らで静かに頷いた。
「……それって、いくつあるんだ?」
「四本」
「四本?」
「そう。東西南北、それぞれに1本ずつ配置されていて、この世界の“重心”を保つ軸になってる。
この支柱が一本でも崩壊したら、浮遊圏はバランスを失って、全ての大陸が落ちる」
レイの声は穏やかだが、その言葉には確かな緊張が宿っていた。
想太は、机の上に置かれていた整備用の炭素板に、無意識に指で図を描き始めた。
「……ってことは、その支柱の上に浮かんでる大陸も、四つ?」
「正確には、《グラヴィ=アクシス》を中心とした**浮遊環域の上に形成された大陸プレートが四つ、
それぞれ“巨大重力制御核”**を起点にして定着してる。言ってみれば、空に浮かんだ“四本脚のテーブル”みたいなもんだね」
「それぞれ、国があるんだよな」
「うん。そしてそれぞれが、重力炉の支柱を独占してる」
そう言って、レイは指を一本立てた。
「東の《ルビアス帝国》。古代魔導の末裔とされる学術都市帝国。空の魔力濃度を操る研究を続けてる」
次にもう一本。
「西の《ヴェルトライク連邦》。重装飛空艇と魔導工廠の国。機械技術で支柱制御を最も進化させてる」
三本目。
「南の《カド=エル王政領》。魔力と宗教が混在した神権政治。支柱そのものを“神の柱”と崇め、異端を拒む厳しい国」
そして、最後の一本。
「北の《イグナ=フレア帝国》。空賊国家の母体とも言える場所。航路と空域の支配で絶大な影響力を持つけど、内部では群雄割拠状態」
想太は依然として言葉を失っていた。
(ただの空じゃない。この空には、“秩序”がある……)
そしてその秩序は、科学と魔法と信仰と、暴力と――すべてが、空に浮かぶ支柱を基点として支えられている。
「……それぞれの支柱に不調が起きたら?」
レイはきっぱりと言った。
「世界が割れる。冗談じゃなく、本当に。
支柱間のエネルギーバランスは精密に保たれていて、もしひとつでも干渉されたら……他の支柱が“軌道修正”のために連動崩壊を起こす」
「それが……戦争の火種になってるんだな」
「うん。支柱の制御権は、国家の命綱そのもの。
そしてその国家同士は、“支柱”の保有権や浮遊炉の管理権を巡って、ずっと静かな戦争を続けている」
「静かな戦争……?」
「直接的な戦闘ばかりじゃないわ。交易路の妨害、浮遊石の供給制限、情報戦、政治的同盟……。
空は狭いようで広い。でも“落ちる”リスクと隣り合わせのこの世界では、一つの浮島、一つの補給炉が命綱になるの」
想太はゆっくりと息を吐いた。
「……地上での戦争とは、少し勝手が違うのか」
「そう。“風と支柱”を巡る争いなの。だから、空を飛ぶ者たちはみな、どこかの国家に属するか、あるいは――」
「空賊になる」
レイは微笑み、肯定するようにうなずいた。
「そう。そして、ヴァネッサたちレヴァン航団は、どこの国家にも属さず、自分たちで浮遊圏を守る“自由航団”。
でもそれは、“空の秩序の外”にいるということでもある」
「つまり……俺がいるこの場所も、決して安全じゃないってことか」
「正確には、“守られていない”ということね」
その言葉に、想太の胸に一つの感情が芽生える。
(じゃあ――ここで生きるには、自分の風を選ばなきゃならない)
レイは、そんな彼の変化を静かに見つめていた。
——風が、止んだ。
星がまたたくその静けさの中で、想太はふと、ここに来る途中で見た「渦」のことを思い出した。
「……そういえばさ、つい先日見たんだよ。見たこともないような巨大な渦が、地平線の向こうに立ってたんだ。…嘘みたいな光景がだった。ヴァネッサも言ってたが、あれが“空の裂け目“ってやつだよな?」
その言葉に、レイ=カスタの瞳が微かに揺れる。
その揺らぎは、まるで過去の記憶に手を伸ばすような微光だった。
「……そうだね――」
彼女はゆっくりと、言葉を選ぶように話し始めた。
「そう捉えて間違いはない。だけど、本当の”裂け目”は雲の下に存在してる。転界層のさらに下、——かつて地上があった場所に、この世界に開いた“時間と空間の傷痕”がある」
「…傷痕」
「空が“完全ではなくなった瞬間”に刻まれた、世界の矛盾のしるし」
彼女が説明する空の裂け目は、ひとつの「出来事」ではなく、複数の物理法則と魔導理論が衝突し、重なり、ねじれた結果として生じた“現象”だった。
「かつて、旧世界の科学者たちは、“限界”に挑もうとしていた。
魔力と重力、空間と質量の相互干渉を、人工的に安定化できるか試みていたんだ」
その中心にあったのが、かの伝説的な巨大施設――《リグ・シンフォニア》。
「彼らは、空を超えた“次元の調律”を目指していた。
世界の全てを制御可能な状態に“整列”させようとした。……だが」
レイの声が低くなる。
「失敗した。
次元の“根幹構造”――時間軸そのものに、微細な誤差が生じたの。
それはほんの一万分の一秒の揺らぎ。
だけどその揺らぎは、**因果律の“巻き戻しと重複”**を誘発した」
想太は、ただ静かに聞いていた。
レイの言葉が意味するのは、常識を超えた、世界そのものの“破綻”だった。
「空はひび割れた。時は裂け、場所はねじれた。
それが“空の裂け目”――《クロノ=フラクチャ》と呼ばれる領域」
「……あれは、ただの穴じゃなかったのか……?」
「違う。あれは、“存在の綻び”。
この世界の“ルール”が書き換えられる前触れでもあった」
レイの視線が、遠くの空へと向けられる。
「裂け目の中では、過去と未来が交差する。
重力は上と下を見失い、光は曲がり、風はさざめきながら逆流する。
そこに落ちた者は、“本来あるはずのない時間”に紛れ込み、
――やがて、別の場所へと辿り着く」
想太の心臓が、微かに脈打った。
「……まさか。俺も、その裂け目を通ってきた……?」
レイは、はっきりと頷いた。
「“天穿の痕域”。お前が落ちてきた場所は、まさにその裂け目の境界。
風のさざめきに満ち、時の記憶がうごめいていた。
――お前は、“ここではない時空”から引き寄せられた」
「じゃあ……それって、“転生”じゃないのか?」
「……理論上は、そうとも言える。
でも正確には、“帰属軸の置き換え”だよ。
お前の“存在情報”――身体と魂と記憶が、“別の時空の因果軸”に貼り直された」
想太は、自分がいまどこに立っているのかさえわからなくなった。
だが、レイは穏やかに言葉を重ねる。
「恐れることはない。
裂け目は“傷”であると同時に、“扉”でもある。
お前がここにいるということは、この空が――“お前を受け入れた”という証でもある」
その瞬間、格納区画の上空に、静かな風が通り過ぎた。
まるで、誰かが“見ている”かのように。
あるいは――空そのものが、想太に語りかけたかのように。
想太は、ようやく言葉を絞り出す。
「……じゃあ、俺は……
ここで、“何をすればいいんだろうな”」
レイは少しだけ微笑み、星空を見上げた。
「それを決めるのが、“飛ぶ”ってことじゃない?」
夜空は果てしなく澄んでいた。
“綻びの空”の下に、新しい物語の座標が生まれつつあった。
◇
それは、ひとつの習慣のようになっていた。
補給区での仕事を終えたあと、想太は食事もそこそこに、静かに格納区画へと向かう。
待っているのは、飛空艇《レイ=カスタ》と、それを黙々と点検しているヴァネッサだった。
「おう、来たか」
彼女は振り向かないまま、機体下部のフレームに手を伸ばす。
「今日からは動力制御板の点検。浮力反応が一秒でも遅れたら、次の瞬間には墜ちるぞ。覚えとけ」
「……はい」
想太は工具を受け取り、彼女の指示に従って順にパネルを外していく。
フレームの下に潜ると、油と魔導石の匂いが微かに鼻を突いた。
懐かしい感覚だった。――だが、それ以上に、新しい“学び”だった。
「空の上じゃ、予兆の1秒が命の30秒になる。
だから飛ぶやつは“機体と喋れ”って教える。……お前は、そのへんは覚えがあるだろ?」
「……ああ。感覚で、わかることが多いんだ。
手の震えとか、音の変化とか。……あれは、機械の言葉だったのかもな」
ヴァネッサは短く鼻を鳴らした。
「言葉だよ。風の言葉でもある。機体は風に抗う道具だ。だから、どっちの言葉も理解してなきゃな」
作業の合間、想太はふと口にした。
「……なあ、ヴァネッサ。お前は、なんで俺にここまで手を貸すんだ?」
その問いに、彼女は手を止めなかった。
だが――その目は一瞬、別のものを見ていた。
(――あの飛空艇。零戦とかいう名だったか。
あれは、この世界のどんな設計にも属さない。
魔導炉も、風石も使わない。けど、空を“知っている”。
こいつがどこから来たのか、それを知るには――)
「……興味だよ」
「え?」
「お前じゃなくてな。お前が乗ってた“あの機体”が、どこから来たのか。
どこを飛んで、何を見て、どんな空を越えてきたのか――それを知りたいだけだ」
ヴァネッサの声には、乾いた響きがあった。
だが、その奥にあったのは確かに、空に魅せられた者の“渇き”だった。
夜が更けても、ふたりは機体を前に言葉を交わし、手を動かし続けていた。
整備台の光の下、想太の額には汗が浮かび、ヴァネッサの横顔は淡い光に照らされていた。
ふたりの会話は多くなかった。
だが、沈黙そのものが“信頼と理解の間合い”を形作っていた。
その夜もまた、風は機体のまわりを静かに巡っていた。
想太は知っていた。
この沈黙の中に、再び空を飛ぶための翼が、少しずつ育っていることを。
***
《レイ=カスタ》の整備は、想太の手によって着実に仕上がりつつあった。
風導板の調整、推進器の点火リレー、制御盤の応答速度――
どれも彼にとって未知の技術だったが、毎晩のようにヴァネッサと共に作業を重ねたことで、次第に手応えを掴みはじめていた。
そして、その夜。
整備区画にて、ヴァネッサが飛空艇の側に立ち、腕を組んだまま告げた。
「……整備も十分だ。反応も悪くねえ。
そろそろ、実地に移る」
想太の胸がわずかに跳ねた。
「じゃあ……俺が、飛ぶのか?」
だがヴァネッサは首を振る。
「お前は“まだ”だ。いきなり飛ばせるほど、空は甘くねぇ」
そう言って、彼女は操縦席へと乗り込んだ。
「まずは見とけ。――空賊式の“飛び方”ってやつを」
《レイ=カスタ》の推進炉が静かに脈動を始める。
整備士が手際よく安全枠を外し、試験航路へと滑走ルートを展開する。
艦内の風が緩やかに渦を巻く中、機体が軽やかに前進し――
わずかな助走ののち、ふっと、空を掴むように浮かび上がった。
想太は目を見張った。
ヴァネッサの操縦は、まるで“落ちない風”をなぞるようだった。
風を押すのではなく、風に“乗っている”。
右へ、左へ。機体は鋭くも柔らかく旋回し、
高度を取らずとも滑空の角度でリフトを生み出す――
(……これが、“空賊の飛び方”か)
戦闘機のような直線加速もなければ、軍式の高度管理もない。
だがそこには、空を生きる者の“呼吸”と“重さ”があった。
機体は一度ゆるやかに弧を描き、旋回して再び甲板へと戻ってくる。
着陸は滑らかだった。
風が、まるで機体を迎えに来たように、甲板へと押し戻していた。
ヴァネッサが操縦席から降りると、想太はすぐに駆け寄った。
「……すごい。全然、軍で教わった操縦とは違う」
「当たり前だ。空賊にとって飛ぶってのは、“逃げる”ことでも“追う”ことでもない。
“生き延びる技術”だ。生きることが目的だから、無駄な空力も、過剰な装備もいらねえ」
「……その飛び方、俺に教えてくれるのか?」
ヴァネッサは一拍だけ沈黙し――小さく頷いた。
「空が望むなら、な」
その言葉は風のように軽く、だが確かに、想太の胸の中で“応え”になった。
彼は、ついに“飛ぶ準備”の一歩を踏み出そうとしていた。