第6話
格納区画第2整備棟――
夕焼けが格子窓から差し込むなか、ヴァネッサに導かれて想太は静かな空間へと足を踏み入れた。そこには高天井の奥、まるで眠る獣のように鎮座する、一機の飛空艇があった。
その姿を見た瞬間、想太は思わず足を止めた。
滑らかな胴体、尾部に埋め込まれた推進器。金属と魔導構造体の融合体であるその機体は、零戦に似た流線形を持ちながらも、異質な美しさを備えていた。
「……これは……ヴァネッサの船か?」
思わず尋ねた声に、彼女は薄く笑って首を振った。
「違う。こいつは、今のところ“誰のものでもない”」
彼女はポケットから札型の認証キーを取り出しながら、ふと真顔になって想太を見つめた。
「もう一度空を飛びたいんだろ?」
その問いに、想太の喉がわずかに詰まった。
否定できなかった。
飛ぶことに怯えていたわけじゃない。ただ、戻っていいのか――その答えを自分自身が決めかねていた。
ヴァネッサは機体に目をやった。
「《レイ=カスタ》。偵察試作機だが、構造は軽量で、長距離滑空に特化してる。
操縦席は一人用。機体制御の神経伝達層には“使用者との魔導同調”が必要だ」
想太が怪訝な顔をすると、彼女は言った。
「つまり、こいつにはまだ“パートナー”がいねえってことだよ。
……乗ってみるか? ソウタ」
一瞬、空気が止まった。
想太は、無言で機体に手を伸ばす。
金属の感触。冷たさの奥に、確かに“鼓動”のようなものがあった。
双方向翼はやや前傾し、内側には魔導浮力石の制御層が編み込まれている。
尾翼は短く鋭く、風切音を軽減する設計。背面には、熱を逃す青白い放熱スリットが艶やかに光っていた。
(コイツは……零戦とは全く違うが…)
思い出す。
プロペラの回転。重力の解放。風を切る音。
「……俺が、乗っていいのか?」
想太は思わずそう聞いていた。
「あんたは飛行士だった。今も“飛びたい”と思ってる。そうだろ?」
その言葉に、想太の胸がわずかに熱を帯びた。
「……そうだけど」
彼は戸惑いながら、差し伸ばしていた手をパッと離す。
確かに飛びたいとは思っている。
…ただ、本当にいいんだろうか?
仮にコイツに乗って飛べたとして、どこに行けばいいのか?
そう思う感情が不意に込み上げてくる。
想太は明確な答えを出せないまま、整備を終えたばかりのその機体を眺めていた。
「……でも、どうやって操縦すればいいんだ? 零戦とは勝手が違うと思うし……」
その言葉に、ヴァネッサは少し顎を上げて問い返す。
「魔導機構を使った船――つまり“魔力推進型”の艇に乗った経験は?」
「ない。そもそも……“魔導機構”って何だよ」
想太の声には戸惑いが滲んでいた。
ヴァネッサはため息まじりに小さく笑うと、格納庫の片隅にあった整備台に腰を下ろした。
「やっぱり、そっからだよな。……よし、講義を始めるか」
彼女は指先で床に軽く触れた。
その瞬間、小さな浮遊板がふわりと宙に浮かび、淡い青白い光を灯した。
「まず、“魔力”ってのは、この世界のエネルギー源だ。大地にも空気にも生物にも、どんな物質にも微量に流れている。
それを“扱う”ための技術が、“魔導技術”ってわけ」
想太は半信半疑でヴァネッサの話を聞いていたが、その説明は整然としていて、どこか科学の原理に似た雰囲気もあった。
「機体の中には“魔導炉”って装置があってな、空気中の魔力を濾過・圧縮して推進エネルギーに変換する。
まあ、あんたのあの飛空艇で言えば……ジェットエンジンに近いかもな」
「…ジェットって??」
「…知らないのか?…あの飛空艇のエンジンはどんな仕組みだった?」
「零戦はピストン形式だ。レシプロエンジンって呼ばれてて、往復動機関、——もしくはピストンエンジン・ピストン機関と呼ばれる熱機関の一種で動いてた」
「…それまたとんでもなく古い技術だな。まあいい。ようはエンジン前方から取り込んだ魔力を圧縮し、エネルギーに変換して動かすんだ」
「魔力で…動く……!?」
想太はつい呟いた。
「ただし、魔導艇は“ただ燃料を食うだけ”じゃない。
乗り手の魔力との“同調”――つまり、意志や感覚を一部共有することで、制御効率が飛躍的に上がる。
それが“魔導同調”だ」
「……意志を、共有?」
想太は目を瞬かせた。
機械と意志がつながる。そんな話は、現実味のない幻想のように思えた。
だが、ヴァネッサは真剣な眼差しで続ける。
「魔導機は、生き物みたいなもんだ。お前がどう動きたいかを感じ取り、それに応えてくる。
反面、お前の恐怖や迷いも全部拾う。だから、乗る者の“在り方”が問われる」
彼女の言葉は、どこか告白に近い響きを持っていた。
「レイ=カスタは、まだ誰とも同調してない。だからこそ、あんたのような奴を待ってる。
……飛ぶ覚悟があるなら、まず“空と自分を繋ぐ感覚”から始めるんだよ」
静かだった格納庫に、再び風が吹き込んだ。
想太は、レイ=カスタを見上げながら小さく息を吐いた。
魔導同調。魔力。そして、空を“意志で制御する”という感覚。
未知はまだ深く遠い。だが、そこには確かに――“風を掴む”可能性が存在していた。
想太は、ヴァネッサの話を反芻するように呟いた。
「……魔力って、誰にでもあるもんなのか?」
その問いに、ヴァネッサはあっさりと笑い返した。
「あるに決まってんだろ。持ってない奴なんて、この空にはいねぇよ」
そう言いながら、彼女は指先で宙をなぞる。
その軌跡に淡く光が灯り、細く風のような流れが浮かび上がった。
「魔力ってのはな、生きてる証そのものさ。呼吸と同じで、無意識のうちに体から漏れてる。
ただ――使えるかどうかは、別の話だ」
想太はその言葉に眉を寄せる。
「じゃあ……俺にも、本当にあるのか? 魔力ってやつが」
「試してみるか?」
ヴァネッサは、整備台から一枚の札を取り出した。
薄く銀色に縁どられた小型の魔導札だった。
「これは“感応札”ってやつ。魔力を視認化するためのもんだ。
手のひらをかざして、意識を静めろ。深く吸って、吐いて……自分の中心に、風の芯があると思ってみろ」
想太は言われるままに札の上に手をかざした。
最初は何も起きなかった。だが、呼吸を整え、体の奥へと意識を沈めていくと――
札の中心が、ふっと光った。
青白い波紋が広がり、まるで水面に落ちた雫のように、円形の痕跡を描いた。
「……これ、俺の……?」
「そう。あんたの魔力だ。感応自体はかなり素直だな。力そのものは未熟でも、流れは濁ってねぇ」
ヴァネッサは札を指差しながら、続けた。
「魔力ってのは“意志”に近い。怒りでもいい、願いでもいい。何かを“成したい”と思った時、
それが魔力の流れを生むんだ。だから、技術の前に心がある。扱えるようになるには、まずそれを認めることだ」
想太は、まだ信じ切れないような顔で自分の手を見つめていた。
だが、彼の中で何かが確かに動いていた。
“風の芯”という表現が、妙にしっくりと来る。
彼の心のどこかに、確かに流れる“何か”があると――そう感じられたのだ。
ヴァネッサは微笑んだ。
「あんたは、飛ぶことを選んだ。なら今度は、その意思を自分の力で貫く番だ」
格納庫の風が、再び彼らの間を通り抜けた。
一人の特攻隊員の眼差しと、揺れる心。
穏やかな夕暮れの光のなかで、整備を終えたばかりのレイ=カスタが静かに存在していた。
甲板に涼しい風が吹いていた。
《レヴァン・ノード》の灯りは最低限に落とされ、頭上には無数の星々が瞬いていた。風導膜の外、夜空は静かに広がっている。月のない夜。だからこそ、星が際立って見える。
想太は、手すりにもたれながら空を見上げていた。
「……ここは、どこなんだろうな」
誰に言うでもなく呟いたその言葉は、風に溶けて消えた。
魔導の力。空賊。飛空艇。空の渦。空の上の街。
どれもが、まだ現実として理解しきれないまま、自分の中に積み重なっていく。
だが、それ以上に心を締めつけていたのは――“まだ生きている“という事実だった。
彼のいた時代。名前。制服。任務。
そして、置いてきたもの。
家族。父と母。弟。そして――。
「……ごめんな、言えなかった」
あの日、零戦に乗り込む前の朝を思い出す。
整備兵の視線を避け、機体の影で紙を折った。何を書いたか、よく覚えていない。ただ、伝えたかった。ありがとうと、さようならと、生まれてきてよかったと。
けれど、その紙は、出すことができなかった。
懐にしまったまま飛び立った。
燃料は片道分。戻るという前提など、初めからなかった。
(なのに、こうして生きてる)
あの空で死ぬはずだった自分が、今は、どこかもわからないの空の上で生きている。
ヴァネッサが言っていた。“飛びたいなら、飛べ”と。
「レイ・カスタ…か……」
まだ決めきれていなかった。だが、何かが揺らぎ始めていたのも確かだった。
零戦とは違う。あれは“死ぬための機体”だった。
でも、レイ・カスタは――“生きるための翼”なのかもしれない。
星がまたたく空の下で、想太はその問いに少しだけ向き合っていた。
夜明け前の静けさの中、想太はひとり、整備棟の奥に佇んでいた。
空はまだ灰色で、風も眠っているようだった。だが、彼の胸の内は穏やかではなかった。
思い出していたのは、かつての空。あの、鉄と油と命令に満ちた“本物の戦場”だった。
⸻
あの日のこと――
想太が初めて「空を飛ぶ」という言葉の重みを知ったのは、大日本帝国陸軍航空士官学校での訓練の日々だった。
朝はまだ暗いうちから起床ラッパが鳴り響き、制服を着て点呼に並ぶ。日課は軍人勅諭の復唱に始まり、剣道・銃剣術・戦術講義と続く。
だが想太の心が向かっていたのは、やはり“空”だった。
彼が配属されたのは、霞ヶ浦航空隊。
ここでは、初等練習機として「赤とんぼ」と呼ばれた九五式一型練習機に乗ることから始まる。
機体の振動、開放式の操縦席、ヘルメット越しに叩きつける風。
最初は恐怖でしかなかった。しかし、何十回もタキシングを繰り返し、離陸と着陸の基礎を叩き込まれるうちに、身体が空気に馴染んでいった。
教官は厳しく、容赦なかった。僅かな操縦ミスが命取りになることを、彼らは熟知していた。
「飛行機はな、人を選ばん。ただ、空は正直だ。嘘をついた奴から落ちていく」
その言葉が、今でも想太の胸に残っている。
初めて一人で離陸した日のことは忘れられない。
地面が遠ざかり、風が全身を包んだとき――確かに、世界が変わった。
(……俺は、この空を、国のために使うんだ)
当時、そう誓った。
父も兄も戦地に行き、戻らなかった。
だからこそ、自分が戦わなければならないと、強く信じていた。
やがて、より高等な機体へと訓練は進み、「零式艦上戦闘機」の操縦が始まった。
速度は400キロをゆうに超え、機体の挙動は敏感で、わずかな舵の動きが生死を分ける。
無線連絡、編隊飛行、模擬戦闘、急降下爆撃の反復訓練。すべては“本物の戦場”で通用するために。
その中で、想太は徐々に――“死ぬことへの覚悟”を抱くようになっていった。
教官の多くが、戦地から帰らぬ人となり、同輩も次々と前線へ送られる。
やがて彼にも「特別攻撃隊」への選抜が告げられた。
笑顔で別れを告げる同期。涙を隠しながら家族へ手紙を書く夜。
想太は、心の奥に残った“恐れ”を押し殺しながら、命令を受け入れた。
だが――その最後の瞬間に、彼は“風の中で生きたい”と願ってしまった。
――音が、すべてを包んでいた。
甲高い始動音。振動する操縦桿。油の匂いと、煤けた空気。
それらは、彼にとってあまりにも鮮明な“終わりの予感”だった。
出撃の朝。
格納庫を抜けた滑走路は、朝霧に包まれていた。
地面に垂れこめた霧は、まるでこの世とあの世の境界のようだった。
「朽木少尉、出撃準備、完了しております」
機付きの整備兵が敬礼しながら報告を終えると、想太はゆっくりと首を縦に振った。
(……これで、本当に終わりなんだな)
零戦の機体に乗り込む瞬間、想太は無意識に手袋を確かめ、操縦桿の滑り具合を再確認した。
右側に設置されたレバー群。計器板には、高度計、昇降計、燃料圧、空速計。どれも見慣れた、けれどその日だけはやけに重く見えた。
左手で油量調整、右手で燃料コックを開き、イグニッションをオン。
キィ――ン……ゴオオオ……
星型エンジンが唸りを上げる。
プロペラが回転し、機体がわずかに震えた。
(……もう、戻れない)
想太の胸の中には、恐怖ではなく――静けさがあった。
家族の顔も、教官の叱声も、すべてが遠く、霞の中に消えていくようだった。
(風が、吹いている)
彼はその時、静かに目を閉じた。
機体が走り出す直前――
風が耳を撫でた。
零戦の前方、白く光る滑走路。
その向こうには、もう帰ることのない空。
そして――
………
…………………………
……………………………………………………
⸻
《レヴァン・ノード》の格納区画。
想太は、目を閉じたまま立っていた。
鉄の床板、魔導機の低い脈動音。だが彼の中には、あの零戦の機体の振動がまだ残っていた。
(俺は、どこへ向かうんだ……)
静かな夜。
星が瞬く空。
考えれば考えるほどわからなくなってしまう自分がいた。
気がつけばここにいて、見知らぬ飛行船の甲板にいて…
何もかもが静寂の中に消え失せようとする意識の下で、ふと――声が届いた。
「……おい、こんなとこで寝るつもりか?」
その声は、どこか軽やかで、少し呆れたような――それでも確かな温度を帯びていた。
想太は振り返った。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
青い――いや、風の色をした髪が、肩で揺れている。
淡い銀光の入った編み込みは、まるで空に浮かぶ風紋のようだった。
年の頃は十代半ばに見える。だがその瞳には、何百年も空を見つめてきたような深みが宿っていた。
目元は凛とし、眉はわずかに上がっている。動きに無駄はなく、軍人のように背筋を正して立っていた。
彼女は片手を腰に当てながら、堂々と歩み寄ってきた。
「まったく、やっと気づいたか。……何回も呼んだだろ?」
「……誰だ……?」
思わず想太が問い返すと、彼女は一歩、彼の目の前まで来て、いたずらっぽく笑った。
「名前なんてないよ。…まあ、とはいえ、それじゃあ困惑しちゃうか。あえて名乗るとするなら、《レイ=カスタ》。さっきまで一緒にいた飛空艇。あれが”わたし“」
「………は?」
想太は目が点になった。
…さっきまで一緒にいた?
身に覚えがなかった。
この母艦で会った人はたくさんいる。
もしかしたらすれ違ったことがあったのかもしれない。
しかし、”一緒にいた”という言葉がどうしても引っかかった。
「…どこかで会ったっけ…?」
「あー、この“姿”だから戸惑ってるんだね。お前と話せるように、わざわざ人の姿になってあげたんだ。だからこの姿で会うのはこれが初めて」
…意味が、わからない。
“人の姿になってあげた?“
その言葉を正確に掴むのには時間がかかった。
言葉自体の意味もそうだが、言ってることの意味がそもそもわからなかった。
困惑する想太を見て、「レイ」はめんどくさそうに説明を始める。
「ヴァネッサが整備してくれた飛空艇。その名前は?」
「…レイ・カスタ?」
「そう。つまりそういうことだよ。私は人間でもなんでもない。艇の魂。そう言った方がわかりやすいかな?」
「……艇の、魂?」
「うん。正式には“空導核意識体”。この世界の飛空艇には、稀に『精霊』が宿る。
わたしみたいな存在は数少ないけど、ヴァネッサのおかげで”意思”を持てるようになったってわけ」
想太は言葉を失った。
“機体が喋る”など、常識では考えられない。
だが、目の前の彼女の気配は、確かに“生きている”もののそれだった。
「それに……あんた、わかってるだろ?」
彼女はふっと目を細め、真剣な顔になる。
「“風の声”が、聞こえるんだろ?」
その一言に、想太は息を呑んだ。
かつて零戦で飛んでいたとき。
風の方向が、変わる“前”にわかったことがあった。
雲が裂ける音が、雷鳴よりも早く響いたことがあった。
けれどそれは訓練や理論では説明がつかず、ただ直感としか言いようのない“異質な何か”だった。
「お前は、この世界じゃ特別な体質なんだよ。
空の裂け目を越えて来た者。その風は、わたしたちと似て非なる存在を纏っている」
レイ=カスタは、まるで仲間に再会したように、懐かしげな声で言った。
「お前には、わたしの声が届いた。
だからこそ、わたしは目を覚ました。今、こうして“お前に話しかけられる”」
想太は、ゆっくりと問い返した。
「……じゃあ、お前は……」
信じられないと言ったような目で、想太は口を開けたまま少女の姿を見た。
呆然としてしまうのも無理はなかった。
おとぎ話じゃあるまいし、精霊だの“風の声”だのと言われても、しっくり来ない。
目が覚めてからいろんなことがあった。
いろんな、…信じられないことが続いていた。
夢でも見ているんじゃないかと疑う自分が、今もこうして足元をフラつかせている。
あり得ないことが起こっても、きっと夢を見ているせいだと思うことが度々あった。
ただ、だとしても…
《レイ=カスタ》は、真っ直ぐに彼を見つめた。
「わたしには、まだ“主”がいない。
別にお前になってほしいわけじゃないけど、飛びたいんでしょ?」
沈黙が降りた。
風が、格納区画をかすめる。
想太は、少女――いや、《レイ=カスタ》と名乗った存在の言葉に、返すべき答えを見失っていた。
「……飛ぶって、簡単に言うけどな。
俺は、前の空で……死ぬために飛んでたんだ」
そう呟いた彼に、レイは片眉を上げて、静かに問いかけた。
「じゃあ、今はどうしたい?」
その問いは、優しくも鋭かった。
空の精霊の声とは思えないほど、まっすぐに、心を射抜く響きを持っていた。
「……わからない」
ようやく想太がそう答えると、レイは目を細めた。
「わからないなら、それでいい。だって、ここは“最初からやり直せる空”だもの」
レイは歩み寄り、格納区画の片隅に座り込むようにして言った。
「ソウタ。お前はまだ、この世界のことをほとんど知らない。
空の裂け目を通ってきたってことは、“あっちの世界”から来たんだろ?
――だったら、まずはこの“こっち側の空”がどんな場所か、教えてあげるよ」
彼女の声には、どこか幼さと誇りが混ざっていた。
「ここは、“浮遊圏”って呼ばれてる。
大気よりも高い層、地上の理とは違う空が広がってる世界。
島々は雲に浮かび、都市は空に航行し、風そのものが命を運ぶ――そんな場所さ」
想太は黙って聞いていた。
「地図なんて通用しない。重力も、風の流れも、魔力の濃度も場所によってまるで違う。
だから、みんな“風を読む”。空を信じて、自分の進む方向を決めるんだ」
彼女の言葉は、まるで詩のように響いた。
「この世界では、空は“敵”でも“戦場”でもない。生きる場所だ。
そして――お前みたいに、“風の声を聞ける奴”は滅多にいない」
「……俺が?」
「そう。お前の耳には、普通の人には聞こえない声が聞こえる。——風の層の裂け目。そこから漏れるさざめきや、唸りが」
レイは、風のように柔らかく笑った。
「だからさ――飛ぶかどうかは、今すぐ決めなくていい。
でも、少なくともこの世界の“空”を知ってから、答えてくれ」
彼女は立ち上がり、手を差し出した。
「まずは、空のことを教えてやるよ。精霊であるわたしが、ちゃんと、案内してやるから」
想太はその手を見つめ、少しだけ迷ったあと、静かに取った。
風がまた、ふたりの間を通り過ぎた。新しい空への道は、まだ始まったばかりだった。






