第5話
夕刻、艦内照明がわずかに色を変えた。
青白い日照灯から、やや琥珀色に近い落ち着いた光へ。
想太が甲板から整備通路に戻ろうとした時、ヴァネッサの声が背後から届いた。
「おい、ソウタ」
振り返ると、彼女が腕を組みながらこちらへと歩いてきていた。
風にほつれた髪を押さえることなく、相変わらずの真っ直ぐな目だった。
「部屋、用意しといた。まだ正式配属じゃねえけどな、居場所くらいはあった方がいい」
「……あ、ありがとう」
想太が思わず姿勢を正すと、ヴァネッサは肩をすくめる。
「ただし、私の隊じゃねえ。案内する」
二人は主甲板の北棟、居住区第三区画へと向かう。
レヴァン・ノードの居住区は、航団の編成に準じた“中隊区画”ごとに設けられている。
その構造は軍艦のようでありながら、内部には風土的な自由さが残されていた。
通路の壁には中隊旗――風を模した図柄に、縫い込まれた隊名が並ぶ。
「レヴァン航団の基本編成は、中隊規模で分かれてる。各隊が独自の飛空艇と人員を持ち、任務や航路を分担する。
今、航団内には十二の隊が登録されてるが……」
ヴァネッサは足を止め、あるドアの前で立ち止まった。
「ここが“第五煙環中隊”。隊長はロス・ヴァディン。空賊上がりの癖者だが、面倒見はいい」
「ヴァネッサの隊じゃないのか?」
「あたしの隊は、隊であって隊じゃねー。個人で動いてるしな?」
そう言って、ヴァネッサはドア横の操作板を叩いた。
数秒後、内側から応答があり、ドアが開く。
中には、ざっくりと仕切られた共同宿舎のような空間。
数人の若い空賊たちが談笑しながらメンテナンスをしていた。
その中で、やや年長の男が立ち上がる。
「おう、ヴァネッサか。……で、こいつが?」
「ああ。面倒見てやってくれ、ロス」
ロス・ヴァディンと名乗った男は、想太を一瞥してから、口元を緩めた。
「まあ、こうして運ばれてくる奴ってのはだいたい変な奴なんだが……顔つきは悪くねえ。
おう、新入り、お前の寝床はあそこの二段ベッド上段な。飯は自己申告、隊長には敬語、これ基本だ」
「あ……はい、よろしくお願いします」
想太が軽く頭を下げると、ロスは肩を叩いた。
「よし。じゃあよろしくな、新入り」
⸻
【組織図(簡易)】
・レヴァン航団(母艦を中心とした独立空賊組織)
- 第七風梢中隊(ヴァネッサ隊、単独高機動任務主体)
- 第五煙環中隊(ロス隊、共同生活型・整備/支援/訓練任務)
- 他、中隊ごとに機能・任務が分化(偵察、物流、警護、機体開発など)
⸻
ヴァネッサが帰ろうとしたその時、想太は声をかけた。
「……なあ」
彼女は振り返らずに答える。
「なんだ」
「……俺は、ここにいていいのか?」
ヴァネッサは立ち止まり、ちらりと後ろを振り返る。
その目は、どこか蝋燭の火のように淡く揺れていた。
「帰る場所があるんなら、帰ればいい。
ここに残る理由を探すのも、そうでない理由を探すのも“お前次第”だ。
もし帰りたいと思うんだったら、いつでも声をかけろ。その場所まで届けてやるから」
そう言って、彼女は甲板の奥へと歩いていった。
想太は彼女の言葉に頷くでもなく、じっと蹲るように佇んだままだった。
“帰る場所があるなら帰ればいい”
その言葉を追いかけるだけの時間も、——距離も、想太の中にはあった。
自分が今いるべき場所、課せられた任務。
そのことが頭の中に回りながら、ぐるぐると考えてしまう自分がいる。
帰れるものなら帰りたい。家族に会いたい。
そう思うことがどれだけ自然で“当たり前のこと“かは、彼自身が一番よくわかっていた。
ただ、すんなりといかない感情が同時に胸の中に込み上げてきていたのも確かだった。
ここがどこかもわからないままだし、帰る方法もわからない。
それに、俺は特攻隊員だ。
想太はそう思いながら、立ち止まったままの足を前にも後ろにも動かすことができずにいた。
ロスはヴァネッサが去った後、黙って一度だけ息を吐いた。
「事情はまあ、なんとなく聞いてる。いちいち詮索はしねぇよ。
ここじゃ、“どこから来たか”より“今どこにいるか”の方が大事だ」
彼の言葉は軽いが、そこに漂う空気は”変に誤魔化すような適当さ“がなく、洗練されたやさしさがあった。
ヴァネッサとはまた違った人となりが、柔らかい絹のように丸み帯びた輪郭を運んでくる。
空賊というだけあって型にハマらない柔軟さがある一方、言葉の端々にはピンと張り詰めた緊張感が、針の穴を通すように鋭く漂っていた。
「隊長」というだけあり、それなりの経験と知識を積んできたのだろう。
ロスの人としての奥行きの深さを想太なりに感じつつ、彼の後ろをついて歩いた。
第五煙環中隊の隊舎は、騒がしくも居心地がよかった。
廊下を抜けてすぐ、想太は空気の匂いが変わるのに気づく。
鉄と油の匂いに交じって、肉を焼く香ばしい匂い――食堂だ。
「うおーい、焼き過ぎたぞこれーっ!」
声の主は、料理係のリラ。小柄で、赤毛を高く結んだ元気な女性だ。
大鍋の中で空鶏の串焼きをひっくり返している。
「……新入りか? あたしがここでメシ作ってる。空じゃ腹が一番の燃料よ」
想太が挨拶すると、彼女は笑って骨付き肉を一串投げてよこした。
「はい、歓迎のソラクイナ串。骨ごといけ!」
機材庫では、汗だくになった技術士のブロッカと出会う。
分厚い眼鏡に魔導印のタトゥー、機械に触れる手つきは神業のようだった。
「お前、魔導炉の基本ぐらいはわかるか? ……まあいい。
知らんなら、余計なとこ触んな。燃えるぞ?」
彼は無愛想ながら、きちんと手順を説明してくれる不器用な優しさを持っていた。
廊下の角を曲がると、小さな少年兵のような見習いが工具箱を抱えて走っていた。
名前はアッシュ。年齢はまだ十代半ばだろう。
「す、すみません! あのっ、ぼく、整備見習いのアッシュって言います! えっと、新しい人……ですよね?」
想太が軽く頷くと、彼ははにかんだ笑顔を浮かべて深く頭を下げた。
「よ、よろしくお願いしますっ!」
その素直さに、思わず笑みがこぼれた。
――空の上に、こんな日常や風景があるとは思わなかった。
戦争の空しか知らなかった想太にとって、
この空はまるで絵本の中の出来事のようだった。
その夜、与えられた二段ベッドの上段に寝転びながら、想太はふと思う。
(……帰る場所、か)
かつての空では、帰るという選択肢はなかった。
自由に飛ぶという選択肢も。
戦わないという選択肢も。
だが今は、選べる。
…選べるのかもしれない。
風のように、どこに向かうかを――
朝、艦内に鐘の音が鳴る。
第三甲板にある食堂では、煙環中隊の面々が次々と朝食を終え、各自の持ち場へと散っていく。
想太も空賊としての“初日”を迎えていた。
「よう、起きてんな。いい心がけだ」
ロスが整備ベストを肩にかけ、笑いながら近づいてくる。
彼は想太にパンケーキを一枚押し付けると、そのまま椅子に腰を落とした。
「さて。お前さん、今日から仕事を覚えてもらう。
空を飛ぶってのは、飯食って舵握るだけじゃねぇ。生活そのものが、空で続いてんだ」
「……はい」
「んで、今のお前は“何者でもねぇ”。だからこそ、最初は何でもやってもらう。
補給、整備、配線確認、データ整理、工具整理、揚水室の清掃、飯の運搬、便槽の監視……地味だが全部必要だ」
「……わかってます。やります」
想太のその一言に、ロスは少しだけ目を細めた。
「よし。んじゃ、今日は補給庫の管理区画へ行ってもらう。
物資の再整理と、浮力調整剤のパッキング。……手順は現地の奴らが教えてくれるさ」
「はい!」
補給庫は艦の腹部にあたる第六区画。
浮力維持剤、食料備蓄、燃料容器、魔導封筒、風圧石など、さまざまな物資が整然と並んでいた。
「おーい、そっちの新人だろ? こっちこっち!」
声をかけてきたのは、白衣姿の中年男。
名はゼノ・アステラ、物資管理の主任で、現場を仕切る司令塔的存在だった。
「隊長から連絡きてる。お前さんはここで半日、
風圧石と保存水の整理、ついでに耐圧材のシールチェックも頼む。
やり方はアッシュ坊やが説明するからな」
その横にいたのは、昨日出会った見習いのアッシュだった。
「ソウタさん! よろしくお願いします!」
「こっちこそ、よろしく」
アッシュは得意げに工具とチェックリストを掲げ、
「これが基本のスキャン魔導札で、間違えるとピッて赤く光るんです」と嬉しそうに説明を始めた。
仕事は単調だが、手を動かしながら想太は考えていた。
(これが、空を支えるってことか……)
飛ぶためには、飛ぶこと以外の技術と労力が必要だ。
戦場の空では、飛ぶ者だけが“英雄”だった。
でも、この空では――誰もが風の一部だった。
自分もその一部になれるだろうか。
その問いの答えは、まだ出ない。
だが、想太は初めて「自分の手で」この空の空気に触れ始めていた。
午前の作業が始まって、わずか十五分。
想太は早くも、自分の額から流れる汗が“焦り”の証だと感じていた。
「うわっ……!」
積み上げた風圧石の補充箱が横に滑った。
慌てて支えようとしたが、箱がひとつ床に落ちて鈍い音を立てる。
「おーっと、気をつけて! 石が割れたら補填ログが面倒なんだから!」
アッシュの声が飛ぶ。
想太は慌てて箱を拾い直し、深く頭を下げた。
「す、すまん……!」
「いえ、最初は誰でもやります。俺、初日は水圧缶をひとつ吹き飛ばして、
主任に魔導炉の陰に隠れたくなるくらい怒られました!」
笑いながらそう言ってくれたアッシュに、少しだけ救われる。
補給作業は、想像以上に“理詰め”だった。
風圧石の識別は魔導札を使って行い、重量・形状・エーテル含有量の変動を誤差0.5単位以内で記録する必要がある。
保存水の容器も、ただ運ぶのではなく、輸送時の重力変化で膨張した栓を一度冷却し、再締めしなければならない。
目の前の作業に、想太の頭は常に“数手先”を追いかけ続けなければならなかった。
(これは……軍の整備よりずっと繊細かもしれない……)
無意識に出た独り言に、自嘲の笑みがこぼれる。
昼前、ミスを重ねた数を数える気力もなくなった頃、背後からそっと差し出されたのは冷たい保存水の小瓶だった。
「お疲れさま、ソウタさん」
少しだけ泥で汚れたアッシュの手が、瓶の底を押さえていた。
「慣れるまでが一番きついっす。でも、慣れたら、“自分がこの空の一部だ”って思えるようになりますから」
短い休憩を挟んだ後、想太は次の業務へと向かった。
「今度は、浮力調整剤の補充か……」
整備マニュアルを持ったアッシュが、補給区画の奥にある専用ルームを指差す。
「ここが“浮力中和室”っす。あそこに見えるタンクの中に、浮力調整剤が保管されてます」
銀色の光沢を放つ球形タンクが、魔導封印によって周囲から隔離されていた。
内部には、淡い青緑色の半液体が波打っている。
「浮力調整剤ってのは、魔導炉の浮力出力を安定化させるための媒介っす。蒸発率が高いから、補充と密封は慎重に」
アッシュは慣れた手つきで工具を差し込み、調整管の封を解く。
補充器具は重力反転の特殊構造で、内容物が外気に触れないように圧入されていく。
想太はその光景に、思わず目を見張った。
「……これ、少しでもミスったら?」
「艇が傾きます。下手すると、旋回中に転覆」
さらりと言ったアッシュの言葉に、思わず手が強ばる。
慎重に、だが確実に。
道具と感覚を頼りに、調整剤の補填を終えたとき、想太は小さく息を吐いた。
「うん、上出来です。やっぱり元整備経験者ってのは違いますね」
「いや、……こういうの、軍じゃ触れさせてもらえなかったからな」
浮力という“見えない力”を制御する――それは、風の上で生きることそのものだった。
次に向かったのは、風導翼のメンテナンスブースだった。
そこでは中型艇の補助帆の調整が行われており、帆の素材は植物由来の繊維と魔導金属を編み込んだものだった。
「帆の“張り方”で、艇の性格が変わるんすよ。
この子は“旋回型”だから、前寄りにテンションかけて、風を跳ね返すようにする」
そう説明する技士のレティナは、帆のしわをひとつずつ指でなぞりながら修正していた。
想太も一緒に布を押さえ、リベットを締め、風向調整板の角度を揃える。
「風を“押す”んじゃなく、“抱き込む”んだよ。空の上じゃ、力ずくは通じない」
その一言が、心に残った。
最後に回されたのは――生活廃棄物の分解室だった。
「……マジかよ」
想太は思わず息を呑んだ。
見渡す限りの配管、フィルター、圧縮機。
この艦ではすべての水分、排気、熱エネルギーが再利用されていた。
「空は捨て場がねぇからな。ぜーんぶ還元する。これも“飛ぶため”の工程だ」
作業を手伝う若い整備士が笑う。
「ここのフィルター掃除が嫌で、逃げ出す奴も多いけどよ……
でも、これがなきゃ、水も、燃料も、続かねぇ」
想太は、重たいフィルターを外し、詰まった粒子をこそぎ落とす。
汗が、背中を伝う。
だが、その作業の先に、確かに――「空の暮らし」があった。
午後、想太は再び手袋をはめ、風圧石のシール補強作業に戻る。
魔導炉の残留波動で細かく震える素材に、どうしても力が入りすぎてしまい、またひとつ破裂させた。
それでも、アッシュが横で笑う。
「今ので7個目ですね! 先輩越え、あと4個!」
「それは喜んでいいのか……?」
「はい! 俺、最初10個でした!」
想太は苦笑しながら、次の石を手に取る。
今日の風は、遠く霞んでいた。
でも、その中に確かに、“風の重み”があることを、彼は少しずつ理解し始めていた。
夜の《レヴァン・ノード》は静かだった。
昼間は風の唸りと整備音に包まれていた艦内も、今はほのかに灯る照明と、食器の触れ合う音だけが響いている。
想太は、第五煙環中隊の共同食堂の一角にいた。
四角い木のテーブルを囲み、数人の隊員がそれぞれの皿を前に簡単な夕食を取っている。
リラの作った本日の夕食は、空芋と塩漬け肉の煮込み鍋。
魔導保温器でぐつぐつと煮込まれたそれは、見た目こそ質素だが、香りは温かく、どこか懐かしさすら感じさせた。
「さあ、新人くんも座りな」
そう言って席を叩いたのは、料理係のリラ。
隣にはアッシュが、既に口いっぱいに煮芋を頬張っていた。
「んぐっ……っほ! これ、あっついけど、うんまいっす!」
「お前、味わうって言葉知ってるか?」
呆れた声を上げたのは、技術士のブロッカだった。
彼もスープ皿を片手に、器用にパンをちぎって沈めている。
想太は、恐る恐る空いた席に腰を下ろす。
「ほれ、これ。新入りにはちょっと多めに盛っといたからな」
リラが笑いながら、湯気の立つスープ皿を手渡してくれた。
「……ありがとう」
ぎこちなく言って、スプーンを取る。
一口。
熱い。だが、その中にしっかりとした“味”がある。
「……うまいな、これ」
「だろ? 空芋は時間かけるほど甘くなるのよ。地芋とは違うってとこ、教えてあげるわ」
テーブルの上には、よりどりみどりの食事があった。
そしてそれ以上に、“誰かと囲むことで生まれるあたたかさ”があった。
「ソウタさん、今日の作業どうでした?」
口元を拭いながら尋ねたのは、アッシュ。
「……難しかった。頭が先に疲れたよ」
「それで普通っす。風圧石の管理って、地味にみんな嫌がるんですよ」
「ふん、新人が初日で投げ出さなかっただけでもマシだな」
ブロッカがパンをちぎりながら呟く。
想太は、なんとなく笑ってしまった。
否定されていない。拒まれてもいない。
食後に各々が片づけをしていく中で、想太はぽつりと呟いた。
「……俺、軍にいた頃は、こんなふうに“飯を食う”って実感がほとんどなかったんだ」
すると、リラが少しだけ目を細めて答えた。
「空じゃね、食うってのは“生きてる”って証なのさ。
ここじゃ、誰かがちゃんと作って、誰かと一緒に食べる。
……それだけで、あたしたちみたいな”国や土地”を持たないものでも、ちゃんと生きていけるんだよ」
食器を洗い終えたあと、想太は甲板へと出た。
夜の空には星が広がっていた。
今日の風は穏やかだった。
だがその中に、自分がひとつ“確かに息をしていた”という実感があった。
明日もこの空の下で働く。
それは、戦うためではない。
生きるために――。
翌朝、想太が食堂で軽い朝食を終えた頃、ロが大きな欠伸をしながら彼を呼んだ。
「おう、新入り。時間だ」
「……時間?」
「お前の“登録”だよ。隊の一員として正式に認められるってことさ」
そう言って、ロスは革の外套を羽織り、艦内北棟へと歩き出す。
想太は少し緊張した面持ちで、その後を追った。
二人が訪れたのは、レヴァン・ノード 管理情報室 第三端末室。
中には魔導計測器と情報記録端末が並び、艦隊運営の中枢を担う士官らしき人物たちが働いていた。
受付には、冷静な目をした女性技官――リセル・ハーン技術中尉が座っていた。
「第五煙環中隊、新規隊員登録。氏名、身元確認、魔導識別と緊急コードの登録」
「おう。こいつだ。名前は……あー、言ってみろ」
「朽木想太です」
リセルは小さく頷き、手元の端末に指を走らせた。
「国家所属履歴・民間登録なし。地理的出自不明。魔導情報登録“外部持込型”。
……風裂域由来の経歴あり、ね。まあ、そういうのも今や珍しくない」
そう言いながら、彼女は想太の前に薄く光る魔導板を差し出す。
「ここに右手を」
想太が手を置くと、光が指先をなぞり、微細な魔力流が皮膚を走った。
「指紋、魔力感応反応、掌紋情報……よし、問題なし」
リセルは次に、細長い石板のような装置を提示する。
「次に、緊急時識別コードの発行。
これはお前の“空の証明書”になる。戦闘や事故の際に優先救出の対象になるし、艦内外での作業許可にも使う」
石板はふわりと浮き、淡く発光する。
「名前、希望する呼称、所属中隊名、登録日……確認を」
石板の文字はこう刻まれていた。
――
名前:朽木想太
呼称:ソウタ
所属:第五煙環中隊
登録日:浮遊暦378年・凪の月・十三日
緊急識別:KCH-5249-RV5
――
「問題なければ、このまま登録。変更は後日も可能」
想太は、少しの間それを見つめ――小さく、うなずいた。
「……お願いします」
瞬間、石板が光を強め、次の瞬間には小さな銘板に変わって想太の手元へ収まった。
「登録完了。以後、レヴァン航団・第五煙環中隊の一員として正式に認可される」
部屋を出た後、ロスがふっと笑った。
「どうだ? 名前が空に刻まれた気分は」
「……ちょっと、まだ実感はない。けど……」
想太はポケットの中で、登録銘板を握りしめた。
「……自分の居場所が、ひとつできた気がするよ」
「それで十分だ。ここは風が全てを流してく。でも、残るものもある。
名前と仲間。それさえあれば、風の中でも生きられる」
ロスの言葉に、想太は静かにうなずいた。
今日から、彼は名実ともに――空を生きる者となったのだった。
◇
作業の後片付けを終えた想太が整備通路を歩いていると、背後から聞き慣れた声がした。
「よう、ソウタ。ちょっと付き合え」
振り返ると、そこには風をまとうような歩き方のヴァネッサが立っていた。
整備ベストのまま、片手に黒革の手袋を持っている。
「……どうしたんだ?」
「見せたいもんがある」
ふたりは母艦の主甲板――格納甲板第2区画へと向かった。
日没前の空は薄朱に染まり、長い影が甲板を覆っていた。
日が傾きかけた夕暮れ時の甲板には、風の音と帆の軋む音だけが満ちていた。
その静けさの中、ヴァネッサは無言で歩く想太を連れ、母艦の主甲板中央まで案内していた。
ヴァネッサは歩きながら言った。
「……どうだ。空賊の日常ってやつは」
その問いかけに、想太は一瞬だけ黙って、遠くの雲を見つめた。
「思ってたより……ずっと、人間らしい」
「はは、軍と比べりゃな」
ヴァネッサは風を味わうように、目を細める。
「でもよ、実際は結構ギリギリさ。風は読めるけど、空は読めない。
だから、みんな少しでも“足場”を作ろうと、毎日必死にやってんだ」
想太はその言葉に、ゆっくりと頷いた。
「わかるよ。整備の一つひとつにも、“落ちないため”の気持ちがこもってた」
ヴァネッサは一歩前に出て、手すりに肘をつける。
「だが、空にいくら居場所を作っても、“飛ぶ”こと自体ができなきゃ意味はねぇ」
彼女は、ちらりと想太を横目で見た。
「……ソウタ。お前は、もう一度――空を飛びたいか?」
風が止まったかのように、想太の胸にその言葉が落ちた。
沈黙の中で、想太は言葉を選ぶように、ゆっくりと答えた。
「……俺は特攻で死ぬつもりだった。
でも、あの瞬間――零戦のコックピットの中で、“死ぬ”よりも“飛んでいたい”って思ってた」
ヴァネッサはその言葉に、ふっと目を細めた。
「その気持ち、まだあるか?」
「……あるよ。飛びたい。それは確かだ」
それは、自分の中でもはっきりと気づいていなかった、本当の声だった。
ヴァネッサは頷いた。
「なら、ついてこい。見せたいものがある」
彼女の声に導かれるように、想太は再び歩き出した。
そして、その先に――新たな空への入り口が待っていた。