第4話
「……おいカザン、また船底の昇圧管を吹き飛ばす気じゃないだろうな」
軽く響く声と共に、風の中を割って歩いてくる影。
整備用のレザー手袋を腰に引っかけ、肩には折りたたまれた風向帆。
想太が振り向くより早く、カザンがふっと目を細めた。
「おう、やっと帰ってきたか。市場艦にくると物色が長ぇんだよ、あんたは」
「お前にだけは言われたくねえな、カザン。
前にあんたがガス管のフィルターを逆に噛ませて、船体が二時間傾いたの忘れてねぇからな」
「いやいや、それは俺じゃなくてあの時の新人だ」
「その新人、お前の甥って言ってたじゃねえか」
「……まあ、そうだったかもな」
言い訳半分の言葉に、ヴァネッサは唇の片端を持ち上げて笑った。
そこにあったのは、確かな信頼と古い付き合いの温度だった。
「で、調達は?」
「ほぼ終わった。主魔導炉用の冷却剤、補助エーテル管、圧縮風石三本。
あとはドライ糧食六日分と、水素化保存水を二ケース。
あと――想太、空芋の干したやつは気に入ったか?」
「……あ、ああ。まあ、腹は膨れた」
「よし、一袋追加しといた。出航は明朝だ」
彼女の言葉には、船長としての合理性と空を知る者の確信があった。
一つひとつの物資が、命綱であることを彼女は知っている。
「補助帆の展張が気になってな。市場艦に寄ったのは整備品の確認のためだ。
浮力炉のバランスが前より微妙にズレてる感触があったから、今夜中に調整しておく」
「風読みだけで異常感知するって……ほんとあんたは生き物みてぇな飛び方するよな」
「違うさ。飛空艇の異変は、空が教えてくれる。風の流れが変わる。だから、感じ取れる。
そういうのが、飛ぶってことだろ」
その言葉に、カザンは肩をすくめた。
「相変わらずの職人だねぇ。ま、そこが頼れるんだけどよ」
想太は黙ってそのやり取りを見ていた。
彼女は“空を守るために”動いている。
ただ自由に飛んでいるのではない――責任をもって風を切っているのだ。
「……すげぇな」
思わず漏れた一言に、ヴァネッサが軽く視線を寄越した。
「何が?」
「いや……なんつーか、ちゃんと“空で生きてる”んだなって」
「はは、それは今さらだな。
……けど、あんたもだろ。ここにこうして立ってる時点で、もう“空の人間”だよ」
ヴァネッサの言葉は、軽くも温かかった。
そしてその言葉が、想太の胸に、静かに根を張りはじめた。
朝の市場艦は、昨日と打って変わって静かだった。
早朝の風はまだ細く、甲板のテントはたるみ、露に濡れた帆布がしんと音を立てる。
想太は飛空艇の艦尾近くで荷の整理を手伝っていた。
エンジン下部に巻き付ける保温布、魔導炉の冷却補助缶、箱に詰められた保存食――
これらが生きるための装備だと、今では自然にわかる。
そこへ、整備を終えたヴァネッサが、風に髪をなびかせて戻ってきた。
「整備完了。積載も完了。……さて、帰るか」
「帰る?」
「ああ。アジトに一度戻る。今回の積み荷も報告しなきゃならんし、燃料のルートも再申請だ」
想太は問い返した。
「アジト……って、どこにあるんだ?」
「“レヴァン・ノード”――私たち航団が使ってる母艦だ。
市場艦よりもずっとでかくて、船というより……空に浮かぶ要塞だな。
そこに補給基地、修理工房、情報塔、住居区画があって、みんな交代で出入りしてる」
「空の上に……基地があるのか」
「あるとも。空は広い。逃げ場も、隠れ家も、意志を集める拠点も必要さ」
想太は返す言葉を見つけられなかった。
この世界では、空そのものが地続きの生活圏なのだ。
ヴァネッサが軽く首を回して言った。
「準備はできてる。行くぞ。……ついてくるか?」
迷いはなかった。
想太は無言で頷き、彼女の後に続いた。
《バラッド・ワスプ》が浮き上がる。
魔導炉の脈動が船体に伝わり、重力がふっと遠ざかる。
帆が広がり、風が流れる。
前方の空が開けた瞬間、船は音もなく――空へと滑り出した。
想太は、その感覚にもう身構えなかった。
風に押される。浮力に抱かれる。
もはやそれは、恐怖ではなく――帰還に近い感覚だった。
背後に市場艦が小さくなり、
その先に新たな空の水平線が広がっていく。
「――広いな」
想太は静かに呟いた。
その先で待つ“アジト”。
風に抱かれた者たちの、空に築かれたもう一つの“地面”。
物語は、空の奥へと進んでいく。
空は、静かだった。
帆がはためく音と、風導板の小さな軋みだけが、船内に伝わっている。
《バラッド・ワスプ》は、ゆるやかな弧を描きながら、東南の空を滑っていた。
風は穏やかで、雲海は絹のような光沢を放っている。
魔導炉は安定して脈動し、帆は一定の角度で張り、船体に静かな浮力をもたらしていた。
想太は操縦席のすぐ後ろ、壁にもたれながらヴァネッサの背中を見ていた。
「なあ、ちょっと聞いてもいいか」
「ん、なんだ」
操縦桿を調整しながら、ヴァネッサはちらりと振り向いた。
「……カザンに聞いた。あんた、“レヴァン航団”の隊長なんだって?」
その言葉に、ヴァネッサはふっと笑った。
「隊長ってほど大層じゃねぇけどな。まあ、この《バラッド・ワスプ》を預かってる以上、責任者ではあるな」
「それって……つまり、“リーダー”ってことだろ。空賊って、もっと無秩序なもんだと思ってた」
ヴァネッサは肩をすくめた。
「そういう奴らもいるさ。空を荒らすだけの連中、商船襲って気ままに逃げ回る奴ら。ああいうのと一緒にされるのは癪だけどな」
「じゃあ……お前たちは、何をしてるんだ?」
問いは素直なものだった。
“空賊”という言葉の裏に、想太はまだ明確な像を結べずにいた。
ヴァネッサはしばらく沈黙して、窓の向こうを見た。
雲の切れ間から、巨大な浮遊島の陰影が覗いている。
そこにはまだ、言葉にならないものが、たしかに漂っていた。
「……あたしたち“レヴァン航団”は、風を道とする集団だよ。
帝国に属さず、どの国にも仕えない。けど、“空の秩序”は守る」
「秩序……?」
「そう。浮遊圏ってのは、見た目以上に脆いんだ。
気流が乱れれば島が流れる。補給が止まれば村が沈む。
魔導炉が暴走すりゃ、空域そのものが崩壊する」
ヴァネッサは操縦桿を軽く押し、針路を数度ずらした。
「帝国も商会も、そういう場所に手は出さない。
コストに合わないからな。放っておいて、崩れたら見なかったことにする」
「……あんたたちは、それを止めてる?」
「止めるというより、“繕ってる”って感じだな。
風の裂け目を縫い、崩れそうな浮島を補強して、危険情報を回して回収して……
空に住む者たちが生き延びるために、必要なことをしてるだけさ」
その語り口は淡々としていた。
だが、そこには覚悟の温度があった。
「航団には何人くらいいるんだ?」
「主力だけで二十数艇、所属は千人超。支援者を含めたらもっといる。
でも、皆“風律自由制”のもとで動いてる。誰かの命令じゃなく、自分の意思で飛ぶ」
「……誰にも縛られない代わりに、自分で全部背負うってことか」
「そうだ。
だから空で死ぬ奴も多い。風は、優しくなんかねぇからな」
ヴァネッサは、どこか遠い目をして言った。
「でも、死んだ奴の分まで、あたしらは風を繋ぐ。
それが、“空に生きる”ってことなんだよ」
想太は言葉を失った。
彼女たちの“空賊”という名の在り方は、彼の知っていた戦争とも、国家とも違った。
それは――信念の旗のない兵士たちの、静かな誇りだった。
「……すげぇな」
ふいに漏れた言葉だった。
だが、ヴァネッサは笑わなかった。ただ、まっすぐに彼を見た。
「風は、いつだって“平等“だ。
その風に乗るかどうかは――誰にだってできることさ」
◇
——《転界の塔》
空が、変わった。
それは、ほんの些細な違和感から始まった。
船窓の外、雲海の一部が、微かに“盛り上がっている”――そう思ったのは、錯覚ではなかった。
「……あれ、なんだ?」
想太がつぶやいた時、ヴァネッサの指がぴたりと操縦盤のスロットル上で止まった。
《バラッド・ワスプ》の進行方向、遥か彼方。
雲海の中央に――何かが、立っていた。
それは“塔”のようだった。
雲でできたはずのものが、雲ではない質量を帯びて、
空を貫くように、ぐわりと螺旋を描いて昇っていた。
青空にねじ込まれるように白銀の渦が縦に伸び、その中央にある“眼”のような虚空が、こちらを見返しているようにさえ感じられた。
「……“転界層”の吹き上げか」
ヴァネッサの声は低かった。
想太は息を呑んだまま、目を離せなかった。
「渦……じゃない。あれ、……生きてるみたいだ……」
「そう見えて、間違いじゃない」
風が、ひゅう、と高く鳴いた。
《バラッド・ワスプ》の帆がわずかに揺れた瞬間、
空気が――変わった。
乾いた空に、突如として重い湿気と熱が混じる。
船体がきしみ、魔導炉がわずかに唸りを高める。
「転界層。別名、“空の裂け目”だ。
空の下、雲海の底に広がる“嵐層”と繋がる場所から、時折、ああやって“吹き上げ”が起きる」
「……嵐層?」
「この浮遊圏の、さらに下。
無数の気圧層が反転し、魔導風が交差し、重力も方向も崩れる……
文字どおり、世界の“底”だよ」
想太は言葉を飲み込んだ。
塔のように聳える白い渦は、まるで空そのものが“軸”を生やしたように見える。
「転界層は、目に見えない“境界”だ。
あの渦は、空と嵐の境目を貫く“爪”みたいなもんさ。あそこから近づくと、風が狂う」
視線の先では、雲がゆるやかに巻き上がっていた。
だがその動きには、自然現象にあるはずの“安定”がなかった。
一瞬一瞬、渦の内側で風向きが変わり、白と灰が入り混じる。
雷光がきらめき、渦の中心がゆっくりと“こちらを見ている”ような圧を放っている。
「あれを見かけたら、決して近づくな。あれは“空を壊す”存在だ。
船だろうが、帝国艦だろうが、あの流れに呑まれれば形を保てねぇ」
ヴァネッサの口調は、いつになく硬かった。
「……でも、どうして……空の中にあんなものがあるんだ?」
「誰にもわからない。
けど――昔から、“空は完璧じゃない”ってことだけは、皆知ってる。
だから、“綻び”ができる。裂けて、流れて、風が狂う。……それを、空の神の“まばたき”って呼ぶ奴もいる」
《バラッド・ワスプ》は、渦から遠ざかるように緩やかに針路を東へと逸らした。
船体をかすめる風が、まだざわついている。
想太は、しばらく何も言えなかった。
雲の塔――“転界の塔”。
あれは、自然の一部ではなかった。
もっと異質で、もっと根源的な“何か”だった。
「……あんなのがあるなんて、俺の知ってた空じゃ考えられない」
「…あんたが知ってる「空」がどこかは知らないが、ここは“空が地面の代わり”になった世界だ。
だからこそ、その地面の底には、いつだって“崩れる穴”があるってことさ」
ヴァネッサの言葉には、どこか祈りにも似た響きがあった。
「忘れるなよ、想太。空は生きてる。
だから時々――牙を剥く」
雲の渦が、遠ざかっていく。
それでも、想太の胸の奥にはあの塔の姿が残像のように焼き付いていた。
世界の果てを見たような、不気味な美しさだった。
“空の裂け目”。
それは、風の民にとっての“終わり”であり、
同時に――すべての始まりを秘めた、沈黙の門だった。
船はさらに上昇し、光を浴びて、航路を変えた。
その先には、まだ見ぬ空の拠点が待っていた。
「見えてきたぞ。……“帰る場所”だ」
想太が顔を上げた。
彼方、雲を裂いて浮かぶ巨大な影。
それは空に横たわる都市そのものだった。
《レヴァン・ノード》。
長さ三百メートルを超える主艦体は、鋼と骨材で構築された巨躯。
全体が細長く、三層構造の甲板には無数の帆と通気孔があり、中央には高くそびえる指令塔。
両側には小型艇のドックが連結され、空中都市の“母胎”のように航団員たちが出入りしている。
艦底部には巨大な円形の魔導推進炉が配置されており、定期的に淡い青い光が明滅している。
それはまるで、空の鼓動のようだった。
「ここが……アジト、か……」
「“空の中の地面”だよ。どこにも属さず、どこにも縛られない。
けど、みんながこの場所に戻ってくる。だから、航団は続いてる」
風の向きを読み、ヴァネッサはゆるやかに操縦を調整する。
《バラッド・ワスプ》は高度を落としながら、ドックナンバーF-8に向かって吸い込まれていった。
想太は目を離せなかった。
これはただの基地じゃない。
ここで人は生き、空に帰ってくる。
そして、もしかすると――
自分もまた、この空に「戻ってきた」のかもしれない。
《バラッド・ワスプ》が接舷された瞬間、想太は、まるで別の都市に足を踏み入れたかのような錯覚を覚えた。
ここは、ただの艦船ではない。
《レヴァン・ノード》――空に浮かぶ、ひとつの国家のような場所だった。
正面には広大な主甲板。輸送艇と連絡艇が入り乱れ、白い標線に沿って機体が並んでいる。
そこを小型の荷車や整備用魔導台車が縦横に走り、手作業で荷を運ぶ者もいれば、風石を調整する技術員もいる。
階段状に設けられた中甲板へ上がれば、宿舎、食堂、整備工房、商人の屋台までもが軒を連ねていた。
人々は「空で生きること」に慣れていた。誰もが、風の音に自然と耳を傾けながら、生業と暮らしを続けている。
想太は唖然として、天井を見上げた。
その上には透明風膜で囲われた展望回廊があり、
内部には空図台(風向データの視覚マッピング)が回転しているのが見えた。
「どうした、口開けてるぞ」
横でヴァネッサがからかうように言う。
だが、想太は言い返す言葉が見つからなかった。
「……すごい。空の上に、街がある……本当に、あるんだな」
「当然だろ。ここがなきゃ、私らどこで眠る?」
彼女はそう言いながら、通路を抜けていく。
そのたびに、周囲の空賊たちが軽く挨拶したり、視線を送ったりしてくる。
「お疲れ様です、ヴァネッサ隊長」
「今回の便も安定航路でしたね」
「新顔連れてんのか。珍しいな」
「隊長……?」
想太が問い返すと、ヴァネッサは肩をすくめた。
「ま、名目上な。レヴァン航団の“第七風梢中隊”の指揮任されてる。
ただ、実際は単独運用が多い。……ほら、手綱が苦手な性分でね」
冗談めかして言うが、その背にはどこか慣れた孤独と、信頼される重みが見えた。
その後、整備棟での報告、航行ログの提出、補給報告の照合が淡々と行われる。
想太は横でそれを見ながら、次第に理解していった。
ここは軍でも、完全な組織でもない。
けれど――“風と空で結ばれた共同体”だった。
誰もが自分の技術、責任、立場を理解し、
それをもって空の中で生きている。
「――さあ、案内はこれでおしまい。あとは好きに歩け。ぶつかって落ちるなよ」
そう言って、ヴァネッサが去ろうとする。
だが、想太はふと、手を止めて問いかけた。
「……なあ、俺も、ここにいていいのか?」
ヴァネッサは足を止め、軽く振り返った。
「それは、お前が決めることだ。
けど、ひとつだけ言っとく――空は、来る者を拒まねえ」
その言葉が、深く胸に落ちた。
想太は、甲板の端に立って風を感じた。
どこかで聞いた、けれど忘れていた音。
風が鳴り、帆が応え、空が脈を打っていた。
この空の中で、何かを見つけられるだろうか。
まだ答えはなかった。だが――少しだけ前を向けた気がした。
想太は、静かに歩いていた。
《レヴァン・ノード》の艦内通路は、まるでひとつの都市そのものだった。
しかし、その造りは単なる“巨大な船”ではない。
それは、空で暮らし、戦い、生きるための緻密な技術の結晶だった。
足元は、魔導耐圧合金で舗装された通路。
わずかな振動吸収素材が敷かれており、重い荷物が運ばれていても船体が軋むことはない。
各区画ごとに風向きの調整孔があり、空気は静かに循環している。
壁面には風導管と魔力配線のラインが組み込まれ、一定距離ごとに浮力調整機構の点検ハッチが並ぶ。
明かりは天井に仕込まれた光導石(エーテル発光体)による自然光風の拡散照明。
まるで昼の陽光を再現したかのように、柔らかく路面を照らしていた。
「……なんだよ、これ……どうやったら、こんな……」
想太は目を見張ったまま、小さな広場へと出る。
そこは**住居棟と整備棟の中間に位置する“緩衝中庭”**だった。
屋根は透明風膜で覆われ、内部には風通しの良い吹き抜けが設けられている。
子どもたちが遊び、誰かがパン生地を捏ね、別の誰かが機材の校正作業をしていた。
建物の内部に、空のような空間がある――それだけで、想太の感性はぐらついた。
「……すげぇ……」
さらに歩を進めると、技術中枢区画“コアリング・ハート”の標識が現れた。
そこは、魔導炉と艦の動力制御、航路予測、浮力管理を集約した艦の心臓部だった。
巨大な六角管が交差する中心には、静かに鼓動するような青白い光――
主魔導炉《ナクラ・オルガン式中核炉》が、律動するように明滅していた。
冷却水の通水音。魔力脈流の震動。
そして、機械と生き物が融合したかのような制御端末の数々。
「これは……魔法なのか? それとも……科学なのか……?」
どちらとも違った。
どちらでもある、というよりも――それすら超えた“実用のための進化”だった。
想太は知らなかった。
だが確かに今、自分の目の前にあるこの空間こそが、
空を“夢”ではなく、“現実”に変えているのだということを。
どこかで鐘の音が鳴った。
航団員の移動時間を知らせるものだろう。
その音に導かれるように、想太はさらに奥へ歩き出す。
まだ見ぬ空の形が、この艦には無数に詰まっている。
彼は今、そのすべてを目と心で受け止めようとしていた。
「おっと、すまんすまん、そこの兄ちゃん! ちょっと手貸してくれ!」
不意に背後からかけられた声に、想太は振り返った。
そこには、銀髪混じりの赤茶の髪を後ろで結った男が、巨大な木箱を両腕で抱えてよろめいていた。
背中には風導板の印を刻んだ作業ベスト、腰には工具袋。年齢は四十前後、どこか陽気で柔らかい空気をまとっている。
「あ……はい!」
思わず駆け寄り、箱の端を持ち上げる。
重量はあったが、魔導資材にしては軽い部類だ。
二人で協力しながら、近くの台車に載せると、男は大きく息を吐いた。
「ふぃー、助かった。君、見かけねぇ顔だな。航団の新人か?」
「……いや、俺は……まだ、なんて言えばいいのかわからないけど……ここに“来た”ばかりで」
「ほう、“来た”ばかり、ねぇ」
男はにやりと笑い、手を差し出した。
「サミエル。風圧構造班の副責任。君の名前は?」
「朽木想太……ソウタでいい」
握手を交わすと、サミエルは手際よく次の荷物をまとめながら言った。
「最初はみんな“ここに来た”って言い方をするんだ。不思議なもんだよ。
けどな、面白いのはさ――“ここにいる”理由って最初はなくても、そのうちできるもんなんだ」
想太は、その言葉に思わず黙り込んだ。
サミエルは笑いながら続ける。
「空ってのはな、ただ飛ぶための場所じゃねぇんだ。
風を読む、帆を張る、浮力を調整する……
その全部が、“落ちない”ための工夫だ。俺たちがここで生きるってのは、
落ちないように、お互いの風を支え合ってるってことだ」
「……支え合ってる、か……」
「そう。ヴァネッサも言ってただろ? “風は自由だけど、方向を選ぶ”って。
それを信じるには、“空を信じる”しかねぇ。
……まあ、空に信じられてるかどうかは、俺にもわかんねぇがな」
サミエルの言葉は軽く、それでいて地に足がついていた。
――いや、“空に根を張っていた”。
想太は、少しずつ、理解し始めていた。
この空には“秩序”がある。
形のない風の中で、それでも人は、方向を選んで生きている。
それが、この空賊たちの“掟”であり、“思想”なのだ。
「ありがとう、サミエル。……なんか、少しわかった気がするよ」
「ならよかった。じゃあ、また風のどこかで会おうな、ソウタ」
サミエルはそう言い残し、台車を押して去っていった。
その背に揺れる工具袋の音が、甲板に小さく残った。
想太は、天井の透明膜越しに空を見上げた。