第2話
「おーい、まだボサッとしてんのか」
崖の上から声がした。
見上げると、ヴァネッサが片手をひらひらと振りながら「一緒に来い」と言う。
「どうせ行く宛ないんだろ?」
想太は返事に詰まった。
確かにそうだった。
どこへ行けばいいのかもわからず、あてもなくさまよっていた。
「それとも、ずっとそこで燃えた鉄でも眺めてる? ま、悪趣味ってわけじゃないが」
からかうような声。だが、その奥にあるのは悪意ではなく、好奇心だった。
まるで、野良猫に声をかけるような口ぶりだ。
想太は、しばらく沈黙したまま立ち上がった。
身体にはまだ鈍い痛みがあったが、歩けないほどではない。
「……勝手について行って、いいのか」
「いいも悪いも、ついてくるのはあんたの勝手でしょ。
案内料は取らないから、安心しな」
そう言って彼女はくるりと背を向けた。
黒いコートの裾が風に翻る。
その背を、追うようにして、想太は歩き出した。
道はなかった。
だが、草の踏まれた跡と小さな石積みが、細い小道のように続いていた。
足元の地面は、赤褐色の岩と黄緑色の苔に覆われている。
そして、木々は――彼の知っているものとはまるで違った。
幹が螺旋状に伸びる樹。葉の裏側が銀に光る灌木。
風に揺れるたび、微かに鈴のような音を発する草花。
「……なんなんだ、この景色……」
思わず口に出した言葉に、ヴァネッサがちらりと振り返る。
「このへんじゃ“澪抜きの森”って呼ばれてる。
空と地の力が交差する場所らしいが――あたしにはただの“風通しのいい林”だな」
彼女の歩きは早かった。
それでも、想太は黙ってその背を追う。
空を見上げれば、雲がゆっくりと、けれど確かに流れていた。
陽光が差し込むたび、空気が輝くように見える。
鳥のような何かが遠くで鳴いた。
だが、その羽ばたきは見たことのない形だった
――四枚羽。
ひらひらと風に乗って、空を滑るように飛んでいく。
「ここは……山の上じゃ、ないんだよな」
「はあ?山の上?…どっからどう見ても平原だろ。ま、そう思いたいなら思ってれば?」
ヴァネッサの言葉に皮肉はあったが、それ以上の説明はなかった。
だが、その沈黙の奥には、“いずれ分かる”という確信があった。
想太はもう一度、空を見上げた。
高い。果てがない。
けれど――不思議なことに、怖くはなかった。
頭上に広がる空の先に、まだ知らぬ何かがある気がした。
そしてそれを知るために、彼女の背中を追っている自分に気づいた。
「ほら、あれ見てみな。ちょっとした観光名所だぜ」
ヴァネッサがそう言って、丘の向こうを指差した。
想太は草をかき分けながらその先へ足を踏み出し、そして――言葉を失った。
そこに広がっていたのは、あり得ない光景だった。
巨大な柱が地平線のように並んでいる。
それぞれの柱は樹木の幹より太く、鋼か石のような素材でできていた。
柱と柱をつなぐアーチ状の梁は、まるで天へと架かる橋のように交差していた。
「……何だ、これ……建物……か?」
だが、屋根も壁もない。
崩れた箇所も多く、中央には朽ちた塔が聳えていた。
その塔の外壁にはどこか宗教的な文様のような刻印が彫られており、苔と風に晒されながらも、今なお美しい曲線を保っていた。
「こいつは、昔の連中が残したもんさ。“旧時代の遺物”ってやつでね」
ヴァネッサは懐から小さな葉巻を取り出し、火をつけながら言った。
「何百年も前……いや、もしかしたらもっと昔かも。
ここいらの浮遊大陸が安定するより前に栄えてた文明の跡。
今でも場所によっては、“生きてる”遺物もあるんだぜ。
勝手に動いたり、喋ったり、空間が歪んだりな」
「……生きてる、って……建物が?」
想太は混乱したまま視線を彷徨わせる。
風に揺れる草の中に、崩れた回廊、転がる円形の機械片。
そのどれもが、“人の手による”ものであるはずなのに、常識から完全に外れていた。
「……なんだ、これ……」
「見たことないのか?別に珍しい光景じゃないはずだがな」
ヴァネッサは煙を吐きながら、塔の根元を回るように歩き始める。
「大陸のあちこちに転がってるさ。こういう“遺物”はな」
「…旧時代って、どう言う意味だ?」
「おいおい、そこから説明しなきゃなんねーのかよ…。まあようするに、“昔の時代”って意味さ。昔っつっても、数千年も前だけどな」
「…数千年」
想太はふと、塔の下に刻まれた不思議な紋様に目を留めた。
それはまるで回転する羅針盤のようで、中心には何かを象る“空白”があった。
「……この模様……何だろうな……」
「わかってるヤツなんていないさ。研究者どもは“空律構造の初期記号”とか呼んでたけど……
あたしにはただの“面白いガラクタ”にしか見えないね」
彼女は最後にそう言い捨て、軽く肩をすくめた。
だが、想太にはなぜか、この遺跡に“見られている”ような感覚が残っていた。
風が吹く。廃墟のアーチが音を立てて鳴る。
これはただの遺構ではない――まだ何かを語ろうとしている“過去”の生き残り。
朽ち果てた遺物に手を触れながら、静かに周りの景色を眺めていた。
遺跡を抜けると、視界が一気に開けた。
丘の向こうに広がるのは、草原と切り立った崖。
その下には、巨大な空の裂け目――ではなく、ただただ静かな雲海が続いている。
「なあ」
先を歩くヴァネッサに、想太は声をかけた。
彼女は振り返らず、「ん?」とだけ短く応える。
「……ここは、どこなんだ? 国の名前とか、地名とか……そういうの、あるんだろ?」
しばらくの沈黙。
ヴァネッサはふっと鼻で笑ったようだった。
「“どこ”ねぇ。おかしなことを聞くやつだな。記憶はないのか?」
「…あるのはあるけど」
「じゃあお前はどこから来たんだ?アストリアか?」
「言っただろ?俺は日本から…」
想太は記憶を思い返しながら、辿々しくもはっきりと言葉を並べていった。
故郷のこと、零戦のこと、そして、——昨日のこと。
自分に言い聞かせるように彼女に説明した。
ただそのうちに、自分の口から出る「言葉たち」がどこか滑稽に思えてきた。
記憶を思い起こすたびに、今自分が立っていることすら不思議に思えてきたからだ。
ヴァネッサが足を止めた。
そのまま、空を見上げるように指差す。
「見てみな。あれが“答え”だ」
空の高みを、飛空艦隊が渡っていく。
十数隻の中型艦が隊列を組んで南東に進行している。
帆が空を裂き、機関音が遠く唸りを上げていた。
その先頭を行く旗艦のマストには――赤銅色の双頭鷲が描かれていた。
金色の背景に、鋭い眼光を放つその紋章は、どこか宗教的な威厳を感じさせた。
「“ヴァルディナ帝国”。この大陸じゃ最大の空軍国家さ。あたしらが今歩いてるのは、その辺境領ってとこ」
ヴァネッサは、まるで道端の石でも指すようにあっさりと答える。
「……帝国……」
「ま、連中の言う“帝国”ってのも大層なもんだけど、空の上じゃあ領土なんて風まかせだ。
国旗なんざ立てても、風に吹かれりゃ消えるもんさ」
「……じゃあ、お前もその国の……」
「あたし? あたしは空賊。どこの国の犬でもないさ。風と契約して飛んでるだけ」
ヴァネッサはニヤリと笑い、片目を細めて想太を見る。
「でもあんたは、国ってもんに縛られてたんだろ? その制服じゃ、な」
想太は言葉を失った。
風が吹く。空に広がる艦隊が、ゆっくりとその姿を遠ざけていく。
彼の知っていた“空”とは違う。
戦場の空、命を落とす場所ではなく――この世界では、空こそが境界線だった。
想太は、空を見上げたまま、心のどこかが音を立てて崩れるのを感じていた。
小道の先、岩を抜けたところで――風が、変わった。
草の香りに混じって、焚き火の煙と、焼けた穀物の匂いが鼻をついた。
「……村だ」
想太が呟くと、ヴァネッサは口元だけで笑った。
「お出迎えはないけどな。あたしが来ると、だいたい皆裏口から物を隠すのに忙しくてさ」
その先に広がっていたのは、見たことのない建築の集落だった。
大小さまざまな建物が、岩と木を組み合わせて立ち並ぶ。
丸い屋根に銀色の布が張られ、壁には風紋のような装飾。
扉はなく、代わりに垂れ幕が風に揺れていた。
中央には、円形の広場。その中心にあるのは、火の回る炉――竈。
その周囲では、茶色い衣服の子どもたちが何かを焼いており、遠くでは水牛に似た獣が荷車を引いていた。
「……日本じゃ、ないな」
想太はついに、はっきりとそれを口に出した。
ヴァネッサは振り向かずに言った。
「あの村は“ウェンブ・ラサ”。ヴァルディナ帝国辺境の浮遊集落のひとつだ。
国の端っこの村だが、空賊にはちょうどいい」
「浮遊……?」
「この大地もな、下には地面がない。全部、空に浮いてる」
想太は足元の土を見た。
たしかに、どこか柔らかく、重力が微妙に違って感じられる。
風が、どこか下から吹き上げてくるような錯覚。
「さて――あたしは腹が減った。ついでに冷えた缶詰でも温めるか。ついてきな」
ヴァネッサはそう言うと、村の外れへと向かった。
彼女の足取りはまっすぐだ。だが、その先に何があるのか想太は想像できなかった。
村人たちは、ヴァネッサを見ると警戒するように目をそらした。
その反応は、彼女が“招かれざる者”であることを物語っていた。
それでも――彼女は、迷いなく歩き続けた。
やがて彼女が立ち止まったのは、村のはずれ。岩場に囲まれた簡易な掘り出し跡の奥だった。
そこに、それはあった。
艶のある黒い外装。帆と羽の中間のような展開機構。
両側に煙を排出するスリット。後方に斜めの補助翼。
小型の、だが鋭く、猛禽を思わせる――飛空艇。
「あたしの船だ。“バラッド・ワスプ”。古い部品の寄せ集めだけどよく飛ぶよ。
……あんたも、乗ってみたくなったろ?」
ヴァネッサはそう言いながらハッチを開けて、真っ先に中へ消えた。
想太はその背中を見つめたまま、一歩、土の上に足を踏み出す。
飛空艇の船内は、想太が想像していたよりもずっと“生活の匂い”がした。
天井は低く、床は金属の板張り。
壁には工具やワイヤーが吊るされ、小さなコンロと一人用の寝台。
雑然としているが、どこか整っている――機械に囲まれた狭い住まい。
「ほれ、食え。味は期待すんなよ。輸送用の干し肉と、空芋の煮物だ」
ヴァネッサが投げて寄越した皿を受け取り、想太は思わず問いかけた。
「……なあ、ひとつ聞いていいか」
「ん、何だよ」
「……空賊って、結局なんなんだ? お前は、何をして生きてる?」
ヴァネッサは一瞬だけ動きを止めた。
それから、じわりと口角を持ち上げて笑った。
「……あんた、ほんとに何も知らねぇんだな」
呆れと驚きと、少しの好奇心が混じった目で彼女は椅子に腰かけた。
「いいか、教えてやる。空賊ってのはな、“空を移動する生き方”の総称だ」
「……え?」
「この世界は“浮遊大陸”でできてる。大地は全部、空に浮かんでんだよ。
島によって気流も時間も違うし、物資の流れは全部、空路でつながってる。
つまり、空を制す者が物流を制し、情報を制し、生き残る」
想太は言葉を挟めなかった。
ヴァネッサは空になったマグカップを指先で回しながら続けた。
「国家や商会が正規航路を持ってるのは当然。
でもな、その“隙間”――取りこぼされた物資、戦火で崩れた交易網、漂流してる遺物――
そういうものを拾い、奪い、売る。時には戦って、時には逃げる。
それが“空賊”ってわけだ」
「……つまり、海の“海賊”と同じようなもんか……?」
「ま、そう思ってりゃいい。ただし、海とは違って、ここじゃ空が地平だ。
重力も天候も“風の流れ”も読まなきゃ即墜落だ。地図に載らないルートを知ってるかどうかが命の差さ」
想太は呆然としたまま、ヴァネッサの言葉を反芻していた。
「……浮遊大陸……空の地平線……」
「信じられねぇって顔だな」
「そりゃ、信じろってほうが無理だろ……俺の知ってる“空”ってのは、地上があって、その上にあるもんだった。
……“空に住む”なんて、絵本の中だけの話だと思ってた」
ヴァネッサはふっと笑う。だがその瞳には、どこか冷めた光があった。
「絵本? こっちじゃ、地上の方が伝説さ。
あたしも、一度たりとも“本当の地面”なんて踏んだことない。
誰もが“空の上”で生まれて、死んでく」
それは、想太にとって文化でも常識でもなく、“世界の法則そのもの”の否定だった。
「……そんなことが……本当に……」
ヴァネッサは豪快に干し肉に齧り付く。
想太をその様子を一瞥しながら、手渡された缶詰の蓋をクイッと広げた。
湯気が立ち上る茶色い塊に、箸のような器具を伸ばして想太は口に運んだ。
もそっとした食感。
中は熱く、だがどこか軽い。
芋に似ているが、地中で育ったものとは明らかに違う――空気を含んだ甘みと、軽やかな繊維質。
「……変な味だな……」
「空芋は浮遊苔の根っこを加工してんだ。地面じゃ育たねぇ。
気圧と浮力が不安定な地帯でだけ、自然にできる。栽培も難しいから、空賊はよく盗むんだよ」
想太は口をもごもごさせながら、その風味に慣れようとした。
すべてが、異質だった。
この村、浮かぶ大陸、空を飛ぶ艦隊。
そして――この目の前の女。
黒いコートを着て、足を椅子に乗せながら飯をかっこむ彼女は、どこか獣のようで、同時に誰よりも空に馴染んで見えた。
「……なあ」
ヴァネッサが、皿を置いて不意に口を開いた。
「改めて聞くけどさ、あれ――あんたが乗ってきた機体。
あれ、何なんだ? どうやって飛んでた? どこから来た?」
想太の指先が、わずかに止まった。
ヴァネッサの目は、真剣だった。
軽口ではなく、“本気の問い”として問うていた。
想太は、深く息を吸い、口を開いた。
「……あれは、零式艦上戦闘機――通称“ゼロ戦”。
エンジンは栄二一型――1,100馬力。最大速度は500キロ超え。
推進はプロペラ。最大積載量は…」
「待て待て、まずあれをどうやって作ったんだよ」
ヴァネッサは興奮気味に身を乗り出した。
椅子に片膝を立て、指先は想太の顔の前で落ち着きなく動いている。
「鍛造は? 冶金術か? あのリベット、どうやって精度出してんだ? ……まさかとは思うが、やっぱエーテルは使ってねぇのか?」
「え……? エーテル……?」
想太は言葉の意味がわからず、まばたきを繰り返した。
それを見て、ヴァネッサは今度こそ素で驚いた顔をした。
「おいおい……さすがにそれぐらいは知っとけよ」
「……何の話だ?」
「あれ、全部“内燃機関”で動いてんのか? 火、つけて爆発させて……?」
「そりゃまあ……燃料燃やして、ピストンで回して……プロペラで……飛ぶ」
「それだけで? ……浮遊装置もない? 浮力板も制御翼も?」
「制御翼ならある。エルロンとラダー、それにフラップだ。
でも……浮くってのは、空気の力でだ。揚力で。風を掴むんだよ」
ヴァネッサの目が、ぎらりと光った。
「“風を掴む”……いいな、その表現」
彼女はニヤリと笑って、机の上に手を叩いた。
「あんたがどっから来たのか知らないが、この世界じゃ「風」は制御対象だ。魔導炉でエーテル風を吸い込んで、浮力を作って、重力と釣り合いとって飛ぶ。推進力も旋回も、全部“風読み”の術式で調整してる」
「風を、読んで……調整……?」
想太は眉をしかめた。
「……それ、機械じゃないのか?
俺たちは地図と計器で飛ぶ。高度計、速度計、人工水平儀。
全部目で見て、操縦桿で舵を取る。……読める風だけが、信じられる」
「ふーん。合理的だが、ちょっと情緒がねぇな」
「逆だろ……お前ら、風を“術式”で操るって、それ……魔法か何かか?」
「何かって言われりゃそうだな。あたしらは“エーテル流”に意志を注ぐ。
空律に干渉して、風に形を与えるんだ」
「意味がわからん……」
「でも、お前が乗ってた機体の方がよっぽど狂ってるよ。
あんな細っこい羽で、空に耐えられるのかってレベルだった。
翼面荷重、どれくらいなんだ? それに材質。鉄か? アルミか?」
「主にアルミニウム。軽量化のために、あとはマグネシウム合金も……
でも俺は、飛ばす側で作る側じゃない。整備は触るけど……全部は知らない」
ヴァネッサは「だろうな」と頷いて、少しトーンを落とした。
「でもさ、面白いよ。
あの飛空艇を見る限り、風に信仰を与えるんじゃなくて、風を“攻略”してる。
こっちじゃ風は読み、祈り、繋ぐものだ。
風に嫌われたら墜ちる。基本的にはそういうもんだし」
「……風は、読むものだ。祈るもんじゃない。
嫌われたら堕ちる…って、こっちの風は……生きてんのか?」
「生きてるさ。風には流派があるし、性格も違う。
おまけに怒りっぽい。昨日通った航路が今日は使えないなんてザラだよ」
「それじゃ、まともな空路なんかできやしない」
「それでも空賊は飛ぶ。風と共に、——な」
想太は息を吐いて、背もたれに体を預けた。
「……なんだか、夢みたいだ」
「夢なら……まだ覚めてないってことさ」
ヴァネッサはからかうように笑い、少し遠くを見た。
「でもさ、想太――
お前の乗ってたその機体、本当に好きだったんだな。残骸を見てた時の目が違った。
機械を“信用”してる目だった」
想太は少しだけ、口元を緩めた。
「そりゃ……あれで空を飛んでたからな。命、預けてた」
「そっか」
ヴァネッサはゆっくりと頷き、火の消えかけた葉巻を灰皿に押し付ける。
「だったら、また飛ぶか?」
その問いに、想太はしばらく黙っていた。