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第1話



重たいまぶたを開けるのに、数十秒かかった気がした。


視界がじわりと明るくなる。

太陽がまぶしい。けれど、違和感がある。

――こんなに澄んだ空だったか?


寝転がっている。仰向けで、草の感触が背中にある。

湿ってはおらず、ほんのり温かい。朝の光を吸った草の香りが鼻をくすぐる。


「……っつ……」


身体を起こそうとすると、鈍い痛みが肩と腰に走った。

制服は所々裂け、血が乾いた跡がある。

右腕に火傷のような痕。だが、骨は折れていない。

靴は片方だけ脱げていた。


想太は、呼吸を整える。鼓動は落ち着いているが、胸の奥に不気味な空洞感があった。


「……俺は……」


記憶をたぐる。

出撃だった。

鹿屋基地を離陸し、南西諸島方面へ――爆撃艦隊を目指して突入。

そう、確か――海の上で、弾が、被弾音が……炎、煙――


「零戦……!」


がばっと上体を起こし、視線を走らせた。

ここはどこだ。海岸線か? 丘の上か?

だが、周囲には建物も人影もない。

緩やかな草の斜面が続き、遠くに、鳥の囀りが聞こえる。ふくよかな風が香る。


息を荒くして、草をかき分けて進む。

数十メートル先、小さな崖の縁に近づくと、彼はついにそれを見た。


崖下の岩場に、何かが転がっている。

焦げたアルミの破片。くすんだ鋲。布地の切れ端。

――間違いない。零戦の残骸だ。


だが、あり得なかった。


機体は、ばらばらだ。

主翼の一部、胴体フレーム。だが、規模が小さすぎる。

想太の知る零戦は、海に没すれば沈むはず。

ここは陸だ。しかも高い崖。

どうやってここに墜ちた? 自分だけが助かった? 誰が助けた?


視界が歪む。

疑問が追いつかない。

頭の奥で、耳鳴りが鳴る。


「……おかしい……これは……」


空を見上げる。

風の流れが、奇妙に感じた。

高い、高すぎる。雲が、どこか異様に速く、薄く動いている。

太陽の位置も、気持ち悪いほど真上に近い。


そして、なにより。


「……航跡が、ない……?」


この空に、他の機の痕跡が一切なかった。

敵艦隊も、編隊飛行の仲間も、無線も、何もない。


ただ、空がある。


あまりにも静かな、あまりにも澄んだ空が――ただ、広がっている。


想太は、荒い呼吸を繰り返した。


「まだ、夢でも見てるのか……?」


否。夢ではない。だが、現実とも違う。

ここがどこか。なぜ生きているのか。なぜ、自分だけなのか。


彼はまだ、何も分かっていなかった。

この青い世界と光の囁きが、

もう自分の知っていた戦場の空ではないということを。



風が、吹いている。


草の香りが濃い。湿り気と乾きを同時に孕んだ、熱を含む風だった。

それは、戦地の湿った海風とは明らかに異なり、なぜか空の匂いがした。


想太は、丘を越え、荒れた岩肌を踏みしめながら、ゆっくりと歩いていた。

歩けば歩くほど、身体の感覚は確かになっていく。

骨は折れていない。意識もある。食欲も、痛みも――“生”がある。


ここは、どこだ?


――海は、見えなかった。

だが、代わりにその先に広がっていたのは、果てしない白だった。


それは、海ではなかった。

水ではない。砂でもない。

それは、雲だった。


眼下に、どこまでもどこまでも広がる、雲海。


乳白色の流れが、ゆるやかにうねりながら、丘の下を満たしていた。

波のように静かに寄せては返し、ところどころに渦を巻いている。

太陽の光を反射して、まるで雪原のような光を放っていた。


想太は、しばらく立ち尽くしたまま、何も言えなかった。


「……これは……山か?」


そう思うのが、精いっぱいだった。

戦地への空路で見た富士山の頂を思い出す。

あの時も雲が眼下に広がっていた。

だが、これは違う。高すぎる。広すぎる。動きすぎている。


風が頬を撫でる。

やけに濃い風だ。

匂いがする。光が混じっているような、濃密な何か。

その風が、雲の海を静かに押し、また戻していた。


遠く、雲の上に――黒い点のようなものが、ゆっくりと動いていた。


「……あれは……」


よく目を凝らせば、それは船のような形をしていた。

空を航行する、巨大な艦影。

まるで、帆のついた船が、雲海の上を滑っているかのようだった。


想太は思わず自分の耳を引っ張り、頬を軽く叩いた。


「……夢じゃ、ない……のか」


彼の知る空ではなかった。

彼の知る、世界でもなかった。


それでも、いま自分がここに立ち、この空気を吸い、この雲を見ているという現実だけが、確かな感触として残っていた。


風が、静かに鳴く。

どこかで鳥のような鳴き声がした。だが、それもまたどこか奇妙な音程で馴染みのない“響き”だった。


そう思ったとき、不意に――風の中から、誰かの足音が近づいてきた。



「――おい、死んでんのか? それとも死にきれなかったクチかい」


声がした。

乾いた風の中に混じって、土埃のように音がさざめく。


想太が振り向いたその先、岩の上に立っていたのは――銃を背負った女だった。


真っ黒な短髪。片目を隠すように垂れた前髪。

黒いレザーコートを羽織り、ブーツで岩肌を踏みしめている。

その姿は、軍人でも村人でもなかった。どこか、野性と硝煙の匂いがした。


「……っ」


思わず一歩、身を引く。

彼女は警戒するでもなく、ただじっと、想太を見下ろしていた。


目が合う。

その視線には、敵意も好意もない。ただ興味だけがあった。


「そっち、生きてるのか?」


低く、よく通る声だった。イントネーションはなめらかで、標準語にも似ているが――

何かが違う。まるで、聞きなれない楽器の音色のようだった。


想太は喉を鳴らし、やっと声を絞り出した。


「……あんたは、誰だ」


女は面倒くさそうに肩をすくめる。


「質問を先にするのは、立ってる方の権利だろ? ……あんたが先に答える番だ。

なんなんだ、お前は。どこの所属で、あんな化石みたいな機体に乗ってやがった?」


「……俺は、大日本帝国……第二〇五航空隊、朽木 想太。鹿屋基地からの出撃だった。

……お前こそ……何者なんだ?」


女は一瞬だけ目を細め、黙り込んだ。

その沈黙は、答えを探しているというより、“正解かどうかを測っている”ようだった。


「……“だいにっぽんていこく”? ふうん」


興味深げに呟くと、女は視線を想太から背後の崖下へと移した。

焦げた匂いは、そこから立ち昇っている。


「あれ、アンタの乗ってた機体だろ?

……近くで見てきたけどさ、構造も材質も見たことねえタイプだった。エンジンの配線も妙だったし……リベットの打ち方なんて、百年は前の手法だな」


「何を言って……」


想太は混乱する。

彼女の言っていることが理解できない。

言っている意味はわかる。

言葉の節々には妙な”軽さ”があった。

強く、芯が通っていて、それでいて逞しい。

女とは思えないほどの気質。


そして、言葉遣い。


「まさか、あれが現役で飛ぶなんてね。……悪趣味なコレクターの仕業か、遺物屋のハッタリかと思ったよ」


その言い方に、想太は反射的に反発した。


「……どういう意味だ?」


「どうもこうも、そのままの意味だよ。どこの機体か知らないが、墜落したのも頷ける」


「…墜落って、俺が…?」


「あれを墜落って言わないなら、何を墜落って言うんだよ」


想太は混乱したままだった。


自分の今の状況を整理するには、あまりに時間がなかった。


バラバラの機体を見れば、自分の身に起きたことが“普通じゃない”ことくらいはわかる。


墜落したという言葉が胸の奥にスッとのしかかってくるのも、ある程度は理解できた。


だが、だとしても追いつかなかった。


息を吸って目を凝らしても、まるでここが“遠い世界の出来事である”ように思えた。


生きた心地さえしなかった。


だからこそ、動転していた。


自分の身に起きた出来事を思い出すように、握りしめていたハンドルレバーの手をぎゅっと握りしめる。



女は一瞬だけ表情を止め、それから口元を歪めた。


「へえ」


「俺は……墜落して、ここに……」


「“ここ”がどこか、まだわかってないんだろ」


女の視線が、想太の目を刺すように貫いた。


「……面白いな、あんた。名前は?」


「……朽木 想太」


「朽木、ね。ま、今はそれで覚えとくよ」


女は笑わなかった。ただ、目だけが強く光っていた。


「――じゃあな。あたしはもう少し、アンタの機体を見てくる。ああいう異物には目がないんでね」


そう言い残して、彼女は崖のほうへとゆるやかに歩き去っていった。

その背中を、想太はしばらく黙って見つめていた。



崖下に降り立ったヴァネッサは、慎重に地面を踏みしめながら、黒煙の上がる破片群へと近づいた。


風は強くなかったが、焼けた油と金属の匂いが鼻をついた。

想太という男が生きていたのが不思議なほど、衝撃と熱が走った跡がはっきり残っている。


「……壊れたもんだ。だが……これは……」


彼女の目が、残骸の一部――機体中央の破断面に注がれる。

丁寧にカシメられたリベット。剥き出しの骨格。

燃えた後でも判別できる鋼材の質感。

極限まで削ぎ落とされた装甲と、軽さを最優先にした設計思想。


「……信じらんねぇ。これ、魔導炉も浮力板も使ってない」


彼女はしゃがみ込み、焦げた主翼の断面に指を這わせた。

そこに残るのは――人力と風の“勘”にすがる、直線的な構造美だった。


「おいおい……“エーテル回路”がどこにもねぇ。ってことは……完全手動?」


魔術的な介入も制御系統もない。

船体の各部はワイヤーとレバー、そして直接駆動で制御されている。


「……すげぇな。まじで全部“操縦桿一本”で動かしてたのか?

乗ってたヤツ、命知らずってレベルじゃねぇ……」


彼女は機体の下部へ回り込み、プロペラの中心軸を確認した。

歪んではいたが、木製と金属の複合型で、巧妙に振動吸収機構が組まれていた。


「これ……“魔導推進”じゃなくて、“内燃機関”か……?

ってことは、爆発で回してるってこと? あはは、狂ってんな……でも……」


声が笑っていた。だがその瞳は、真剣だった。


「このプロペラ配置……偏心避けるためにオフセットかけてんじゃん。

しかもこの形状、空気抜けと昇圧バランスが計算されてる。……マジでどういう頭してんだよ」


ヴァネッサ・ジョーカーは、空賊だった。だがそれ以上に――飛空艇の魔改造技術者だった。


彼女が今乗っている機体は、自らがコアから構築したオリジナル艇。

エルゼレア製の古代エーテル炉を無理やり“風魔式”に転用し、

浮力調整帆と補助重心を手動で同期させる、“正規航行不能”の機体だった。


けれど、その彼女が今見ているこの残骸は――


「……何もかもが“人間だけ”で飛ばすために作られてる。

理屈じゃねぇ。これは、“信じてる”機体だ。

自分の腕と、風と、……空を」


彼女は、灰まみれのエンジン周りに手を当てた。

その金属はまだぬくもりを持っていた。

生きていた機械――死んでいった鉄の亡霊。


「……アンタさ、まじでこれに乗ってたのか?」


空を、風を、人力で制す。

そんな馬鹿げた思想が、この機械には見え隠れする。


それが信じられなかった。


「……“ソウタ”って言ったよな、あんた。おもしれぇじゃん」


彼女はゆっくりと立ち上がった。


空の風が吹いた。

彼女の瞳に映る男の姿は、もう“墜落者”ではなく、“技術者としての獲物”に向いていた。


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