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空の向こう、まだ誰も知らぬ地平へ




金属の軋む音が、夜明けの静寂を割いた。

まだ陽の昇りきらぬ滑走路に、白く霞んだ潮風が横たわっている。

風は冷たく、けれど湿っていた。

まるで、地面ごと海へ沈んでいくような重さがあった。

空と陸のあいだ、境界がにじむこの時間――それは、生と死がすり替わる時刻だった。


その中央に、一人の青年が立っていた。

零戦の翼に手を添え、何も語らぬまま機体の温度を指先で確かめている。


機体番号「五二型丙」。

かつて誇りと呼ばれたその白地に赤丸の塗装は、今や――

ただの「印」にしか見えなかった。

これから死にゆく者を識別するための、血の予兆のような赤。


「……冷たいな」


そう呟いて、右の主翼をなぞる。

汗もかいていないのに、手のひらがじんわりと濡れていた。

それは風のせいか、それとも――


青年の名前は、朽木くちき 想太そうた

十九歳。学徒出陣。

帝都の陸軍航空士官学校を在学中に戦地へと呼ばれ、“特攻隊員”として、今日ここに立っていた。


軍人らしい昂揚も、死を賛美する思想も、彼にはなかった。

「君が代」も「お国のため」も、音としては耳に届いたが、心には触れなかった。

それよりも、母から届いた手紙のかすれた文字。

弟の笑顔が写った、小さな白黒写真。

そういったものの方が、よほど重かった。


死ぬことを、誇りにしなければならない時代だった。

だが、彼の胸のうちに巣くっていたのは、

それでも生きたい、という本能的な――逃げたいという意思だった。


零戦は、美しい機体だった。

人の命よりも精密に、整然と造られていた。

その風防をなぞれば、指先に伝わる冷たさが、魂の所在を問いかけてくる。

主翼下には増槽、武装は削がれている。

風防の透明ガラスはまるで命を閉じ込める檻のようで、その内側に身を沈めた瞬間、彼はこの世と訣別する実感を得る。


左手で風防を開け、細く折りたたんだ体を滑り込ませる。

革張りの座席のひんやりとした感触。

太腿に重くのしかかる飛行服、腹に巻いた白帯、腰元には小さな遺書。

計器盤に目を走らせる――


主計器:燃料圧、油温、回転数、問題なし

高度計:ゼロを指す

姿勢指示器:水平保持


コンパスは北東を差し、目的地への針路を無言で指示していた。


右手が操縦桿を握る。固く、重い。

引けば生を呼び、押せば死へ突き進む。

その中立点に、自分の命のバランスがあるように思えた。


左手でスロットルレバーを倒す。

エンジンが咆哮し、機体が震える。

回転するプロペラがすべての音を呑み込んでいく中、その振動が機体全体を包み込み、骨にまで響いた。

空気が粟粒のように一斉に流れ込んできた。


発進準備、完了。


空を見上げる。

まだ昇りきらぬ太陽が、薄紅のベールを東に差していた。

その空が――彼には、どこまでも深い水面に見えた。


機体がゆっくりと前進を始める。

滑走路の端から、エンジン音を震わせながら加速していく。

全身が後方に引っ張られ、視界が一瞬で狭まり、やがて――


離陸。


前輪が地を離れ、機首がわずかに上を向く。

重力が切れ、空が彼を抱きとった瞬間だった。


「もし……空の向こうに、まだ別の世界があるのなら――」



その声は、風にちぎれて消えた。

誰にも届くことのない祈り。

それでも、彼の胸の奥で、その言葉は熱く燃えたままだった。


轟音が地を揺らし、機体は加速する。

誰もいない滑走路。誰も見ていない、最期の離陸。

だが彼の目には、はるか地平に、まだ知らぬ「空」が広がっていた。


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