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梅2

 スマホが震える。

 私へ連絡してくる人は、ただ一人。後藤しかいない。

 私が不在だった時間を取り戻すように、ぎっしりとお稽古が入っていたし、監視の目が厳しくなっている。あの旅行依頼、実際に顔を合わせて会えていないが、毎日連絡を取り合えるだけでも十分満足だった。

 今日もドキドキしながら、メッセージを開く。


『いい新居を見つけたよ。ここはどう?』

 添付されているアドレスを開くと、都内のタワーマンション。景色も最高だった。

 旅行の時、十分すぎるほど味わった自由がそこにも広がっているように見えた。値段は一億二千万円。

 すぐに指先を滑らせる。

『ステキだと思います』

『じゃあ、決まりだね。不動産屋に連絡入れておくよ』

 返信がすぐに来る。頬を緩ませていると、さらに返信がやってきた。

『さっき不動産屋と話してたんだけど、この物件すごく人気で今すぐ抑えないと、他に買い手がついてしまうっていうんだ。予約代わりの手付金は、僕が支払うつもりなんだけど、残りの残金は、申し訳ないんだけど、紅羽さんが一旦全額仮払いしてほしいんだ。僕ら学生の身分だから、ローン組むのが難しいらしくてね』

 幼少期からためてきたお小遣い。すべて使えば、支払える。

 この日のために、ずっと貯めてきたお金だ。断る理由なんてなかった。


『もちろん、大丈夫です』

『ありがとう! もちろん、今回支払ったお金は僕がちゃんと紅羽さんに、返す。心配しないで。じゃあ、後でお金僕の口座に送金してくれるかな? 急がせてごめんね』

『わかりました。後でお稽古へ行くとき、手続きしてきます』

『ごめんね。僕、紅羽さんに会いたいし、ついでに銀行にも一緒に行ければいいんだけど……僕もなんだかんだ、忙しくてね』

『気にしないでください』

『ありがとう。じゃあ、送金してもらったら連絡ください。すぐに不動産屋へ駈け込んで、契約してくるから』

『よろしくお願いします』

 そんな事務的なやり取りを終えた後は、ひたすら甘い話題が続いた。

 新婚生活の話だけでも、赤面してしまうのに、早く会いたいとか、愛しているとか、あまりにストレートすぎる言葉をぶつけてくる。私の頭は沸騰してしまい、返信に困ってしまうくらいだった。


 その後、私は銀行へ寄り、指定口座へ送金を終え、後藤に連絡を入れた。

 その足で日本舞踊の先生の所へ足を運んだ。


 ずっと日本舞踊は好きになれなかった。指示通り身体を動かすだけの時間は苦痛だった。早く終わればいいといつも思っていたが、今日だけは、いつまでも踊っていたいと初めて思えた。

 身体の動きに感情が込み上げて、情愛が伴っていた。つま先から、指先まで感覚が行き渡る。持っている扇子にまで、私の神経がつながっているような気がした。すべて踊りきっても、息も上がっておらず、疲れも全くなかった。高揚感さえあった。

 先生から「別人を見ているようだ。素晴らしい」と目を潤ませるほどの称賛の言葉をもらった。いつも何とも思わないのに、今日はその言葉が素直にうれしかった。

 稽古を終えて、帰路につく道すがら、後藤からの連絡を確認する。

 

『助かったよ。ありがとう。これで、準備万端だ』

 その通りだと思った。これで、私はあの家から、家族から離れられる。そう思ったら、いつも見る街の景色がキラキラ輝いて見えた。



 そして、約束の日曜日。

 朝早くから自室のドアを叩く音が響いて、目を覚ました。

 ドアを開けると藤枝が、立っていた。

「鏡花さん、こんな朝早くから母に、呼び出されたんですか?」

 いつも笑顔の藤枝の顔が、曇っている。私の質問に対する答えはなかった。

「お母さまから、このお着物を着るようにと。会食用だそうです」

 手渡されたのは、白色と朱色、金が基調になっている梅が所々にあしらわれた振袖だった。

 そのことに特段、不思議には思わなかった。これまでにも、大きな取引が成立した成果を祝う会食は行われていて、私は母のアクセサリー替わりとして、強制出席させられることはあった。今回も、そういう会なのだろう。私は、適当に話を合わせて、微笑んでさえすればいい。

 昔から、そう仕込まれている。それよりも、藤枝の方が気掛かりだった。

「ありがとうございます」

 感謝をのべても、藤枝の睫は伏せめがちのままだ。少し右下に向いた視線。独特な少し影を帯びた表情。私を気遣うときにいつも見せる表情と同じだった。

「どうかされたんですか?」

 たまらず私が聞くと、少し考るようにうつ向く。しばらくすると、顔を上げて、意を決したような顔つきを私に向けていた。

「実は……」

 言いかけたところで「鏡花! 今すぐ、来て頂戴!」母の呼び出しが邪魔していた。それでも、藤枝は口を開こうとしていたが、止めに入るようにまた「早く来てって言ってるでしょ!」ヒステリックな声が飛んでくる。

 藤枝だけでなく、私の方もビクッと跳ね上がってしまう。それでも、藤枝の足はなかなか動かなかった。

「私は大丈夫ですから。早くいかないと、鏡花さんが怒られてしまいます。行ってください」

 藤枝が何を危惧しているのかはわかはなかったが、小声で促してやる。すると、藤枝はぎゅっと眉根を寄せていたが、小さくうなずいて、母の方へ走り去っていっていた。

 一体どうしたのだろう。いくら考えても、思い当たることは何もなかった。

 

 自然お手元に視線が落ちる。その先には、大嫌いな赤い梅が、視界いっぱいに映っていた。

 藤枝への危惧は、真っ赤な梅のせいで薄らいでいく。

 もう私の人生の中で、着物に袖を通すことはもうないだろう。ましてや、梅の着物なんて、絶対あり得ない。

 このイベントさえ終われば、私は自由だ。

 この家からも、母からも解放される。

 これが、最後の試練だ。


 

 





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